七章 漂流する神 2
ずいぶん長い間、眠っていた気がする。
十年、あるいは百年になるか。外の世界でどれほどの時間が経ったのか、わたしにもわからない。ここにはわたしを起こす者もいなければ、わたしを呼ぶ者もいない。かつては、わたしの名をいとしげに呼ぶ大切なひとが、わたしにもいたような気がするのだけど。漂泊のすえに、いつしかわたし自身もわたしの名を忘れてしまった。
(だれだ)
わたしは。
(だれ)
意識の底で、ひらり、ひらりと光が閃く。そのまばゆさにつきんとこめかみが痛み、まどろんでいた意識が一気に覚醒した。
「否! かさねは、かさねじゃ!」
声を上げたはずみに無数の気泡が吐き出される。目を瞬かせ、かさねは自分の身体が海中に沈んでいることに気付いた。
(むお、息が……息が……っ!)
焦ってじたばたと四肢を動かし、はるか彼方にある水面に手を伸ばす。けれど、水をかいているはずの手足には手ごたえがなく、身体が浮き上がる気配もない。それどころか。
(息が……できる?)
眉根を寄せ、試しにすぅと息を吐いてみる。水中にもかかわらず、地上にいるかのように楽に呼吸をすることができた。水の冷たさや息苦しさも感じない。
(ここはどこじゃ)
掲げた己の手のひら越しに泳ぐ魚の姿が見えた。群れになった魚はさっと向きを変え、かさねの身体を通り抜けて泳ぎ去る。どうやらかさねは今、透き通った霊体のようなものになってしまったらしい。とすれば、ここはデイキ島の近海か。金の光が射し込む海は、豊かな緑色をしていて、かさねが知る今の姿とはまるでちがう。遠くで時折きらめく光は、魚たちの鱗だろうか。
(きれいよの)
頬を緩ませ、かさねはすいと水をかいてみた。手ごたえはなかったが、水の流れに乗って身体が前に進む。眼下にはのんびりたゆたう海藻や、岩礁に広がる珊瑚があり、大小の魚たちや水獣が豊穣の海を謳歌している。太古の――まだ人が少なかった頃の海だと、かさねは直感した。
そのうち、頭上でぱしゃんと微かな水音が立つ。
ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。
幾条もの光が射す水面がかゆらぎ、一艘の葦舟が海を切り裂いて進む。
(あれは……)
デイキ島へ入るときに幻のように見た光景だ。
やがて緑深き島にたどりついた葦舟は、そこに住まう島人に迎えられた。かさねも葦舟の力に引きずられるようにして、島の浜に降り立つ。浜に打ち上げられた葦舟を見つけた島人は、中にいた「彼」の姿を見て、かわいそうに、と胸を痛めた。長い旅のすえに、彼の身体はすっかり朽ち果てていたのだ。
島人たちは手足をこごめて横たわる彼の亡骸を葦舟から引き上げると、島の頂きにある墓場で弔いをした。彼と島との縁はこのようにして結ばれた。
次にこの世に生まれ落ちて目を開けたとき、彼は島女の胸に、赤子のすがたで抱かれていた。彼の銀色の目を見て、母が息をのむ。あなたさまは、と呟いた人間の母に、「デイキ」と彼はかりそめの名を告げた。
そこで得た生で、彼は島を襲う嵐や海難を告げ、島人たちを守った。次の生では人間の妻を得て、神の祝福を与えた。その次と次の生で、彼の祝福は外界から島を守る海流へと変わった。外の戦乱からも、嵐からも隔てられた平和な日々。
豊穣の島で、島人たちは彼らの神をよく愛したが、やがて穏やかな日は唐突に終わりを告げる。風土病である。島に生息する虫を媒介して感染する病は、彼が死して次に生まれ落ちるまでの間に島中に蔓延し、島人たちは次々息絶えていった。結局、彼が転生を果たして戻ったとき、祝福を与えた娘以外ひとりの島人も残っていなかった。娘はそれでも島に帰ってきた彼を愛したが、ひとのいなくなった社は朽ち、祀る人間を失った彼は神としての力を徐々に失っていく……。
岬にひとり立ち、彼を待つ妻――島巫女の姿を最後に、襞がめくれるように目の前の情景が移ろう。
久方ぶりに、彼は島から離れた場所で今生の生を得た。
その生は彼にとっては漂流の生だった。どこにあるともしれない故郷の島を探し、諸国をめぐる。力を失った彼は、もはや島の名も位置も覚えておらず、妻だったはずの娘の顔すらわからない。けれど、確かにあったはずの面影を探して、放浪の旅を続ける。彼の身体は次第に老い、衰えていった。そして――。
(見つけておくれ)
擦った額を撫でるさやかな息吹に、かさねはうっすら目を開いた。
(卑小な姿になったこのわたしを、どうか見つけて)
(人間の娘)
「う……」
にわかに意識を取り戻すや、岩にぶつけた後頭部がずきずきと疼いてくる。手をあてると、乾いた血が髪に張り付いていた。
いつの間にか朝になっていたらしい。白んだ空のした、折り重なる無数の屍の中にかさねはいた。死肉にたかっていた蠅が血と汗のにおいに引かれてかさねのほうへやってくる。まとわりつくそれをのろのろと手で払った。
