六章 島巫女の呪 4

「おかしいとは思ってたんだ。この島の文化は数百年前でとまっている」


 流れ着いたときから違和感はあった。

 高床式の家の建築や、調理法、酒の醸造法に至るまで、すべてが一時代前のものなのだ。それに朽ちた神社や壁画のたぐい。おそらくこの島にもといた島民は、島巫女以外すでに死に絶えている。ヒトをはじめとしたこの島の子どもたちや女は、よそから流れ着いた者を島巫女が拾い上げたのだろう。


「あんたはかつて、デイキ神から不変の恩寵を受けた。――が、今その力には陰りが見え始めている。身体に生じた老いのケガレを移すために、ヒトたち子どもを使っている。ちがうか?」

「そな、そなたはよもや天の……」

「皇子だった男の、陰のほうだ」


 怯えた島巫女が、社の扉に取りすがる。イチはそれを背後から手で押さえて止めた。


「正直、あんた自体に興味はない。ただ、ひとつ教えてほしい。デイキ神は伝説どおり、今もこの島に帰ってきているのか」


 怯えと焦燥に染まっていた島巫女の目が、ふいに一抹の正気を取り戻す。うっすら涙が張った目の奥に、確かなかなしみの色を感じ取って、イチは手を下ろした。恐れていた予感が当たったのだと、このときイチは直感した。

 

 だからこそ、千に与えられた恩寵にも陰りが兆している。

 かさねに、自分たちにすがる神などはじめからいなかったのだ。


「もう百年のあいだ……」


 千は艶やかに波打つ黒髪をくしゃりと両手で潰して、うなだれた。


「あの方は帰ってこない……。前は冬至の頃になると、必ず島の浜に変わり果てた姿で打ち上がり、わたくしの前でよみがえってみせてくれたのに」

「よみがえる?」

「デイキ神は、転生の神。不変を司る弟神とはちがう……。わたくしは待ちました。この身を保つために、ケガレを子どもたちに移し、男どもとまぐわってその精を啜り……。もはやこの身は悪鬼と化してしまったかもしれないけれど、それでも、あの方にもう一度まみえたい、ただその一心で」


 千の両目からほろほろと涙がこぼれ落ちる。顔を覆ってしゃくり上げる千は、ただの女のようで、男たちを毒牙にかけた魔のものには見えない。ひよりと同じだ、とイチは思った。あの心優しい少女も、千年の孤独に耐えかねて心を壊した。代わりに生まれた冷酷無慈悲な女神は、戯れのごとく人を殺め、人を救う。そう考えれば、千ももとはただの心優しい島娘だったのかもしれない。年月がその魂のかたちまでも歪めてしまっただけで。


「そう……。その一心で、わたくしは数百年を生きてきた」


 島巫女の声がふいに不穏な気配を帯びる。気付いたときには、一拍遅かった。猛然と頭を振り上げた島巫女がイチに飛びかかる。


「ぐっ」


 御簾を巻き込んで床に倒れたイチの肩に、島巫女が噛みつく。運悪くそちらは矢傷が残るほうの肩だった。みるみる唇が爛れ、原型を失うのにもひるまず、島巫女は肩に噛みつき続けた。肉を穿たれる痛みと、傷口に直接焼き鏝をあてられたかのような熱で、イチはもがき、一瞬意識を飛ばしかけた。衿元からころんと何かが転がり落ちる。わずかに動いた手がそれを引き寄せ、中のものを島巫女へ向けて投げつけた。


「っが、ぐぅっ……」


 フタが持たせてくれた塩の結晶だ。清めの力を持つ塩を顔面に受けた島巫女は、苦しそうにのたうち、イチから離れる。そして、半ば扉を蹴破るように社を飛び出した。


「待て!」


 追いかけようとしたが、さすがに一歩を踏み出したところで膝から力が抜けた。壁に手をついたままずるずるとくずおれ、力尽きて床に転がる。


「……くそ。こうするつもりじゃなかったのに……」


 島巫女はどこへ向かったのだろうか。一抹の不安がイチの胸によぎる。

 かさねたちがいるのは浜のそばの庵なので、ここからは遠い。紗弓もついているし、問題ないとは思うが――。探り出した口琴を口に当て、イチはそっと息を吹きこんだ。ひょろろろろ……。鳥の声にも似た高く透明な音色が、夜の島にゆっくりと響き渡る。


