終章 出航
終章 出航 1
デイキ神の言うとおり、島を取り巻く海流は早晩消えたらしい。これならば船が出せると、流れを見にいった紗弓が教えてくれた。
喜んだのは数だ。島巫女にいつ喰われるともしれない恐ろしい日々を経て、若いみそらで海に身投げした青年は、反対に生きる気力がむくむく沸いてきたらしい。この数日はイチを手伝って、せっせと船の補修にいそしんでいた。
ちなみに紗弓に島巫女に身体を乗っ取られたときの記憶はないようだ。釈然としない顔で、右腕にできた火傷の痕をさする紗弓の姿を何度か見かけたが、そのうち気を取り直したのか、進んで海を見にいくようになった。
紗弓の回復を待ち、かさねたちはデイキ島を出ることに決めた。島巫女を失ったヒトたち童も、ともに連れていくつもりだ。くるい芸座ならば、童たちのよい引き取り手を見つけてくれるだろう。ほかに残った生者は、島外に戻りたい者は迎えの船を寄越し、島で暮らしたい者はそのままに、ということでまとまった。
「まあるい月が出ているのう」
かさねは大きく伸びをして、波の打ち寄せる夜の浜をひとり歩く。くじいた足はあのときデイキ神に癒してもらっていた。おでこと頭の後ろのたんこぶはそのままだったが、こちらはたいした怪我ではない。月明かりの下、草履を摘まんでしばらくぶらぶらと歩いていたが、やがて自分たちが打ち上げられた浜のあたりで足を止めた。雲ひとつなく晴れ渡った空には満月が架かり、波間に光の筋をつくっている。静かな夜だった。
「島の者たちよ。かさねたちはあした、ここを出て行くぞ」
目を閉じれば、人々のにぎやいだ声が聞こえるかのようだった。豊饒の海、緑深き島、そこに暮らす心やさしき島人たち……。草履を置いてかさねは浜に立ち、すいと伸ばした手を天へかざす。そして裸足のまま、ひとさし短い舞を奉じた。
春は春告げの舞、夏は雨乞い、秋は豊穣、冬には次の年への祈念を。莵道の地に伝わる舞は数多あり、かの地を離れてもいくつかは身体が覚えていた。
今舞っているのは鎮魂の舞だ。
伸ばした手が潮風を招き、月のひかりが濡れた足元で跳ねる。夢とうつつのあわいで舞うかさねの前を、島でいちばんお転婆な少女が駆けていく。
(デイキさま!)
少女は嬰児のように丸まった彼を迷いなく見つけて、にっこり微笑んだ。
(見つけました、デイキさま)
かゆらぐ少女の姿に重なるようにして、朗々たる歌声がどこからともなく聞こえてくる。赤ら顔をした島人たちが料理を囲んで手を打ち鳴らし、月夜の浜辺で踊っていた。そこには何故か、死んでしまった円や団もいる。かさねはふふんと口端を上げ、しずやかな舞をやめて足を鳴らした。
「どじょうがいっぴきー、にひきでー、つがいになってー、ぐるっとまわったらー、はいさんびきー」
(おう、いいねえ嬢ちゃん!)
(よい声だ!)
