一章 人魚の声
一章 人魚の声 1
「おーろーせえー!!!」
船のへりに足をかけようとするかさねを船員たちが羽交い絞めにして止める。はるか下方に見える冬の海は、黒々として荒れている。けれど、今飛び込まなければ、イチたちと離れ離れになってしまう。何よりも、この船は大地将軍――
「おやめなさい! 波に身体を打ちつけて死にますよ!」
「この船におるよりはマシだわ! 離――っ!?」
船員の腕を振り切ろうとすれば、後ろから首根っこをつかんで持ち上げられた。「離せというに!」とかさねは四肢をじたばたとさせる。
「なんぞ懐かしい光景だな、子うさぎさん」
咽喉を鳴らし、燐圭はかさねの身体を投網の上に放る。頭から網の中に突っ込んでしまい、かさねは呻いた。身を起こそうとしたかさねの腕を燐圭が後ろからつかむ。
「暴れるようなら、この腕は折るか縛るかするが? どちらが好みだ」
「かっ、かよわき乙女に何をする気じゃ!」
「魚と一緒に釣り上がった分際で、たいそうな口を利く。獲れたものをどう扱うかはこっちの好きにさせてもらおうか」
「かさねは下ろせと言うておる!」
「縛れ」
無慈悲に燐圭が命じた。
「腕と足もですか?」
「腕だけでよい。どうせ非力な娘で、軽く縛っておけば抜け出せん」
「かさねを見くびるでない!」
噛みつくように言い返すが、布らしきもので後ろ手に縛られ、甲板に転がされると、かさねはちっとも身体を動かすことができなくなった。芋虫のようにころころと甲板のうえを這って、悔しさから唇を噛む。
「この娘、どうなさいますか」
「手荒に扱うでないぞ。芋虫のような動きをしているが、これで小国の姫なのだ」
「姫……?」
信じられないといった顔つきで、船員が改めてかさねを見る。失敬な、とかさねは唇を尖らせ、転がされたまま胸をそらした。この水に濡れた可憐な乙女を前にして芋虫とはなんぞ。
「この船はどこへ向かっておるのだ?」
潮風を受けてはためく青色の帆を見上げ、かさねは尋ねた。小舟から仰いだとき、天を覆うような巨大な船だと感じたことを思い出す。確かに甲板は広く、十数人の船員が帆の調整や舵取りで動き回っていた。海の男らしく日に焼けた男たちの中で、燐圭だけはやや雰囲気が異なる。精悍な顔立ちをしているが、ひとふりの鋼のように引き締まった肢体は、海の男というより、やはり武人という言葉がしっくりくる。
「向かう先は、わだつみの宮だ」
「わだつみ……?」
眉根を寄せたかさねに、燐圭は薄く笑った。ひっきりなしに揺れる甲板上で転がりそうになったかさねをぞんざいに持ち上げる。
「ここでは積もる話もできそうにないな」
あたりを見渡して呟くと、そのままかさねを肩に担いで歩きだしてしまう。船から下ろされるどころか、別のところに連れて行かれそうになって、かさねは暴れた。
「離せというに! かさねに積もる話なぞないわ」
「そうつれないことを言うでない。私はこの船の長でな。海から引き揚げたものたちをどう扱うかは俺が決めるというわけだ。――少し外すぞ」
燐圭が船員のひとりに声をかけると、「方角はこのままでよろしいですか」と暮れ始めた空を指して船員が尋ねた。甲板には松明が焚かれ始めている。
「ああ。かの水魔が示す方角はこちらだ。また変わったら伝える」
「かしこまりました」
うなずき、男はきびきびと持ち場に戻る。船員というよりは水兵のようなものなのかもしれない。男たちからはかさねが嫌う野獣じみた血の臭いがした。
急な階段をくだって、船内の細い通路を歩く。人ひとりがかろうじて通れる程度の通路だが、燐圭が雑にかさねをぶら下げているせいで、足や肩をときどき壁にぶつけてしまう。下ろせ、ともう何度目かになる訴えをしようとして、かさねは壁に張られた海図を見つける。いくつかの島が点在する中、海のある一点に朱書きで丸がつけられていた。これがこの船の目的地なのだろうか。
「船には乗ったことがあるか、子うさぎさん」
「……この大きさのものはない。そなたは六海の地でも船を操っておったな」
「海辺の都が生まれゆえ、船はよく使う。地都周辺も、昔は海賊が荒らしてひどいものだった。奴らを追い返したのは私だ」
「ふん、自慢か」
「ちなみに、その海賊らが今はこの船を動かしている。いちおうは躾けたが、気性の荒さはそう治るものでもない。気をつけよ、という忠告さ」
みるみる蒼白になったかさねににやりと笑い、燐圭は奥の一室を蹴り開けた。狭い室内には備え付けの寝台がひとつあり、書き物机も置いてある。燐圭の私室のようだ。固い寝台のうえに燐圭はかさねを放った。むお、と呻き、かさねは腕を縛られたまま不格好に姿勢を立て直そうとする。寝台に片膝をついた燐圭が、かさねの後ろ髪をつかみあげた。容赦のない力に頬を歪めて、かさねは男の顔を睨めつける。
「それで、海では何をしていたんだ? 天帝の花嫁よ」
「そなたに話す義理などないな」
「イチがいないな。さては愛想を尽かされたか」
「そっ、そんなわけなかろ! イチとかさねはただいま熱愛中ゆえに!」
「ほーう?」
あんまり信じていない顔で燐圭がかさねを見下ろした。
上から下までひととおり眺めて、「ないな」と断じる。
「そなた、ちっとも熱愛中のおなごの顔をしておらんぞ」
「は? どこをどう見たらそうなるのじゃ」
「膚を見ればわかる」
「はだ?」
一瞬呆けた顔をしてから遅れて意味を理解し、かさねは思いっきり後ろに飛びすさった。
「下世話な! この好色家め!」
「ふん。熱愛を主張する女の反応ではないな」
肩をすくめ、燐圭は腰に佩いていた太刀を取って、床に置いた。大地女神が加護を与えたという太刀は、禍々しい怒気を放ち続けている。ひとの心を捻じ曲げる太刀だ。かさねはおそるおそる太刀を見つめ、ぴりりと膚を刺すような陰の気におののき、目をそらした。燐圭は何故か愉快そうにそれを眺めている。
「太刀が恐ろしいか」
「かさねは武器は……好かん」
「この太刀は黄泉まで参って、大地女神の加護を得たものゆえな。そういえば、あのときは世話になったな。簡単に死ぬとは思っていなかったが、そなたらも無事に黄泉から脱出できたようでなによりだ」
「そなたは、その太刀で天帝を斬るのか」
かさねは静かに燐圭を見据えた。
寝台の端と端に座したまま、ひととき視線が絡み合う。
「ああ。斬る」
一言、燐圭はこたえた。
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