一章 人魚の声 2

「どこへ向かっているかと訊いたな。この船はわだつみの宮をめざしておる」


 立てた膝に頬杖をついて、燐圭が言う。朱で丸がつけられた海図を思い出し、「わだつみの宮?」とかさねは聞き返した。


「海神が住まう宮のことさ。伝説では、水魔に守られ、海の底にあるという」

「よもやそなた、海神まで斬る気か」

「そういう気はない。というより、海神自体すでに消滅して久しいようだな。今はあるじを失ったわだつみの宮。そこに眠る、神器じんきに用がある」

「神器、だと?」


 よもや燐圭の口からその言葉が出るとは思わず、かさねは眉根を寄せる。イチとは離れ離れになってしまったが、もともとかさねたちも湊に戻り次第、神器に関する情報を集めるつもりでいた。

 ――神器を持って自分のもとへ来い。さすれば、花嫁のさだめからかさねを解放することができると、消えゆく間際、漂流旅神は言った。


「その顔だと、話自体は知っておるようだな。天の『鏡』、地の『玉』、海の『剣』。神の力を受け入れるためにつくられた、三つの神具。前ふたつは見つけるのにも骨が折れるゆえ、海神が守っていた『剣』をこうして探しているわけさ」

「しかし何故そなたが神器を求める? そなたの目的は天帝であろ?」

「その天帝が近々神器に降り立つと、大地女神が夢で私に託宣したのだ。私も千年前の地で天帝の姿を見たが、あれを斬るのはたやすくはないだろう。だが、神器に降り立った瞬間を狙えば、あるいは」


 燐圭の双眸が不穏に輝く。なんと昏いひかりなのだろう。ぶるりと震えて、かさねは口を閉じた。神々の頂に立つ天帝に、生身の人間が立ち向かうのは死にに行くのに等しい。けれど、神器という、こちら側の世界のものに降り立った状態であればどうだろうか。天帝であれど、こちら側の世界の制約を受け、太刀で斬ることもできるかもしれない。燐圭は本気だ。


「わだつみの宮の位置は目算がついておるのか?」


 燐圭の妙に自信がある口ぶりが気になって、かさねは尋ねる。海神が住まう宮ともなれば、常人では踏み入ることのできないまほろばの地であろう。広大な海のどこに通じているか、見当もつかない。しかしこれに対しても、燐圭は泰然としたそぶりでうなずく。


「わだつみのものはわだつみのものに訊け、とな」

「どういう意味じゃ」

「来い。見たほうが早い」


 かさねの腕を縛る紐を解き、燐圭は立ち上がった。さすがのかさねももう暴れ回る気は失せている。引き揚げられてからずいぶん時間が経った。今船を降りたところで、イチたちが乗っていた小舟からはだいぶ離れてしまっているだろう。

 考えると、得も知れない心細さがかさねの胸を締め付けた。今までもさまざまな死地をくぐり抜けてきたように思うが、たいてい隣にはイチがいた。強い気持ちでいられたのはそのためだったのだと、かさねは気付いた。


「どうした」

「……何でもない」


 せめて胸を張って、かさねは立ち上がる。腕には薄く赤い痕がついていたが、痛むほどではない。壁にかけてあった蜜蝋から火を移し、燐圭が扉を開ける。通路はすっかり暗闇に沈んでいた。船の外ではもう日が落ちたのかもしれない。前を歩く燐圭の、武人らしく筋肉が隆起した背を見上げ、かさねはその腰に太刀や武器のたぐいがないことを確かめた。

 少しだけ胸を撫でおろす。山犬すら一撃で倒すこの男に太刀を向けられれば、かさねなどひとたまりもないだろう。

 

(天帝を斬ると、こやつは言った)


 燐圭にとっては、天帝の花嫁であるかさねも目障りな存在にちがいない。六海で相対したときは、互いに天帝の花嫁の存在を知らなかった。黄泉で鉢合わせたときにはおのおの別の目的があり、それどころではなかった。今はどうだろうか。ここは燐圭の持つ船のうえで逃げ場がなく、かさねにはイチがいない。


(こやつ、かさねも斬る気だろうか)


 こぶしを握り、かさねは真意の見えない男の背を睨む。


(わからぬ)

(わからぬが……)

(今はたぶん、その気はない)


 もしも、かさねを始末しようと考えているなら、ふたりきりになった時点で太刀を持ち出しているはずだし、そもそも、海から引き揚げたときに命を取られていてもおかしくない。それをしないということは、燐圭にも燐圭の考えがあるということだろう。


