六章 島巫女の呪 5

 いったいどこに向かっているのか。

 童と女たちは乱れのない足取りで坂道をのぼっていく。島巫女が住む奥宮がある場所とは反対の方向の高台だ。島の頂きまでたどりつくと、童たちはうなずきあって道を外れ、巨岩の連なる岩場に降りた。かさねのひとまわりもふたまわりも大きい岩がごろごろと転がり、おざなりに縄が張られただけの道は狭隘だ。下のほうから砂まじりの乾いた風が吹き上げる。


(転げれば、谷底へまっさかさまか)


 底を見通すこともできない裂け谷へ目をやり、かさねは唾を飲み込んだ。足場の悪い道にもかかわらず、童たちは慣れた様子で岩のあいだを縫って進んでいく。あてずっぽうに歩いているというよりはどこかをめざしているという様子だった。ひときわ大きな岩にのぼった童が明かりを足元に置いた。じゃらんと、岩を擦る鎖の音がして、女たちも担いでいた布袋を置く。


「何をしているのだ……?」

「しっ」


 かさねと紗弓は岩陰から童たちの挙動を見守る。うなずきあった童たちは三人で布袋を持つと、勢いをつけて岩下に落とした。「なっ」と飛び出ようとしたかさねを紗弓が羽交い絞めにする。がつっと物が砕ける嫌な音がした。童たちは岩下には一瞥をくれただけで、再び、来た道を戻っていく。三人の姿を見送り、かさねは足早に岩をのぼった。


「うっ……」


 月光に照らされた足元を見下ろしてかさねは絶句した。

 広い岩盤の四方に榊が立てられ、注連縄が張られている。中央には神事のときに使うような石の水盆。異様なのは、その前に折り重なったおびただしい数の死体だ。


「これは」


 新しいものから死後ずいぶん経ったものまで、無造作に積まれた屍からは甘ったるい腐臭が生じている。白骨化したものや一部が腐って溶けているものもあった。先ほど童たちが捨てたのは水死体のようで、いちばん上に横たわっている。その脇に見知った赤ら顔を見つけて、かさねは呻いた。


「円……!」


 気のいい漁師は、変わり果てた姿で虚ろな眼窩を空に向けていた。


「円、まど……っ」


 巨岩にかけられた縄梯子を使って岩盤に下り、男の身体を屍のあいだから引きずり出す。その腕がすでに虫に食い荒らされていることに気づいて、かさねはえづいた。胃の腑からこみ上げてきたものを歯を食いしばって飲み込む。


「なんじゃ……ここはいったいなんだというのだ……」

「水盆がある。おそらく、この島の隠された占場……。島巫女と夜を過ごした人間は、占場に捨てられていたというわけか」


 さすがに血の気の引いた顔で、紗弓が呟いた。

 

「こんな場所に高位の神が降り立つとは思えない。……ここまできて。やっぱりとんだくたびれ損だったというわけ……」


 前髪を手で潰して、くつくつと咽喉を鳴らす。月を背にゆらりと岩上に立つ少女の姿はどこか危うい。紗弓どの、と案じて声をかけると、紗弓は腫らした目をかさねに向けた。


「さっき、何故デイキ神を探すのかと訊いたわね。――教えてあげる。私は殺された龍神をよみがえらせるつもりだった」


 うすうす察してはいた。それでも、改めて明かされた告白に、かさねは息を詰まらせる。言葉以上に、紗弓の声が痛々しかった。


「だいそれたことを、と思うでしょう。私もできると思っていたわけじゃないわ。だけど、何かにすがっていないとやっていられなかった……」

「紗弓どの」

「父上を殺した人間が憎い。だけど、私も半分はその人間なんだもの。けがらわしい。だって、この身体の半分には憎い人間の血が流れているのよ……っ!」

「紗弓どの、落ち着け。今そちらにいくから」


 陰の気が満ちたこの場所の空気にあてられたのだろうか。紗弓の身体にぞわりと固い鱗が浮かび上がるのに、かさねは気付いた。零落、というイチの言葉が蘇る。月下にゆらりと立つ紗弓は危うい。紗弓が魔のものへと変容しつつあるようにかさねには見えた。止めなければ、と思う。かさねが、紗弓を。

