七章 漂流する神 3

 誰かに呼ばれた気がして、イチは島の頂きを仰いだ。

 しかし潮風がそっとこめかみを撫ぜただけで、探していた面影は見当たらない。いなくなったかさねを探して一晩が明けたが、いまだ少女の消息はつかめずにいた。小さな島にもかかわらず、まるで神隠しか何かに遭ってしまったみたいだ。紗弓や島巫女の姿もあの日以来、見ていない。残った島人に事の次第を話したが、芳しい反応はなかった。


「や、やっぱり社にも誰もいませんでした……」


 同じくかさねたちを探していたスウが浮かない顔でそう報告する。息をついて、イチは浜に転がされた小舟に腰掛けた。大丈夫ですか、と心配そうに数が尋ねる。


「顔色が悪いですよ。昨晩もあまり休んでないんじゃ……」

「うるせえな」


 悪態をつくと、数はひっと口をつぐんだ。よっぽどイチの形相がひどかったようだ。顎を伝った汗を無事なほうの右腕で拭って、冬の灰色をした海原を見渡す。今日は冬至だった。本来、デイキ神が降り立つとされるその日――。


「まさか、道を外れた……なんてことありませんよね?」


 イチの前にしゃがんだ数がぽそぽそと呟く。

 

「ここは島を取り巻く海流で守られている。島を出て行かない限りはねえだろ」

「じゃあ誤って海に落ちた……とか」


 イチの眼差しが剣呑なものに変わったので、数はまた口をつぐんだ。

 冷静に考えて、莵道の継承者であるかさねに命の危険が迫れば、何がしかの異変が大地に起こるはずだ。あるいは川に落ちたときと同じように、天帝が救いの手を差し伸べるか。そちらのほうが状況としてはたぶん、まずい。神の救いには必ず代償が伴うからだ。


(莵道をひらくんじゃねえぞ)


 三度目の莵道は。

 異界のものと化すことを意味する。

 かさねはすでに二度莵道をひらいた。次はない。


(何があっても、ひらくんじゃない)


「イチさん。あれ」


 さん付けが慣れていないイチは、胡乱な目を数に向けた。数が指をさした先では、ヒト、フタ、ミツ、シイ、イツ、珍しく五人の童たちが集まって何かを取り囲んでいる。


「どうした?」


 声をかけると、童たちは感情のない目でイチを見つめ、足元に横たわったものを示した。ひい、と数が震えあがってイチの背に隠れる。そこに転がっていたのは、食い荒らされたひとの腕だった。肉から骨がのぞいた腕には、白い千早がまとわりついている。見れば、島に住むハゲタカが木の上で肉をついばんでいた。


「島巫女……か?」


 イチの問いかけに、ヒトがこっくりとうなずく。

 イチの前から逃げ出したとき、千には息があった。あのあと、何らかの原因で死んだのか。ヒトがイチの指を握る。身を寄せ合った童たちの目にはうっすら涙が浮かんでいた。島巫女の転身のために使われていた童たち。心をなくしたように見えた少女たちはそれでも島巫女を慕っていたようだ。


「島巫女が死んだということは、私たちを閉じ込める島の呪いもなくなったのでしょうか……」

「いや」


 腰袋から出したセジの葉を千早のうえに置いて短い弔いの言葉を唱え、イチは立ち上がった。腕の持ち主はたぶん死んでいる。この身体の島巫女に拾われた童たちが悲しむのはだから、まちがいではない。けれど。


(不変の呪いはそんななまやさしいもんじゃない)


 あれだけの怨念と執着をためこんだ島巫女がたやすく消え去るようにはイチは思えなかった。それに衣を剥がしたときの島巫女の身体。確かに衰えが目立ったが、とても数百年を生きたものには見えない。百年がせいぜいといったところだ。つまりこの身体の前に、別の身体でいた時期が島巫女にはあったのではないか。そしてデイキ神の恩寵の衰えによって巫女が失いつつあったのは、別の身体に魂を移す「転身」の力のほうだったのでは。


「ヒト」


 それで思いつくことがあって、イチは童の肩に手を置く。


「紗弓を見たか?」


 首を傾げたヒトに対して、ミツが「あっち」と遠目に見える岬を指差す。高台にゆらりと立つ人影をみとめて、あいつ、とイチは呟いた。


「イチさん、どこへ……」

「ここのことは任せた」


 言い置いて、きびすを返す。

 思えば、すぐに気付くべきだったのだ。島巫女の社から戻ってきて紗弓を見たとき、何かが二重写しになるような違和感があった。片目ぶんの恩寵を失ったイチの目は、前と同じようには神霊を捉えられない。そのことにイチ自身がまだ慣れていなかった。 


