一章 人魚の声 3

 かさねはあてがわれた部屋の寝台にひとり腰掛けた。

 ずいぶん長い一日だった気がする。イチたちとはぐれて、燐圭の船に釣り上げられて。生乾きだった衣は表面に潮がふいて、今はぱさぱさに乾いている。しおくさい、と袖のにおいを嗅いで呟き、かさねはじわじわと血が滲む手首に布を押し当てた。


「かさねどの。よろしいですか」


 癖のある甲高い声が外からして、かさねは瞬きをする。部屋に入ってきたのは、小柄な背丈の老婆――カムラだった。以前、地都で燐圭と相対したとき、この老婆もかたわらにいたので、顔は覚えていた。確か、燐圭が持つ太刀を鍛えたのがカムラだったはずだ。


「何用じゃ」


 警戒もあらわに尋ねると、「そう怯えられますな」とカムラは黄色い歯を見せて笑った。指先まで覆い隠すゆったりとした衣を着た老婆は、腕に包帯と小さな薬箱を抱えている。


「手当をしてやれ、と燐圭さまが仰ったので」

「要らぬ。これしきの傷、痛くもなんともないわ」

「左様ですか。あたくしはどちらだってかまいませんけど、悪い虫が傷口から入ると手が丸太のように腫れて腐り落ちることも――」

「……て、手当してくれ」


 引き返しかけたカムラを袖をつかんで引き止める。きひきひと咽喉を鳴らして、カムラは寝台に薬箱を置いた。傷ついたほうのかさねの手首を取り、竹筒に入れた水をかける。うう、と頬を歪めてかさねは俯く。カムラは手慣れた様子で、薬箱から取り出した軟膏をかさねの傷口に塗り、そのうえに薬草を置いた。


「そなたは、燐圭のまじない師、と言っておったな」


 かつて地都で、カムラが使った言葉を思い出しながら尋ねる。左様でございます、と軽い口調でカムラはうなずいた。


「あたくしたちは少しばかり樹木老神の加護を受けておりましてね。ひとより少々長い寿命と知識、いにしえの呪法を知っている」

「樹木老神? そなた、樹木星医じゅもくせいいと同族か」

「おやまあ、懐かしい呼び名を」

 

 鳥の巣のようなぼさぼさ髪やひとより小柄な背丈、黒目がちの丸い目は、そういえばかさねたちを助けてくれた森の古老を彷彿とさせる。カムラは愉快そうに目を細め、かさねの腕に包帯を巻いていく。


「同族、と申しますか。あたくしも昔は森の隠者として、世俗から離れて生きていた時期がありましたから」

「では、燐圭がそなたを引き入れたのか」

「誘ってくださったのは御主人さまです。けれど、あたくしも森での退屈な暮らしに飽き飽きしていた。ちょうどよい頃合いだろうとあたくしの意志で森を出ました。それからは御主人さまにお仕えしています」


 平坦な口調で説明するカムラは、嘘を言っているという風ではない。森の古老と呼ばれる彼らも、生き方はそれぞれなのだ。かさねたちを助けてくれた樹木星医は、隠者を装っていたものの、言葉や態度の端々に人間らしい情が見え隠れしていた。カムラはひととともに行動しているが、そういった情は薄そうに見える。


「ほかに、聞きたいことはございますか」


 尋ねられ、かさねはいぶかしげにカムラを見た。


「そなたは燐圭に仕えているのであろ。かさねにほいほい手のうちを明かしてよいのか」

「あたくしがちぃと口を滑らせたくらいで、揺らぐ御主人様ではございませんよ。それに、個人的にも天帝の花嫁には興味がございます。なにせ、我々の加護神がかつて愛した娘も、同じ天帝の花嫁だったのですから……」


 カムラが話しているのは、星和とひよりのことだ。ふうむ、と顎に手をあててかさねは考え込む。イチと離れ、予定は狂ってしまったが、燐圭の操るこの船は海の神器をめざして進んでいる。先ほどの会話から察するに、燐圭はある程度、神器の見当もついているようだった。


(しかも燐圭はかさねが神器を探していることは、知らない)


 かさねの側からすれば、これはまたとない好機ではないだろうか。つまりうまくやれば、燐圭が神器を手にしたそのときに横からかすめ取ることができるかもしれない。


(やれるか、かさねに)

(燐圭を欺くことが)


 沈思のすえ、かさねは伏せがちだった目を上げた。


「では、ひとつ聞く。燐圭の探している『神器』とはなんじゃ」

「神を降ろすことができる器。いにしえの時代、天帝が生まれたときにあたくしの先祖が鍛えた神具ですよ」

「そなたの先祖が?」

「ええ。あたくしはかつて天都にいた鍛冶師の末裔ですからね」


 何でもない口調だったが、かさねにとっては思いも寄らない話だった。


「天都の者は天都から出ないのだと思っておった……」

「何ということはない、失態を冒して天都から追放されたのですよ。あたくしの先祖が鍛えた神器には大きな欠陥があった。器自体が力を持ち、その形を変えるのです」

「形を変える、とは?」

「言葉のとおりです。最初に鍛えたときは『剣』のかたちをしていたものが、玉にも、鏡にも、あるいは空を翔ける鳥にも、地を這う蛇にも変わる。『剣』『玉』『鏡』、三つの神器はすぐにその形を変えました。むしろ、転生というのが近いかもしれない。千年経った今もそれらは流転を繰り返し、何がしかの形を取っているはずです」

「なんぞ複雑な……」


 カムラの言では、『剣』が『玉』のかたちをしていたり、『玉』が『鏡』のかたちをしていたりすることがあるという。頭がこんがらかってきそうだ。


「では、わだつみの宮にある『剣』も『剣』の形はしておらんと?」

「少なくとも数十年前までは、海神がきちりを守っていたようですから……。今は確かに別の形に変わっているやもしれませんね」

「そ、それでは見つけられんではないか……!」

「おやまあ、天帝の花嫁はずいぶんと神器に興味がおありのようで」


 かさねの胸のうちを見透かすように、カムラは薄く笑んだ。瞬きもしない黒い眸は底無しの鏡のようだ。うなじに冷たい汗が浮かぶのを感じつつ、かさねは胸を張った。


「そりゃあ、いにしえの神具だもの。気になって当たり前であろ。――神器を見分ける方法はあるのか」

「あります」


 にぃ、とカムラは今度こそ、はっきりとわらった。


「それは――」

「それは無論、花嫁さまであっても教えられません」


 かさねの唇にカムラの爪の長い二本の指先が触れる。どこか浮世離れした老婆であるが、その指には確かに人肌のぬくもりがあった。黙り込んだかさねを叡智を宿した目で見つめると、カムラは指を離した。


「今日の話はここまで。狭い部屋ですが、ゆるりとお休みください」


 見れば、手首にはきれいに包帯が結ばれている。腰を上げたカムラの小柄な背を見やり、「カムラ」とかさねは老婆を呼んだ。


「手当、ありがとう」


 頭を下げると、カムラは黒目がちの目を瞬かせる。


「礼なら、命じた御主人さまにお伝えくださいませ」

「燐圭には言わん」

「何故です」

「あやつは好かんもの」


 唇を尖らせてそっぽを向く。それがおかしかったらしい。くつくつと咽喉を鳴らして、「では、花嫁さまがそのように言っていたと御主人様に伝えておきましょう」とカムラはこたえる。やがて閉まった扉に向けて、別に伝えんでよいわ、とかさねはひとり悪態をついた。

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