七章 漂流する神 4

 見つけておくれ、とあの不思議な夢の中でデイキ神は言った。

 みすぼらしい姿となったわたしをどうか見つけて、人間の娘、と。

 デイキ神はすでに零落し、魔のものに変わり果てているのでは、とイチや紗弓は推測していたが、あの夢を見たかさねにはそれはちがうとわかる。


(デイキ神は零落などしておらぬ)


 自分を待つ島巫女をよすがに、この島をめざした漂流神は。

 力を失った今もなお、この島を愛している。島を取り巻く海流が、残された恩寵のしるし。

 腫れた足を庇いながら姿勢を正して座し、かさねは夢の記憶をたどる。葦舟に乗せられ、この島へと流れ着いたデイキ神。そして老い衰えた、今生のデイキ神のすがた――……。


(あっ)


 この島にはじめて打ち上げられたとき、出会ったものを思い出す。

 足を引っかけて転びかけたあの、


(水死体)


 かさねは目を開き、あたりを見回した。もの言わぬ骸と化した円や団を改めて目の当たりにして、思わず俯く。今まであまりのむごたらしさから、なるべく目に入れないようにしていた。だが彼らとて、この島に巣食う禍にのみこまれてしまった憐れな者たちに過ぎないのだ。


「すまぬな」


 空ろに開いたふたりの眼窩に手を置き、目を閉じさせる。弔いの言葉を口にすると、かさねは岩壁を支えに立ち上がった。足を引きずって、そう広くはない占場を歩き、雨水のたまった水盆近くに打ち捨てられたの前で足を止める。干からびて萎んだ身体は、嬰児のように折り畳まって、ひっそりとその場所に横たわっていた。

 ――今生のはすでに力尽き、もっともみすぼらしい姿となって、その場所にいた。

 誰にも気付かれず、かえりみられることも、もはやよみがえるだけの力もなく。

 天都から追放されたときと同じ、ただの骸の姿で。


「見つけたぞ」


 膝をつき、かさねは骸を腕に抱き起こす。自分が何をすべきなのか、かさねには自然とわかった。頬にかかった髪を耳にかけ、身をかがめる。


「あなたを見つけた。デイキ神」


 そして窄んだ口に唇を重ねた。



 *



「その身体は紗弓に返してもらう。それとかさねの居場所を教えろ」


 焦げた髪におそるおそる触れた女をイチは睥睨する。紗弓の顔をした島巫女は唇を噛んで、緩く首を振った。


「わたくしがあなたの言うとおりにすると?」

「これ以上痛い思いをするのは嫌だろ。さっきはあいつの身体だと思って髪で済ませてやったが、出て行く気がないなら次は顔をつかむ」

「ひどいひと。龍の娘のほうなら、どうなってもいいのね」

「所詮は、道行きが一緒になっただけの女だ」


 先ほど島巫女の髪に触れたイチの右手は赤く爛れて、蒸気を上げている。島巫女があとずさると、岬の突端から石が転げ落ちた。はるか下には海。前方をイチに塞がれている島巫女に、逃げ場はなかった。状況を理解したのか、島巫女は足を止めて、薄くわらう。どこか開き直ったような表情だった。


「この冬至にもやはりデイキ神のお戻りはなかった……」


 一年でもっとも短い陽は、もうだいぶ西に傾いている。斜光を背負った島巫女は、疲れ果てた老女の顔をして呟いた。その肩では、青の羽織が頼りなくはためいている。


「うすうす気づいてはいました。あの方はもうこの島に戻ることはないのではないかと。いくら待っても、再びあの方にまみえる日はないのでは、と」


 ならば、と島巫女の目が決然とした光を宿す。

 冷たいものが背筋を這い、イチは考える間もなく前に飛び出していた。紗弓の身体に宿ったまま、島巫女が岬から身を投じようと足を蹴る。紗弓の纏った衣の袖が翻り、崖の下に落ちる――その腕をすんででイチはつかんだ。