 *


 山の端からのぼる月を、かさねは庵の縁でひとり見上げていた。

 冬の空は澄んで、雲ひとつない。長襦袢のうえに綿入りの上着を重ねていたが、外にいるとひどく冷えた。かじかんだ手に息を吹きかけて擦り合わせ、頬にあてる。


「寝ないの?」


 声をかけられて振り返ると、髪を下した紗弓がそばに立っていた。


「まあ……いちおう、帰ってくるまではな」

「もしものときでも、あの男なら自分でどうにかするでしょ。少なくともあんたがいないほうが自由に動けるわよ」

「むう。それはかさねとてわかっておる」


 かさねがいると、イチはかさねを守ることのほうを先に考えてしまう。鳥の一族の襲撃のときもそうだった。だから、今回は庵でおとなしく帰りを待つことに決めたのだ。


「のう、紗弓どの。聞いてもよいか」


 柱に背を預けて同じように月を見上げる紗弓に、かさねは尋ねた。

 常に頭の端で気になっていたことだ。けれど、なかなか切り出せずにいた。それは紗弓の心のうちに踏み入ることと同義であったから。


「デイキ神に、そなたは何を願うつもりだった?」


 紗弓はこちらに視線を寄越しただけでこたえない。

 白皙の面が急速に張りつめるのを感じて、かさねは眉を下げる。


「かさねはな、天帝の花嫁のさだめを取り除いてもらうつもりだった。どうやらこたびの旅でそれは叶いそうにないが……」

「ずいぶん素直に明かすのね。私はあなたの味方じゃないわよ」

「さりとて敵というわけでもあるまい。そういう相手にはむしろ話しやすいものよ」


 少し笑うと、「……まあ、そうかもしれないわね」と紗弓は腕を組んだ。その胸元には龍神が授けたという七色の鱗が輝いている。龍神の娘たるあかしだ。紗弓は長い睫毛を伏せ、思案げに手元を見つめた。


「あんたは恐ろしくはないの?」

「何がじゃ?」

「私は十七年、ひととひとならざるもののあわいに立って生きていた。龍の父は好きだったけれど、ひとの身である私は恐ろしくもあったわ。龍の父を選べば、六海領主の娘としての生活には戻れなくなってしまう。実際は選ぶ間もなく、皆なくなってしまったんだけどね」


 自嘲気味に紗弓は呟く。父である龍神をうしない、紗弓は上善の娘としての、ひととしての己を捨てた。すべては大きなうねりの中で起きたことで、紗弓にしてみれば、選択をする暇もなかったのだろう。かさねもそうだ。わけもわからぬまま、気付けば、天帝の花嫁などというたいそうなものを背負わされていた。


「うむ、恐ろしいぞ」


 緩やかに苦笑して、かさねはうなずいた。


「怖いし、恨めしい。何故かさねなのかと今も思う。こんなに大勢の人間がいるのに、まるでかさねだけ貧乏くじを引いたような気分じゃ」


 孔雀姫にさだめを告げられ、ひよりの末路を目の当たりにしたとき、心がばらばらに砕けてしまいそうだった。大地に落とされた花嫁の末路。千年の孤独と絶望。やさしくわらってくれた少女は、怨念と憎悪にまみれた異形と化した。それは死する以上になんと恐ろしいことだろうか。


「だが……、泣いてくれたのだ」


 ――かさねはかさねであるのに、かさねではなくなってしまうのか。

 樹木老神からの帰路の途中、心細くて泣き言を吐いたとき。

 ともに泣いてくれた。泣いてくれた男がいた。

 金色のひかりの中、静かに頬を伝った涙のうつくしさをかさねは忘れない。きっと一生忘れない。とてもとうとい、とうといものを見たと思った。


「そのとき、かさねはもうそれでよいような気がした。何故そう思ったのか、そのときにはわからなかったが、たぶん、かさねのために泣いてくれる相手がいたことが、うれしかったのだと思う。だから、今も恐ろしいとは思うが、つらくはないのじゃ」


 まっすぐ目を見て告げると、紗弓はなんともいえない複雑な表情をして「そう」と呟いた。


「ハナさんがあんたたちに目をかけていたの、わかる気がする」

「紗弓どの?」


 肩にかかった髪をかき上げて、紗弓は視線をめぐらせる。それで別のことに気づいたらしい。組んでいた腕をほどき、地面に裸足のまま下りた。


「かさね、あれ」


 声をひそめた紗弓が、下の道で揺らめく灯りを指差す。真夜中に近い時間だ。まっさきにかさねの脳裏によぎったのは、イチが戻ってきたのでは、ということだった。


「イ――」


 飛び出そうとしたかさねの首根っこを紗弓がひっつかむ。静かに、と口を塞ぎ、紗弓は腰をかがめて、道を見渡すことのできる植え込みの後ろに移った。かさねも草の音を立てないよう注意を払って、紗弓の隣に座る。小道を歩いているのはどうやら三人のようだった。ひとりが明かりを持ち、あとのふたりが布に包んだ何かを運んでいる。


「なんだ、いつもの童と女じゃない」

「待て、紗弓どの。何か変じゃ」


 女のひとりがよろめいたはずみに、包まれた布からだらんと白い腕が垂れる。かさねは細く息をのんだ。それは男の腕のように見えた。


「いったい何を……」

「坂道をのぼるわ。どうする?」


 一時ためらう気持ちはあった。イチが島巫女のもとへ向かっている今、かさねたちは容易に動くべきではないのかもしれない。しかし――。


「数かもしれぬ。放ってはおけん」


 腹を据えて、かさねは茂みから飛び出した。

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