手を鳴らす島人たちと掛け合いながら、かさねの歌声は夜の島にのびのびと響いた。ふう、と息を吐いて、額に滲んだ汗を拭う。つかの間のまぼろしの宴は、歌声とともに消え去った。あとにはまた、絶え間ない潮騒がさざめくばかり。
「なんで終わりがどじょう踊りなんだよ」
「おわっ」
乱れた衿元を直して顔を上げると、片膝を抱えて岩に腰掛けた男がこちらを見ていた。
「イチ、そなた……いつから……!?」
「それなりに前から」
まったく気づかなかった。誰もいないと思って好き勝手舞っていたので、なんとなく照れくさいような気分になり、「そうか」とうなずいて、かさねは視線をそらした。イチが少し隣をあけてくれたので、草履を拾って座る。
「島人の魂を慰めていたのか」
「まあ、そんなところじゃ」
イチの肩にほてりと頭を乗せて、かさねは目を瞑った。
「久しぶりに舞ったら疲れた」
「……帰るか」
「うむ……。でももう少し、このままがよい」
喋りたくないときは喋らなくていい。
イチの言葉を思い出して言うと、「ああ」と特段気にした風でもなくうなずき、イチは肩にかけた上着を広げて、かさねを入れた。それきり緩やかに落ちた沈黙を波音が埋めていく。イチはこういうとき、手慰みに口琴を吹く。ひょろろろ……。鳥の声にも似た笛音が、波の残響と重なり合ってうつくしかった。
「結局、神器とやらを探すことになってしまったのう……。次の旅に持ち越しか」
ぽつんとかさねは呟いた。
デイキ神が消える間際に言い残した「神器」。イチによれば、神器は剣、鏡、玉の三種があるという。そのうちのひとつを持って、転生した自分のもとへ来いとデイキ神は言った。
「鏡は天に、玉は地の下に、剣は海に、という言い伝えがある。……ただ、俺の知る限り、天都に鏡はなかったな。地の下も場所柄、難しいだろう」
「ならば、『剣』か」
この広い海のどこにくだんの「剣」が眠っているのか、皆目見当もつかなかったが、探せといわれれば、探すほかない。何度壁に突き当たってもあきらめないと、かさねは決めたのだから。考えつつ、薄紅の痣に目を落としていると、ふとイチの手がかさねの額のあたりに触れた。
「半分――って、どうしたらもらえるんだ?」
「へ?」
「くれ。今、あんたの『はんぶん』」
苦しいとき。悲しいとき。
どうしようもなくつらいとき。
半分にしよう、とかさねはあのときえらそうに胸を張った。
「いや、くれと言うてもな……」
へらりと笑おうとして顔が強張る。
「ほんに渡せるわけじゃ」
あれは方便に過ぎない。
すぐにぼろぼろになって帰ってくるこの男の命を守るための。
だから、まさか、こんなかたちで。
(かえされるとは、思わなかった)
ひっと小さく咽喉を震わせて、かさねは涙が溢れてしまう前にイチの胸に顔をうずめた。それで、そのときになって初めて、自分がつかんだ希望以上に深く落胆していることに気付く。デイキ神を見つけたら。見つけたら、どうにかなると思っていた。この忌まわしい花嫁の証からも解放されると。でも、ちがった。だめだった。
だからまた、がんばらないといけない。
また、旅に出る。立ち上がって、かぼそい希望をめざして。
「でも、本当はもう旅になど出とうない……」
何度でも。
「……旅の終わりはいつもこうなのだ。ひよりも、龍神も、円や団も、旅で出会ったひとたちは皆死んでしまった。何度繰り返しても、慣れぬ」
いったいあと何度。
何度繰り返したら、この旅は終わるのか。
「かえりたい」
ずっと絶対に言わないと決めていた言葉が、するんと口からこぼれ出る。はずみに大粒の涙が溢れたので、かさねは目を瞑った。
「もうやめたい。莵道にかえりたいぃいいいい……っ!」
イチはかさねの背に腕を回したまま、しばらく動かなかった。それから、そっと頭を肩のほうに引き寄せて、うん、と呟く。
「俺もやめたい。こんな、あんたが傷つけられてばかりの旅」
「でも、そうしたらひよりが……! 星和も、孔雀姫も……紗弓やハナや、デイキ神だって……、みなかさねをたすけてくれたのに」
「ああ」
「かさねも……かさねもがんばってきたのに」
「ああ」
「イチだって――」
「あんたがやめないなら、俺もやめない」
イチの言葉は、澄んだ星の瞬きのようにかさねの胸に飛び込んできた。
「だからずっと半分、俺にくれ。いつかこの旅が終わって、あんたが莵道へ帰るまで。つきあうから。俺があんたをあの里に送り返してやるから、必ず」
呆けた顔でかさねはイチを見つめる。かさねの擦り傷の残る額のあたりに指の背をあてたイチは、そっとそこに唇を触れさせた。たぶん深く考えていない。それゆえに愛情深い仕草だった。口付けをされたわけでもないのに、ほわほわと頬が熱を持ち、かさねは涙目のまま、視線をそらした。
「そっ、そなたは時折、真顔で恥ずかしいことをするから嫌じゃ」
「……何だって?」
「知らぬ!」
言い合っているうちにこらえきれなくなったので、男にぎゅっと腕を回す。
いつかこの旅が終わったら、かさねは生まれ育った故郷に帰りたい。この男と、帰りたい。そして、その先もずっとともにいてほしいのだと、告げることはできるのだろうか。いつか、この長い旅の終わりに。
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