「戻らねば……」
紗弓の身体は島巫女に奪われたままだ。イチは無事だろうか。無事だとして、紗弓の異変に気付くことができるだろうか。
痛む頭をさすりながら身を起こして、かさねは巨岩を見上げた。かさねの背丈の数倍はある岩は縄梯子が落とされた今、とても登れそうにない。諦めて岩盤から下をのぞき、ひっと咽喉を鳴らす。眼下に広がるのは裂けた岩が口を開く峡谷だった。谷間を吹き抜けた風があざ笑うようにかさねの額を撫ぜる。
「これはさすがに……降りられぬ」
思い直して、かさねはまだ何とかなりそうな巨岩に手をかける。
「おおおおおおおい! 誰か! おらぬか!」
声を張り上げるが、ひとの返事は返らない。かさねの声の残響が虚しくこだまするばかりだ。
「誰か! おらぬか! 誰かあ……!」
かすれた咽喉を無理に使ったせいで、けほんと咳き込み、かさねはうなだれた。去り際、島巫女が吐いた呪詛めいた言葉が脳裏をよぎる。
――朽ち果てなさい。ここでひとり。朽ち果てなさい……。
「ほんに誰もおらぬのか……?」
じわりと滲んできた涙を手の甲でこすって、頭を振る。
「これしきのことで、泣いたりなど」
嗚咽しそうになるのをこらえ、かさねは目の前の巨岩を睥睨する。
イチに危険を知らせ、島巫女にのっとられた紗弓を助ける。
すべて、かさねがこの窮地から脱出できれば、叶うことだ。誰もいないのなら、自分でどうにかするしかない。こくりと唾を飲み込み、岩の凹凸をなぞる。
(この岩……のぼれるだろうか、かさねに)
しかし裂け谷をくだるよりは、まだ現実的な方法のように思える。かさねの前に鎮座する岩の表面はでこぼことしていて、うまくやれば、足や手をかけることもできそうだ。
「右足をかけて、左足をかけて、それを交互に繰り返せばよいのであろ……?」
かさねは自分の足が届きそうな出っ張りを探し、頂きまでの道筋を脳裏に描いた。足腰はこの数年で鍛えた。できなくはない。身体の能力的にはできなくはないはずだ。あとはかさねの勇気さえあれば。
「き、決めたのじゃ。紗弓どのを助けると、同じことはもう繰り返さぬと。……ええい、弱虫め! かさねは口先だけの女なのか!?」
啖呵を切って、かさねはところどころ破れていた衣の裾を勢いよく裂いた。紐状にしたそれで袖をたくし上げ、さらに太腿近くまで裂いて動きやすいよう結んでおく。最後に髪を縛ると、かさねは心を決めて、岩に手をかけた。
「う……」
しかし思ったよりも、自分の身体を腕の力だけで引っ張り上げるというのは難しい。イチが簡単そうにやってのけるので、できるような気がしていたけれど、かさねとイチでは身体のつくりも筋力もまるでちがうのだった。かじかんだ手に息を吹きかける。なんとか足をかけて、這うように少しずつのぼっていくが、そのうち腕が痺れてきた。まだ半分どころか、その半分にすら到達していないというのに。
うう、と呻いて、かさねは次に足をかける場所を探す。けれど、腕の痺れに気を取られて、無理やり遠い出っ張りに足を伸ばしたのがまずかった。
「っあ……!」
足が岩肌を滑り、はずみに体勢が崩れる。慌ててつかまろうとしたが叶わず、かさねは再び占場に落ちた。今度は屍のうえではなく、思いっきり岩に身体を打ち付けてしまう。痛みよりも衝撃が先にきた。えづいて、かさねは岩の上でもがく。手の爪が割れている。いや、それよりも。
「~~~~~~っ」
半身を起こそうとすると、右足首に激痛が走り、かさねはのたうった。痛みに、かさねは耐性などない。一瞬、目の前が白んで、意識が焼き切れかけた。それほどの衝撃だったのだ。ぜえぜえ、と変な呼吸の仕方をして、おそるおそる足首に目を落とす。落ちたときにくじいたらしい足首は腫れあがり、動かそうとするだけで火をあてられたように痛んだ。折れているのかまではかさねにはわからない。
「ああ……うう……」
何かから逃れるようにずるずるとその場を這う。こらえていた涙が溢れ、いくつも乾いた岩盤に吸いこまれていった。安易な憶測で無謀なことをした己をかさねは呪った。わかっていたはずだ。かさねはイチではない。イチのように、身軽に壁が登れるわけでも、敵を斬り伏せられるわけでも、……傷ついても動けるだけの強い精神もない。わかっていたはずなのに、それでもまだ、かさねは理解できていなかったのだ。
あの男がこれまでに払ってきた、血と肉の代償も。
その重さも。ほんとうはたぶん、ちっともわかってなどいなかったのだ。
「ひっ、……うう、……っく、うぇっ、うー……」
どうすることもできずに座り込んだまま、かさねはとうとう泣き出した。
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