「紗弓」


 岬の端に立っていた少女は、イチの呼びかけに一拍遅れて振り返った。

 目を凝らすと、やはり紗弓に別の女が重なるようにして立っている。


「何よ」

「あんた、やっぱり知ってんだろ。かさねがどこにいるのか」

「また、それ?」


 わずらわしげに紗弓が髪をかきあげた隙に、イチは間合いを詰めた。反射的に逃げようとした少女の髪をつかむ。ぱん!と蒼い火花が弾けた。少女の顔に二重写しになった女がおびえた目をイチに向ける。その表情には見覚えがあった。


「島巫女。あんた、紗弓の身体をのっとったな?」


 *


 きゅるるるる、と動物の鳴き声のような音が聞こえたので、かさねは目を開いた。どうやらその鳴き声を上げているのはかさねの腹の虫らしい。


「腹がへった……」


 呟いて、かさねは鼻の上にとまった蠅を追い払った。叫び疲れた咽喉はがらがらにかすれて、いつもの声が出ない。占場で動けなくなって一日半。満足な手当もできなかった足首はぱんぱんに腫れ、見るも無残な姿に成り果てた。足が発する熱のせいか、意識が朦朧としている。このままこの場所で寝転んでいたら、次起きたときには屍のひとつに変わってそうだ。


「はらがへった、のう……」


 昨晩、いったいどれほど泣いただろう。

 今は涙も枯れてしまって、頬が塩っぽく引き攣っているだけだ。ぽてりと止まった蠅をかさねはもう追い払わなかった。


「あにさまー」


 爪の割れた手の間からのぞく空に向かって呼びかける。


「あねさまー。亜子ー。ちちうえ、ははうえ、イチ……」


 ふっと口元を緩めて、かさねは目の上に手を乗せた。


「おらぬよな。皆」


 ――たすけて、さしあげましょうか。


 その声は、打ちひしがれたかさねの耳元で確かに響いた。金の光の鱗粉が目の前に収束し、鳥のかたちを作る。それは千年前の天都で見た鳥の姿に酷似していた。


「てん、てい……?」


 嘘だ、とかさねは思った。

 かの神はたやすく地上に姿をあらわしたりしない。

 だから、これはかさねの心が作り出したただの。


 ――私の花嫁、ここからたすけてさしあげる。


 まぼろし。


「……ほんに? ほんに、かさねをたすけてくれるのか?」


 ――おいで、こちらに。


 鳥が声を発するたびに、金の光が雨のように舞う。かさねがそろそろと手を伸ばすと、鳥は甘えるように首を擦り寄せた。


 ――ほら、もっとこちらに。はやくその、矮小なひとの器など捨て去って。


 力が欲しい、と何度思っただろう。

 自分を守れる力。誰かを守れる力。

 運命すら乗り越えることができる強い力を。


「そなたのもとに行けば、それは手に入るのか?」


 鳥は身体を膨らませただけだった。

 かさねは鳥が首を擦り寄せた左手を見下ろす。薄紅の痣がにわかに脈動を始めていた。腕の内側が熱い。まるで別の生き物みたいに蠢く腕をそろりと天に掲げる。かさねは目を瞑った。


「莵――」


 そのとき、ぱしんと。

 何かに腕をつかまれた気がした。


 ――ひらくな。


「……ならぬ」


 それで我に返り、かさねはゆるゆると首を振った。


「ならぬ、それは」


 三度目の莵道は、異界のものとなることを意味する。

 かえれない。

 もうこちら側にはかえられなくなる。

 たとえ、女神に比する強大な力を手に入れたとしても、それはもうかさねではない。

 ――かさねはそうならないためにイチと旅をしていたのではなかったのか。

 熱に浮かされて惑乱していた思考がすっと冷める。かさねは一度目を閉じて、己の頬をぐいぐいと引っ張ったり押し込んだりした。落ち着け。


「は、腹が減った! かさねは腹が減ったぞーーーー!!!」


 とりあえず外に向けて今の自分の窮状を訴えてみた。

 思えば、昨晩から一日半、何も口にしていない。頭がぼんやりしてきて当然だった。目をこすると、先ほどあんなにはっきり実体があったかのように見えた天帝はもうどこにもいなかった。花嫁をあらわす誓約印も、もとどおりになっている。


「かさねは生きておる。これはただちに死ぬ怪我ではない。島巫女に乗っ取られた紗弓どのが心配じゃ。――今、かさねにできることは?」


 ぱしん、と両頬を叩き、かさねは改めて腐臭の漂う占場を見渡した。

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