七章 漂流する神

七章 漂流する神 1

 衣を裂いて負傷した肩を縛る。

 左手の火傷が思ったよりひどい。じくじくと疼く手のひらに顔をしかめ、イチは反対の手で、社の奥に繋がる扉を開けた。五畳ほどの小さな一間があり、本宮で見たものと似た祭壇が部屋の中央にもうけられている。一礼をして、祭壇のそばにもうけられた戸棚を引き開けた。神の姿をかたどった神像はふつう、人目につかない場所に隠されている。

 案の定、布にくるまれてしまわれていた神像を見つけ、イチはそれを蜜蝋の明かりへかざした。


「やっぱりな」


 ハナの守り符に書かれていた不具の神とは似ても似つかない、しなやかな四肢を持つ男性神がかたどられていた。その姿はほとんど人と相違ない。

 島巫女の話を聞いていたとき、気にかかった言葉があった。


 ――前は冬至の頃になると、必ず島の浜に変わり果てた姿で打ちあがり……

 ――わたくしの前でよみがえってみせてくれたのに。


(よみがえり……)


 天帝の兄神は不具の神であったという。

 後世の伝説では、それゆえ四肢に欠損があったように語られていたが、たぶん本当はちがう。永久不変の存在たる天帝に対する「欠損」。それはデイキ神が島巫女に与えた恩寵から、皮肉にもかけ離れていた。


(よみがえり。人の身に転生を繰り返す現人神)

(それが泥器デイキ神)


 天都からデイキ神が追放されたのは、人の身を持つゆえではあるまいか。そして遠く離れた小島に流れ着いたデイキ神は、そこで島人たちに祀られるようになった……。

 デイキ神が姿を現さなくなったのは、転生を繰り返すだけの力をデイキ神が失ってしまったからだろうか。少なくともこの百年、デイキ神の立ち寄りはないと島巫女は言っていた。


(けど、もしもデイキ神が今の世に転生を果たせているとしたら)

(その姿はもっとも衰えた状態の何がしか――)


 イチにはひとつ思い当たるものがあった。けれど、それがどこにあるかはわからない。そしてどうすれば、デイキ神を「よみがえり」させられるのかも。


「……先に島を出る手立てを探しておくか」


 イチは神像を棚に戻して、部屋を見回す。島巫女が出て行ってから、すでにずいぶん時が経っていた。いつ島巫女や童たちが戻ってくるとも知れないし、少なくとも夜が明けるまでには奥宮を出たほうがよい気がする。

 かがんで、手近の書物を数冊紐解く。いくら海流で閉ざされた島とはいえ、外のものを引き寄せている以上、出入口となる地点があるはずである。それとて小さな穴に針を通すようなものだろうが、幸いにもこちらには波を操る能力を持つ紗弓がいる。


(……が、そう簡単には見つからねえか)


 顎を伝った汗が紙の上にひとつふたつと水滴を落とす。じんじんと熱を発する肩を冷えた壁にあてがって、イチは息をついた。

 無茶をするでないぞ、と送り出すとき、何度も言い重ねていた少女の顔を思い出す。これも彼女の言う「無茶」になるのか。イチが怪我をしたと知ったら、やっぱりかさねはまた泣くのだろうか……。

 考えると、鈍い痛みが胸に生じた。それはわずらわしさの混じった、けれど確かな痛みだった。


(面倒だ、ほんとうに)


 かさねといると、イチは独りだった頃のようにはいられなくなる。できないこと、してはならないことばかりが増えて、得体の知れない感情に翻弄され、ふいに生じた衝動に振り回される。あの少女は嵐だ。そう思うのと同時に、イチは一抹の予感を抱いてしまいもする。たぶんこの先も、彼女は春の嵐みたいに、イチを好き勝手巻き込んで、変えてゆくのだろうと。

 手元の蜜蝋の炎が大きく揺れ、イチはそばに目を落とした。呪字の走り書きがされた半紙の下に、なだらかな曲線がのぞいている。ほかの紙より大判なそれを引っ張り出す。そこには島を取り巻く海流が時季ごとに記されていた。


 *


 島巫女の社から出る頃には、夜明け近くになっていた。薄明の波打ち際をイチは歩く。島巫女の姿がないか、それとなく島を見て回ったが、気配はなかった。あのときは島巫女も深手を負ったようだったから、そう遠くへは逃げていないと思うが、いったいどこへ行ったのだろう。

 考えつつ、庵の木戸をそっと押す。まだ薄暗い大部屋の褥は、しかしどれももぬけのからだった。眉をひそめ、イチは濡れ縁にひとりたたずむ女の背に目を移す。


「――……かさねは?」


 イチの問いは端的だった。

 こちらの声にぴくりと肩を揺らした紗弓が、「あら、戻ったのね」と波打つ黒髪を押さえて振り返る。その姿に何かが二重写しになった気がして、イチは金の片目を眇めた。だが、薄闇のせいか、あるいは自分が不調であるためか、違和感の根源まで探り当てることはできない。


「夜中に口琴の音がしたから、何かあったのかと案じていたけれど、無事だったの」

「かさねはどこにいった?」


 同じ問いをイチは繰り返す。部屋に視線を走らせたものの、かさねの影も形も見当たらない。まだ夜明け前の時間にもかかわらずである。近付いてきた紗弓をじっと睥睨すると、「さあ」と緩やかに肩をすくめられた。


「起きたらいなくなっていたのよ。もしかしたら、怖くなって島を出て行ったんじゃない?」

「まさか」


 かさねは無鉄砲な娘だが、ひとりで船を出すほどの阿呆ではない。それにイチを置いて島を出ていくとも考えられなかった。一蹴したイチに、「あなた、あの子のこと信じているのね」と紗弓は平坦な声で言った。


「絶対自分のもとに帰ってくるって、信じているのね」

「……何が言いたい?」


 謎かけめいた紗弓の言葉に、イチは眉をひそめる。紗弓は青みを帯びた眸を細めただけだった。薄い襦袢のうえに紺の羽織をかけて、草履を履く。


「どこに行くんだ」

「もうすぐ冬至。デイキ神を迎える準備をするだけよ」


 切れ長の眸に冷ややかな色を浮かべて、紗弓はイチの脇をすり抜ける。手首をつかもうとすると、身体を捻ってかわされた。


「何よ」

「海流の力が弱くなる場所を見つけた。島を出るにはあんたの力が要る」

「海流が?」


 意外そうに紗弓は眉を上げる。その表情にまた別の女が二重写しになる。先ほど生じた違和感が広がった。


「紗弓?」

「浜にいるわ」


 話を打ち切るように、紗弓は庵を出て行った。ひとり残されたイチは、部屋をもう一度見回す。かさねだけでなく、ヒトたち童の姿もない。畳まれたままの褥に触れると、ひんやりと冷たい。もうずいぶん前にいなくなっていたらしいことが知れた。くそ、と舌打ちして、イチは外に出る。


「あの馬鹿……」


 ひとにはさんざん無茶をするなだのなんだの言っておいて、たった一晩目を離すとこれだ。かさねはどうしてイチの目が届く場所でおとなしくしていてくれないのだろう。襲われたら、ろくに自分の身を守ることもできない非力なお姫さんのくせに。何故そういう自分を、あの娘自身は理解してないのか。


「またどっかの神の贄になってるんじゃないだろうな」


 不穏な朝焼けが空を赤く染める島に、イチは駆け出す。

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