終章 出航 2

「出航日和じゃ!」


 翌朝は快晴だった。

 穏やかな波の立つ海を見渡し、かさねは荷を担ぎ直した。


「ヒト、フタ、ミツ、シイ、イツ。皆いるな?」


 わらわらと集まった童たちに声をかけると、五人は無表情のまま、こくりとうなずいた。それぞれ庵を引き払う際にまとめた荷を肩で結んでいる。この童たちは何故かやたらにイチに懐いていて、浜で船の縄をほどいているイチを見つけると、親ガモを見つけた小ガモたちみたいに、一斉にそちらに向かっていった。足や腕に群がる童をイチがわずらわしげに手を振って、危ないから近付くなと言っている。結局面倒見がいいイチと童たちの姿は、なんだか微笑ましい。頬を緩めて彼らを見守っていたかさねは、浜に下りてきた紗弓に声をかけた。


「腕はもう平気か?」

「問題ない。碧水くらいまでなら、泳げるわ」


 髪を束ねていた紐を紗弓がほどくと、波打つ黒髪が背に広がった。袖からのぞいた腕にはまだ火傷の痕が残っていたが、傷は塞がり、痛みもだいぶ引いたようだ。治りが早いのは、デイキ神の癒しの力が働いたからだろう、とイチが言っていた。


「のう、紗弓どの」


 浜に並んで立って海を眺めながら、かさねの脳裏によぎったのは、占場で途方に暮れたようにたたずむ紗弓の姿だ。龍神をよみがえらせるつもりだった、とあのとき紗弓は泣き腫らした目をして呟いた。できると思っていたわけじゃない。だけど、何かにすがっていないとやっていられなかったと。


「この旅は、紗弓どのには何も得られぬものであったかの」


 静かに尋ねる。短い沈黙があり、かさねが目を上げると、紗弓は眉根をきつく寄せて唇を噛んでいた。どこか泣き出しそうな顔だった。


「知らないわよ、そんなこと」

「そうか」


 苦笑気味に眉をひらくと、おもむろに紗弓が手に握ったものをかさねのほうに突き出した。飾り玉のひとつが割れた朱色の――それはかさねの守り紐だった。あの占場でとっさに島巫女にぶつけて、そのままになっていたものだ。


「あんたのでしょ、これ」

「ああ……。もしかして探してくれたのか?」

「別に。落ちていたのを拾っただけよ」


 それを探したというのだがのう、という呟きは胸にしまっておく。


「ありがとう。これはとても大切なものであったから」


 割れた飾り玉は布に包んで衿元にしまい、守り紐を握り締める。朱と銀糸をより合わせた守り紐は、乳母の亜子が編んでくれたものだ。ひとつに束ねた髪にそれを結び直していると、私のほうよ、とぽそりと紗弓が呟いた。


「うむ?」

「御礼を言うのは私のほう。あんたと……あいつが私をたすけてくれた。人間は好きじゃない。だけど、ハナさんとフエと一太と芸座のみんなと……あんたたちは嫌いじゃない」

「そうか」


 きゅっと守り紐を結んで、かさねは相好を崩した。


「かさねもこの旅で、紗弓どのがとても好きになったぞ!」


 すると紗弓は急に頬を赤らめて、「わ、私は嫌いじゃないって言っただけよ」とごにょごにょと歯切れ悪く呟いた。そう恥ずかしがらずともよいのに、と思ったが、にんまりと口元を緩めるだけにしておく。

 

「そろそろ出るぞ」

「ええ」


 イチの声に応じて、紗弓は小袖のあわせをくつろげた。ためらいもなく衣を脱ぎ去った紗弓が、白く滑らかな肢体を海に投じる。みるまに銀色の鱗が娘の身体を覆い、若い龍が現れた。なんと、とイチと船を出していた数がたまげた顔をする。


「今の世にまだ龍がいたとは……」

「紗弓どのはそれは恐ろしゅう龍であるからの。戻っても他言するでないぞ」


 ふふんとかさねが笑うと、数は本当におののいた様子で首を何度も振った。

 童たちが乗り込んだ船をかさねとイチと数とで、せーの、で押す。漕ぎ出でた船に、イチの助けを借りながら飛び乗った。紗弓が白銀の身体を翻し、船を引いて進みだす。デイキ島の岬では、島に残ることを決めた島民が手を振って見送っていた。それに大きく手を振り返し、緑深き島のすがたを瞼裏に刻み込むように、かさねは一度目を瞑った。