「ぐっ」


 青い火花が走って、イチの手とつかまれた紗弓の腕がみるまに爛れていく。女の身体だが、さすがにひと息に引き上げられるだけの重さではない。イチは左手で岩場をつかんで、右腕に力を込めた。


「余計なことをしないで」


 痛みのせいか、イチの行動自体が不快だったからか、きつく眉根を寄せて、島巫女が訴えた。


「わたくしにはわかる。この娘は死にたがっていた。愛する者を失い、自分を責め、途方に暮れて……わずかな希望さえ見失って、もう疲れ果てていた。この娘自身が虚無の塊だったから、ずっとできなかったわたくしの転身が成功したのよ。さあ、手を離して。この憐れな娘をともに連れて行くのがわたくしの最後の情け」

「よくわからねえ理屈を、ごちゃごちゃうるせえな。その娘はハナからの預かりものだ。死なせるわけにはゆかない」


 ずるん、と手の皮が剥けて、紗弓の身体が傾きそうになる。それをなんとか両手でつかみ直した。焼き鏝をじかにあてられているような痛みに顔をしかめる。崖下に今にも引きずり込まれそうなイチの足に小さな影が飛びついた。ヒトだ。心配してひとりイチを追いかけてきたらしい。島巫女は、どうしてか悲しそうに涙を浮かべた。


「愛する者が生きてそばにいるあなたには、わたくしたちの気持ちなどわからないわ。ねえ、だから、どうかもうおやめになって――……」


 わからない。

 わからないに、決まっている。

 他人の気持ちなど。

 愛する者を失い。

 自分を責め。

 途方に暮れて。

 わずかな希望にすがる、そんな馬鹿のことなんか。

 ――けれど。だけど、だからこそ。

 イチは今、とても腹立たしい。島巫女の説く理屈のすべてが、イチにはむしょうに腹立たしく感じられるのだ。喪失と悔恨を抱えたまま海に沈むなら、この娘には本当に何も残らない。何ひとつ。道先で別の宝と出会う機会も、永遠に失われる。

 

「おまえも黙って聞いてないで、さっさとこっちに戻ってこい! 紗弓!」


 こちらを見つめる青い目が大きく開く。

 そのとき、懸命にイチを引っ張っていたヒトが力尽きて、ぽてりと岩場に転がった。はずみに紗弓とイチの身体は空に投げ出される。


「いち……!」


 ヒトの叫び声が途切れる。

 眼下には、波に削られて尖った岩肌。叩きつけられたら、無事で済まないどころか、身体が粉々に砕けるにちがいなかった。紗弓の頭を引き寄せ、イチは目を瞑る。身体がぐんぐんと引き寄せられるように落下する。落ちて、落ちて、落ちて――。強い潮のかおりがくゆった。叩きつけられる。覚悟した瞬間に、潮まじりの風が逆方向からイチと紗弓の身体を巻き上げる。

 まるで、何がしかの大きな手のひらにすくいとられたかのようだった。気付けば、イチは波の打ち寄せる岩肌に紗弓とともに転がっていた。


「イチ! 紗弓どの! 無事か!?」


 探していたはずの声が頭上からして、イチは眉をひそめる。銀色の鳥にも似たまばゆい何かが波打ち際に降り立った。その背につかまっていた少女が転がるようにこちらに駆け寄ってくる。


