二章 さきぶれの音 3

 孔雀姫の言うとおり、仮宮の門番の目は節穴で、労せず脱出することができた。

 夜闇に紛れ、イチは西の山道を駆け下りる。獣の気配すらない道を月明かりを頼りにくだって、夜明け前にイチはこもの三山のふもとの入口に出た。天都につながる道は、天の一族が管理する天道のみで、一度外に出てしまうと、それまで歩いていたはずの道はかゆらいで見えなくなる。今目の前にあるのは、セワの根が張りめぐらされた木道だ。


「地都までは歩いて三日……二日でいけるか」


 鳥の一族に捕えられたせいで、とんだ時間の無駄をした。

 とはいえ、孔雀姫から神器に関する情報を得ることができたし、姫がかさねに関しては協力的であることを確認できたからよしとする。孔雀姫がかさねに親しみを抱いているのは気付いていたが、実際に顔を見るまで信用することはできなかった。

 問題は大地将軍に奪われたかさねだ。

 南の方角を探して、イチは肩にかけた行李の紐を結び直す。冬の朝は遅い。木々のあいまから見える群青の空には、いちばん星が輝いていた。息を整えて、霜のうっすら張った木の根道を駆ける。常人なら、歩くのにも難儀するだろうが、夜目が利くイチは山の獣たちのように駆けることができた。

 鳥の一族にイチが捕らわれたとき、紗弓は確かに引き受けた、という表情でうなずいた。ならば、イチがいない間も、かさねに関して何らかの手は打っていてくれるはずだ。そういう信頼が、紗弓という女に対しては芽生え始めていた。

 昼夜、仮寝をするだけで走り抜け、二日後、イチは地都ツバキイチの玄関口にたどりついた。街門のそばにある駅家うまやに寄ると、イチあてに文が一通託されていた。ほどいた結び文には宿らしき名が書いてある。イチは馬の世話をしていた少年に宿の場所を教えてもらい、文を衿元にしまう。


「イチ!」


 指定された宿はツバキイチの港に近い裏路に面していた。見るからに古びた二階建ての小屋の前で、ヒトたち童が洗濯をしている。イチに最初に気付いたヒトが盥に足を入れたまま、大きく手を振った。


「ひどい怪我」


 かさねのゆくえを訊かれたとき、好き勝手叩かれたので、イチの顔や衣からのぞいた腕や胸元には無数の痣と切り傷がある。痛ましそうに顔を歪めたヒトの頭を軽くかきまわし、「紗弓は?」とイチは訊いた。


「数と湊のほうにいる」

「数? あいつ、まだいたのか」

「数は地都が故郷なんだって」


 自ら海に身投げしたという風変わりな数学者、数。すっかり忘れていたが、無事だったようで、まあよかった。

 イチはすぐに湊に向かおうとしたが、その前に手当てをするのだと言ってヒトが引き止める。ほかの童たちもがやがやとイチを取り囲み、腕や上着の裾をつかんで離さない。いつの間にか妙に懐かれたらしい。童たち相手に力でねじ伏せるわけにもいかず、扱いに困っていると、ちょうど紗弓と数が連れだって帰ってくる。


「あら、案外早かったじゃない」


 イチの姿にヒトほどは驚かず、淡泊に紗弓が言った。

 イチを濡れ縁に座らせたヒトは額に手をあてると、ひっという顔をし、いそいそと宿に引っ込んでしまった。肩に結んでいた行李を下ろして、草鞋の紐を解きながら「かさねのゆくえは?」と尋ねる。


「あんたって本当、それ以外眼中にないわよね……」

「は?」

「かさねのゆくえはわからない。でも、大地将軍の船の針路ならつかんだわ。滅びた海神が守る神器……それを探しに行ったようよ」

「やっぱりな」


 孔雀姫の話を聞いたとき危惧したが、予感が当たったらしい。


「船を出す前に、行商から魔のものを買い取ったという噂もある。わたしも行商づてに大地将軍の船の話を聞いたの」

「魔のもの? なんだそれは」

「海神の眷属とも聞いたけど、どうでしょうね。数十年前に海神が滅んで以来、あたりの海域は荒れていて、船乗りによれば、和邇わにの群れに襲われたなんて話もあるみたい。魔のものもそういった一種かもしれないわね」

「へーえ」


 そういえば、地都付近では数年前、あらぶる山犬が旅人たちを襲っていた。大地将軍の討伐でだいぶ数を減らしたようだが、今度は海か。


「あんたの力で、大地将軍の船を追うことはできるか」

「できなくはないわ。ただ、龍になったわたしの姿は目立つから、近づくには策を練る必要があるわね。あの将軍に釣り上げられるのは勘弁だもの」

「夜闇にまぎれたほうが、気付かれづらいだろうな」


 腰を上げようとしたところで、イチの身体がふいに傾いた。ちょっと、と紗弓が腕を差し出して受け止める。――あれ、なんだ、まずい。身体が動かない。

 女の肩に半ば寄りかかるようになってしまって、イチは眉根を寄せた。まるで身体が急に自分のものでなくなってしまったみたいに手も足も動かせず、その場にずるずると座り込む。イチの顔に触れた紗弓が悲鳴を上げた。


「やだ、あんた、ひどい熱じゃない。何で普通の顔して喋ってんのよ。ヒト!」

 

 盥に氷を乗せたヒトが紗弓の声でとたとたと駆けてくる。さっき驚いた様子でイチから離れたのは、氷をもらいに行ったかららしい。


「べつに平気だろ。それより……」

「それよりじゃないわよ。あんた、ひとの心配してるうちに自分が死ぬわよ。馬鹿じゃないの!」


 数、とおろおろとしている男を呼びつけて、紗弓はイチの腕に肩を回し、中へと運ぶ。褥に寝転がされて、泥と血の張り付いた衣を剥かれる。イチの身体に触れて、紗弓は深いため息をついた。


「こんなの放置してたら、そりゃ熱も出るわよ。ここまで歩いてきたの? 何日?」

「……忘れた」

「どうせ、あんたのことだから歩き通しだったんでしょ。馬鹿にもほどがある」


 清潔な衣に着替えさせて、紗弓は氷水で冷やした手巾をイチの首と額に置いた。イチはわずかに身じろぎをする。半身を起こしたかったからなのだが、さすがに本当にだめだった。紗弓が数に頼んで医者を呼んでいる声が聞こえた。


「そんなに無茶しなくたって、あの子だいじょうぶよ。結構しぶといし、わりに図太いし、簡単に死んだりしないわ」


 イチは薄く目を開いた。


「――……、」


 からからの声が吐き出される。

 それは、嘘だと。

 ひとは簡単に死ぬ。壱烏だってそうだった。絶対に死なないと思っていたし、死なせないと思っていた。だけど、死んだ。あまりにもあっけなく。同じことは繰り返したくない。もうなくしたくない。なくしたく、ないのだ。自分でも驚くほどの情動が湧き上がって、イチは目を細めた。それほどまでにあの娘が大事になっていたのだと、当たり前のことに気付く。


「だいじょうぶよ。あんた今、あの子がいなくて不安になっているだけ。正常に判断できなくなっているだけよ」


 こめかみにひんやりとした手が労わるように触れた。息を吐き出して、イチは目を瞑る。徐々に意識が混濁してまとまりがなくなっていく中、イチはこめかみに触れる女の手首を握りしめて、はやく、と呟いた。はやく行ってやらないと。あいつの身に危険が及ぶ、その前に。

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