四幕 神器鳴動編

序章 暗転

序章 暗転

 傾いた船から少女の身体がころんとまろび出る。


「かさね!」


 船のへりをつかみ、イチは少女に向かって手を伸ばした。何が起こったかわかっていないような間の抜けた表情のまま、かさねは暗い海原に落ちていく。ひるがえる袖の先に指が触れたが、つかみ寄せることはできず、横殴りの荒波がイチたちの乗る船を突き上げた。

 潮っぽい水飛沫が容赦なく降りかかり、そばで小さな悲鳴が上がる。海中に投げ出されかけた童たちとスウの首根っこをまとめてつかみ、イチは船にしがみついた。紗弓サユの龍尾が波をかき、船を安全な場所へ逃そうと動く。


「かさね!!」


 どこに落ちたのか、荒ぶる波間のどこにも少女の姿は見当たらない。イチの背にぞっと冷たいものが走った。あの娘は泳げない。海底に沈んでいく少女の姿がひとときイチの脳裏に明滅して消えた。舌打ちして、イチは船のへりに足をかけようとする。それを童――ヒトがしがみついて止めた。


「だめ」

「離せ、ヒト」

「だめ!」


 ぶんぶんと首を振って、ヒトは涙目でイチを見つめる。童の小さな身体を突き飛ばすことが、とっさにイチにはできなかった。後方で船にしがみついていた数が「イチさん、あれ!」と巨大な帆船を指差す。見れば、帆船が引き揚げた網に魚たちと一緒にかさねが引っかかっているのが見えた。あの白銀の塊はまちがいない。


「何やってんだ、あの馬鹿……っ!」


 引き揚げられた網は、船の甲板に降ろされたようだ。風を受けた船は速度を上げ、ぐんぐんと海原を割って進んでいく。航路の端に引っかかっていたため、イチたちの乗る小船には大波が次々襲いかかった。何とか船にしがみつこうとするものの、下から突き上げるような衝撃があり、船自体がまっぷたつに割れる。

 なすすべもなく、童たちと数、イチの身体は海面に叩きつけられた。冬の海水にもみくちゃにされながら、遠のく帆船に手を伸ばす。

 風を受けてひるがえる帆に描かれた紋は太刀。それが大地将軍・燐圭リンケイが掲げた紋であることは、遠のく意識の中で気付いた。


 ・

 ・


「イチ。……イチ」


 ためらいがちに肩をゆする手がイチの頬に触れる。その冷たさに一気に意識が覚醒して、イチはぱしりと女の手をつかみ取った。


「……紗弓」

「痛い」


 つかまれた手首へ目をやって、紗弓はぽつりと呟く。龍から人間の姿に戻ったらしい。濡れた黒髪がまとわりつく紗弓の白い裸身に一瞥をやり、イチは手を離して、自分の上着を押しつけた。海水を吸って濡れそぼっていたが、ないよりはよいだろう。

 どうやら船から投げ出されたあと、碧水ヘキスイ近くの浜に打ち上げられたようだ。そばには童たちや数も転がっていた。気を失っているようだが、首筋に触れるとあたたかく、息もきちんとしている。


「あんたが助けてくれたのか」

「わたしの先導で、溺死者が出たら寝覚めがわるいもの」


 無意識のうちにイチの目が探しているものに気付いたのだろう。「……かさねは見つからなかった」と紗弓は眉根を寄せて呟いた。そうか、と呟き、イチは海へ目を向けた。意識が落ちる直前に見えていた帆船は、今は影すらない。水平線の向こうで、鳥の大群が騒いでいる。


「あれは大地将軍の船だった」

「父上を討った、あの男の?」

「奴は天帝を討とうとしている。花嫁の……かさねの身が危ない」


 若干ふらつきながら、イチは立ち上がる。どのくらい意識を失っていたかはわからないが、そう時間は経っていないはずだ。帆船のゆくえを追わないといけない。


「ちょっとあんた、やめなさいよ。倒れるわよ!」

「うるせえな」

 