「ここだ」


 燐圭が壁際に身体を寄せたことで、視界が開ける。小さな部屋のようだ。明かりを掲げられると、真ん中にセワで染めた布をかけた檻が置かれていることに気付く。さして大きくはない、子どもがひとり入れるくらいの木組みの檻だ。しかし、そこから漏れだす気配は禍々しく、かさねは思わずあとずさった。


「そ、そこにおるのはなんじゃ……?」

「この船の『針路』さ」

「針路?」


 かた、かた、かた……


 吹きつける風の音にまぎれ、檻のうちから微かな引っ掻き音がしている。ひっと呻いて蒼褪めたかさねを、燐圭はただ愉快そうに眺めた。


 かた、かた、かた……


 燐圭が止めなかったので、かさねはおそるおそるセワの布に手をかけた。不気味さよりも、この恐ろしさの正体を知りたい気持ちのほうが勝った。セワの布を一気に引き下ろす。微かな蜜蝋の明かりであらわになった檻の中をみとめ、かさねは声を失った。


「これは」


 木乃伊ミイラである。

 干からびた人魚がひとり、檻の中央に縛り付けられている。頭髪がごわごわと糸のようにまとわりつき、見開かれた目は空虚な硝子玉のようだ。浮き出たあばらや乾燥した膚と魚の尾は、優美さの欠片も感じられない。しかし驚くべきは――。


「生きておる……」


 かた、かた、と骨と皮の奥で微かに脈動しているのは、人魚の心臓だ。海水から離されてなお、この魔のものは生きている!


「燐圭そなた、なんとむごいことを……っ!」


 セワの布を放り、かさねは壁に背をつけた燐圭の衿を両手でつかんだ。燃えたぎるような怒りを向けられても、燐圭は平然とした顔をしている。


「勘違いをされては困るな。行商から買ったときにはすでにこの姿だった」

「だとしても!」

「海水をかけても戻らん。が、そなたの言うとおり生きてはおる。そして摩訶不思議なことに、こやつはそのときどきで向きを変えるのよ。この身になってもなお、わだつみの宮が恋しいらしい」

「『針路』とはそういうことか」

「ああ」


 うなずく燐圭に言葉にできない憤りを感じて、かさねは唇を噛む。かような姿にされたうえ、ひとに使われる魔のものが憐れだった。いったいこのものが、ひとに何をしたというのだろう。怒りのあまり、涙目になって震え出したかさねの手首を燐圭がつかんだ。


「この憐れな人魚を救ってやりたいと思っただろう?」

「なんだと?」

「こちらも困ってはいたのさ。何しろ方角は指せるが、意思疎通ができない。これではわだつみの宮まで近づけても、神器を見つけることは難しい」


 燐圭が懐から小刀を取り出した。武器はないように見えたのに、しっかり小刀を隠し持っていたらしい。後ずさろうとしたかさねの腕を固定し、燐圭はその手首を切った。


「っあ、あ、」


 浅く傷つけられた血管からみるまに血が伝う。傷口を押さえようとした手をつかんで、燐圭は無理やりかさねを引き立たせた。

 

「六海の地でそなたは龍神を癒そうとしたな? つまり、そなたの血は神霊に力が働くと解釈したがまちがってないか」

「うう……」


 痛みに頬を歪めて、かさねはとにかく燐圭から身を離そうとする。何のためらいもなく、ひとを傷つけられるこの男が恐ろしかった。だが、男の力でつかまれてしまえば、とても振り払うことができない。かさねを半ば引きずるように檻の前に立たせ、燐圭は血の伝う腕を中へ差し入れた。ほたり、と赤い雫が落ちて、人魚の顔面に降りかかる。ほたり、ほたり。それは乾いた膚を滑り、やがて吸い込まれていった。

 それだけだった。

 何も起こらない。

 それだけだった。


「……おかしいな。すべての神霊に働くわけではないのか?」

「い、いい加減にせいっ!」

 

 力が緩んだ隙に、かさねは燐圭の手を振り払った。血にまみれた己の腕を抱き締めて、燐圭を睨め上げる。


「そなたはおかしい。ひととして大事なものが欠けておる!」

「ほう。まるで自分はその大事なものとやらを持っているとでも言いたげだな」


 肩をすくめ、燐圭はかさねを見つめる。凍てつくような冷たい目だった。


「そもそも、私もそなたも、人か?」

「――……は?」

「人なのかと聞いている。天帝に愛されたそなたと、大地女神に愛された私と、すでに純粋な人からはかけ離れた存在になりつつあるのでは、と思うてな」

「そんな……そんなことは……」

「まあよい」


 蒼白になったかさねを一蹴して、燐圭は立ち上がった。


「部屋を用意させた。この船旅にはそなたも付き合ってもらうことになるゆえな。今日は休め」


 無骨な手がセワの染め布を檻にかけ直す。

 それ以上言い返すことがかさねにはできなかった。

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