「なんだ。あんた、いなくなったんじゃなかったのか」

「デイキ神を見つけて戻ってきたのじゃ。そなたときたらまた……かさねが目を離した隙にぼろぼろになって……」


 涙を溜めて、かさねはイチの爛れた両手を見た。


「デイキ神?」


 うむ、とかさねが仰いだ先には、銀色のまばゆい光源が鳥の姿をかたどってたたずんでいる。ゆらりと身を起こした紗弓が「デイキさま……」と呟いた。


「デイキさま、お戻りになったのですね……」


 紗弓の手が光源に触れると、徐々に光が収束して、若い青年の姿に転じる。

 千、ととても大切な音を転がすように、青年が島巫女の名を呼んだ。


「そなたを迎えに来たのだ。島にたったひとり残したそなたを」


 少々時間がかかってしまったが、と苦笑し、青年が腕を広げる。紗弓の身体からひとりの少女の影が飛び出すのをイチは見た。洗練された今の島巫女の所作とは似ても似つかない。毬が跳ねるように元気よく駆け出した少女は「デイキさま!」と破顔して、青年の腕に飛び込んだ。うれしそうに青年の胸に頬擦りをする。

 変わり果てる前のこの姿こそが、本来の千だったのだろう。

 千をその腕に抱いた青年は、白の衣をさらりと揺らして頭を下げた。


「衰えたわたしに、力を与えてくれた。そなたは恩人だ、人間の娘」

「そなたが待ち人と再会できたのなら、よかった」

 

 イチのかたわらで、かさねは微笑んだ。


「島をさまよう魂たちはわたしが千とともに連れて行こう。島を取り巻く海流の力もそのうち消えるはずだ」

「待ってくれ、デイキ神」


 かさねの腕を支えに、イチは身を起こす。白い光に包まれたデイキ神は、穏やかな表情でイチを見つめた。デイキ神の銀色の目には、天帝とは異なる人間らしい慈悲がある。ともしたら、とイチの胸に一抹の希望が湧いた。この神には、ひとの想いや言葉が通じるかもしれない。


「こいつがあんたを助けたというなら、代わりに叶えてほしい願いがある」

「それは花嫁のことだね? 天のすえの子よ」


 イチの胸のうちを見透かした様子で、デイキ神はうなずいた。


「そうだ。こちらの願いはひとつ。この娘から天帝の花嫁のしるしを取り除いてほしい。あんたの転身の力で、それはできないか?」

「願いには代償が必要だ……それでも?」

「俺の右目の恩寵ならやる。足りないなら、命も。魂も」


 イチ、と隣でかさねが制止の声を上げる。ならぬ、とその声は言いたげだった。

 イチの真意をはかるようにデイキ神はしばらくこちらを見つめていたが、そのうちかなしげに微笑んだ。白い光を帯びた手のひらがそっとイチの手に触れる。


「そなたの願い、叶えてやりたいが、今のわたしにはもうそれをするだけの力が残っていない」


 デイキ神が触れるや、赤く爛れていた手はみるまに痛みがおさまり、もとのものに戻っていった。今の自分にできるのはこれくらいだと、デイキ神は苦笑した。


「けれど、ひかりを与えることはできる」

「ひかり?」

「『神器ジンキ』を探しなさい、ひとの子よ」


 厳かにデイキ神は告げた。


「神を降ろせるだけの強力な神具――『神器』を手にすれば、花嫁の力をそこに移し替え、壊すこともまた」

「できるのか?」


 尋ねたイチに、デイキ神は顎を引く。


「わたしは次はもっとも非力な姿で、再び地上に生まれよう。神器を見つけて、わたしのところまでおいで。必ず、花嫁をすくってあげよう」


 はらはらとデイキ神の周りで光の粒が舞っている。衣をさなりと鳴らして背をかがめ、デイキ神はかさねの額に口付けを落とした。


「これは約束のあかし。――ありがとう、人間の娘。みすぼらしいわたしに口付けをくれたのは、千をのぞいてはあなたがはじめてだった」


 千を引き寄せ、デイキ神がさっと銀の翼を広げる。島のあちこちで淡い光が瞬き、デイキ神のかいなへと吸い込まれていく。何百の迷い子となった魂を連れ、一羽の鳥と転じた神は空に舞い上がった。白いひかりの奔流が、天を翔ける。最後にささめきめいた千の笑い声を残して、デイキ神は今生での生を終えた。

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