「また会おう、デイキ神」 


 沖に出ると、潮風のにおいがいっそう濃くなる。空を翔ける海鳥の声が聞こえてきた。日輪と重なるようにさっと羽を広げた鳥影を仰ぎ、かさねは新たな旅へと想いを馳せる。


 ・

 ・

 ・


「しっかし腹が減ったのう……」

「あんたは結局それか」


 昼過ぎに行程は中ほどまできた。最初は外の海を興味深げに見ていた童たちも、今はいびきをかく数の横で身を寄せあって眠っている。紗弓には悪いが、心地よい揺れはどうにも眠気を誘う。大きなあくびをしていたかさねは、ふと遠目に船影を見つけて、「イチ」と男の腕を叩いた。


「先に船が見えるぞ」

「ん? ああ、でかいな」

「紗弓どのー。前に船があるぞ、ぶつからんようになー」


 水面に鼻づらを出した龍に向かって呼びかけると、わかっているわよ、といわんばかりに尾で水を叩かれた。顔面に水飛沫が降りかかり、口に入った海水のしょっぱさにかさねは顔をしかめる。

 しかし、見慣れないかたちをした船である。かさねたちの櫓で漕ぐ小舟とはまるでちがう。船自体が島か何かのような大きさで、風に向けて張られた帆は白々と輝き、船首のあたりに小さく人影が見える。いったい、誰の船なのだろう。かさねもいくつか湊を見て回ったが、かように大きな船は見たことがなかった。天を貫かんばかりの船首をぽかんと見上げていると、イチがわずかに腰を浮かせて、「おかしい」と言った。


「速い。どんどんこっちに近付いてくるぞ。紗弓!」


 早く針路を変えろとイチは声を荒げる。紗弓も船の存在には気づいているらしい。必死に右へ捲こうとしているのだが、まるで船のほうがこちらを追いかけてきている

ようなのだ。日輪を遮り、船影が小舟を覆う。その頃には数や童たちも異変に気付いて、起き出していた。


「なっなっなんですか、あの船は……!」

「今よけようとしている!」


 船が近付いたことで波が打ち寄せ、かさねたちが乗っていた船が大きく揺れた。頭から海水をかぶってしまい、塩気まじりのそれに噎せる。


「おい、全員で端に寄るな。船が傾く――」


 イチが注意を促しているさなかだった。再び襲った大波で船が傾く。ひゃっと悲鳴を上げて、ヒトの身体が船の外へ飛び出しかけた。


「ヒト!」


 少女の身体を両手でつかんで、なんとか船のほうへ戻す。直後である。横殴りの波が船の側面を叩き、両手を離していたかさねはころんと船のへりから転げ出た。


「ええっ?」


 まぬけた表情のまま、あっけなく水面に叩きつけられ、荒れ狂う海の中でもみくちゃにされる。泳ぐどころのはなしではなかった。上も下も、右も左もわからない。もがいたかさねの腕を誰かにつかまれた、気がした。そしてそのまま粗い目の網に放り込まれる。何が起きているのだろう。気付けば、かさねは引き揚げられる網の中におり、見知らぬ船上に網ごと転がされた。魚もいくつか入っていたらしく、腹のうえでぴちぴち跳ねている。


「うう……」


 もがき回ったせいで四肢のあちこちが痛い。身体にまとわりつく網を払って、頭を振っていたかさねは、自分の前に二本の足が立ったことに気付いた。とん、と肩に担がれていたらしい太刀の先端が眼前に下ろされる。


「なんだ。龍を捕えたかと思えば、とんだ珍客だな」


 かすれがちの低い声には覚えがある。

 相対した、幾度となく。イチと天都をめざす途中。六海の地で。あるいは千年前の天都で。ゆるゆる顔を上げると、予感は確信に変わった。


「大地将軍……」


 顔を歪めたかさねに、男は肩をすくめた。


「よもや神器探しのさなかに、天帝の花嫁が網にかかるとはな? これはなかなかついているじゃないか。――なあ、かさねどの」


 背後で水兵たちがせわしなく駆けている。かさねは舟に残してきたイチや紗弓たちのことを思った。にわかにせり上がった不安をよそに、かさねと燐圭を乗せた船は、風を切り裂いて大海を進む。

 

 

【漂流旅神編・完】

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