 すくえなかった、

 すくえなかったというあの喪失は、もう二度と繰り返さない。

 決めたのだ。ほかでもない、六海の地で。もう何も、奪わせないと。

 そのとき、ひょろろろ……と細い口琴の音が空に響いた。


「イチ」

「この音……」


 呟いたかさねの前で、紗弓がわずかに正気を取り戻した様子で顔を上げる。

 ずるる。ずる……。

 口琴の音はすぐに途絶えてしまったが、代わりに岩に何かが張り付くような粘着質な音が、夜陰の向こうから聞こえてきた。ずるる。ずる。ずる……。


「何か今……」


 岩盤にいたかさねは、岩上にたたずむ紗弓の背後に伸びた影に先に気づいた。


「紗弓どの!!!」


 かさねの声のほうに驚いた様子で、紗弓が振り返りざまに身を引く。一条の月光に照らされたのは、白い千早をなびかせるひとりの女だった。島巫女、とかさねは呟く。しかし、島巫女の足取りはおぼつかなく、腰紐でかろうじて結ばれてはいるものの、千早と小袖も乱れて、皺だらけの乳房がだらんとのぞく。


「まあ、ひとがいるのね……?」


 紗弓にはじめて気付いた様子で、島巫女は首を傾げる。月光にあらわになったその身体は、美しい顔以外は染みだらけで、一部は爛れ、一部は青黒く腐敗し始めていた。己の両手に目を落とした島巫女は、泣き出しそうな声で、くすくすと笑う。


「この身体はもうだめ……使えない……」

「そなた、その姿は……」

「若くて新しい身体が必要だわ」


 手を下ろした島巫女の目に、獣のごとき光が閃く。紗弓に飛びかかろうとした島巫女に、「すまぬ亜子」とかさねは己の髪からほどいた飾り紐を投げつける。


「おい島巫女! ぴちぴちの十七歳の身体がここにあるぞ!」


 声を張って注意を引き付ける。頬に飾り紐の玉が当たった島巫女は、うっとおしげにかぶりを振って、岩から跳躍した。とても普通の女の力とは思えない。かさねが屍の折り重なった岩場でもたもたと縄梯子に手をかけている間に、島巫女の手がかさねの頭に迫った。ばちん!と青い火花が上がる。


「っ」


 間近で上がった火花にかさねは身をすくめる。かさねの白銀の髪がひと房焦げ、対する島巫女の手は赤く腫れ上がった。


「まさか、おまえも……」


 呻いた島巫女があとずさり、かさねから離れて巨岩をのぼる。


「待て!」


 転びかけながら、かさねは縄梯子の端をつかんだ。風の流れか、雲に月が隠れてあたりが暗転する。頭上で何かがぶつかる音が聞こえて、紗弓の悲鳴が上がった。


「紗弓どの……!」


 それきりその場が静まり返る。

 何かがあった。今、何かがあったのだ。

 かさねはもどかしげに梯子を繰って、岩の上にたどりつく。


「紗弓ど――」


 紗弓は巨岩のふちにぼんやりとしゃがみこんでいた。そのかたわらでは島巫女が白目を剥いて転がっている。無事か、と息を吐き出したかさねに、紗弓は瞬きを繰り返し、己の両手に目を落とした。


「……ええ」


 ゆるゆるとうなずき、紗弓は立ち上がった。いまだ縄梯子につかまったままのかさねの前にかがむと、手を差し出してくれる。


「ええ。無事。無事よ、


 半月に口を上げる紗弓を、慄然とかさねは見た。伸ばした手が空をかき、代わりに草履で肩を押される。


「あ……?」


 傾いだ身体に最初何が起きたのかわからなかった。岩場から足で蹴り落とされたのだと遅れて理解する。十分な受身も取れないまま、かさねは折り重なる屍の上に落ち、二三度跳ねながら頭を岩壁にぶつけた。


「ぐう……」


 岩盤に力なく横たわり、かさねは薄く目を開く。青い月を背に、紗弓がかさねを見下ろしていた。


「新しい身体を手に入れた。これでまたあの方を待つことができる……」

「しまみこ、そなた……」

「魔に落ちかけた身体はわたくしによう馴染む。――わたくしを傷つけたあなたは、そこで朽ち果てなさい。どうぞ安心なさって。ここへはしばらく誰も近づかない。己の身体が徐々に朽ちゆく恐ろしさを思い知るといい」


 縄梯子の端をつかもうとすると、じゃらりと頭上で鎖の軋む音がして、梯子を外された。力なく落ちた縄梯子がかさねの前に散らばる。巨岩の頂きに立ち、紗弓の顔をした島巫女は、かさねに冷たい一瞥をくれた。乱れた髪を耳にかけると、そのままきびすを返してしまう。


「待っ……」


 遠のく背中へ手を伸ばす。

 けれど、それが限界だった。赤く染まった視界に靄がかかり、かさねはそのまま意識を手放した。

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