 腕に伸ばされた紗弓の手をわずらわしげに払う。それでひるむどころか、真っ向から立ちはだかってくるのが紗弓という女だった。気の強そうな眦を吊り上げて、「馬鹿じゃないの」と紗弓は鼻を鳴らす。


「あの男は狡猾よ。無策で突っ込んでも返り討ちにあう。あんた、そんなことも考えられないほど馬鹿じゃないでしょう。それとも、馬鹿? ただの馬鹿なの?」

「なら、どうしろっていうんだよ!」


 めずらしく、イチは声を荒げた。自分でもわかっている正論を返されて、苛立ちを隠せなくなる。それほど余裕がなくなっていた。天帝の花嫁たるかさねを大地将軍はどう扱うだろうか。あの男は目的のためであれば、女子どもだろうと容赦なく手にかける。かさねは、あの娘は、自分の身を守るということができない。


「落ち着いて」


 イチの肩をつかんで、紗弓は吐息が触れるほど顔を近づけた。


「顔を見てすぐに斬りつけたりは、あの将軍ならしないわ。手札を有効に使おうと策を練るはずよ。湊に行きましょう、イチ。あの大きさの帆船なら、出る前に船員を募っているだろうし、航路の話も聞けるかもしれない」


 紗弓の声は冷静だった。何かを言いかけて、イチは口をつぐむ。紗弓のように普段の自分なら考えただろう。そのことに気付いたのだった。沈黙していたのはつかの間で、イチは息をついた。


「……あんたの言うことが正しい」

「わかってくれてありがたいわ。頭を殴らなくて済んだ」


 イチの肩から手を離し、紗弓は童たちのそばにかがむ。まだ意識を失っている者が多いが、ヒトや数は目を覚ましたようだ。


「いち……?」


 目をこすったヒトがイチの名を呼ぶ。応えようと足を返しかけた直後、総毛立つような殺気を感じて、イチは動きを止めた。


「伏せろ!」


 短く命じるや、腰にくくりつけたままだった刀の柄をつかむ。振り向きざまに引き抜いた刀で、こちらに向けて飛んできた数本の矢を叩き落とした。激しい羽音ともに、無数の鳥たちが人身に転じて浜に降り立つ。白装束にみずらを結った、鳥の一族の者たちだ。気付いたときには後ろを取られ、イチは浜に引き倒されていた。


「山中で見失ったそなたが、よもや海にいたとはのう」


 紗弓や震える童たちの前にも、鳥たちが牽制するように立つ。ひときわ白く輝く髪を持った一族の長が、鳥たちの中から進み出て、砂浜に突っ伏したイチを見下ろした。


「花嫁御寮はどこだ、イチ」

「さあな。海のもくずになったんじゃないのか」

「抜け抜けと……」


 長が握る杖がイチのこめかみを打つ。焼けるような痛みが走り、目の前が赤く染まった。二度三度、杖でイチを痛めつけてから、紗弓たちが悲鳴を上げるに至り、鳥の長は眉をひそめた。


「あの者らは?」

「船の同乗者。それだけだ」


 そっけなく言って、イチは身じろぎをしようとする。とたんに後ろを締め上げていた鳥の若者がイチの背中を蹴り、肩を押さえつけた。こめかみから伝った血が目に入りそうになり、イチは薄く目を眇める。


「かさねはここにはいない。見てわかんねえのか」

「であるならば、天都にてそなたが申し開きをせい。天の長は、花嫁御寮とそなたを天都へ連れて来いと仰せだ。御寮のゆくえ、天都でゆっくり聞かせてもらおう」


 鳥の長は、杖の先端で無造作にイチのこめかみを叩く。傷口をわざと押されたせいで、頭痛がひどくなった。天の一族の長。泰然とした壮年の男の姿が、イチの脳裏によぎって消える。まったく似ていない、壱烏イチウの父親。眉根を寄せ、イチは視線だけを紗弓のほうへ向ける。こちらの意図を察してか、娘がしっかりとうなずいた。


「――っ!?」


 それを見届けたのを最後にイチの視界は暗転する。

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