六章 島巫女の呪 3
転身の呪、といわれてイチの脳裏に蘇るのは、薄闇に焚かれた香の独特のにおいだ。嗅覚というのは存外強く記憶に結びついているらしい。
天都には、転身に使うための独房があって、四方に終始清めの線香が焚かれていた。線香は時をはかる役割も兼ねていたようだ。独房の冷たい床に転がされて、じりじりと縮んでいく線香を眺めるときの緩慢さがイチは苦手だった。虚空に身体ごと放り出されたような気がして。それに、とても寒かったのだ。
転身の呪自体は専門の呪術師がやっていたから、イチはやり方を知らない。ただ、時が来ると、陰の者のうちの誰かが呼び出され、老術師が特殊な墨を使ってまじないを身体に書きつける。遠い昔から伝わるまじないなのだと、確か老術師が言っていた。清浄の地である天都では、ケガレは忌むべきものであり、天の一族の身は常に清らかに保たれてなければならない。病や老い、心身の不調、月の不浄といったもの。それらは呪法を用いて別の者に移される。しかし、ここは天都から遠く離れた小島だ。
何故、島巫女が転身の呪を必要とするのか。島巫女の抱えるケガレとは何なのか。その意味をイチは考え続けている。
「こちらでお待ちください」
フタの案内で島巫女の住まう奥宮に入る。古びた社は夜闇のなか、ひっそりたたずんでいた。明かりを掲げたフタが蝶番を開けて、中の照明具に火を灯す。社の中にまだ島巫女の姿はなかった。扉を隔てた奥で休んでいるのだとフタが言う。
「時が来れば、島巫女さまのほうからいらっしゃるから」
「そうか」
「じゃあ、わたしはここで」
イチを置いて出ていこうとしたフタが、ふと戸口のあたりで足を止める。
「あの。ヒトねえさまのこと、ありがとう」
「ふうん。ふつうに喋ることもできるんだな、あんた」
薄くわらうと、フタは微かに渋面を作る。注意深く数歩ぶんの距離をとり続けるフタは、決して人に馴れない獣か何かのようだ。童たちをはじめて見たとき、何故か胸をかき乱されたことをイチは思い出した。なんのことはない。少女たちは、――似ていたのだ。過去の自分に。あるいは自分と同じ、壱烏の影たちに。
「あんたもここに流れ着いて、島巫女に拾われたのか」
「……この島のひとたちはみんなそう」
「何十年……何百年のあいだ?」
鎌かけ程度に寄越したイチの問いに、フタはこたえなかった。表情すら変えない。ただ、袂から小さな巾着袋を取り出して、イチの手に載せる。
「これは?」
「御礼。あなたはヒトねえさんをたすけてくれたから」
紐を解くと、ごろりと赤子のこぶしほどの大きさの白い結晶が出てくる。海の潮の香りが濃くくゆった。塩、だろうか。それ以上の説明はせず、イチの手に結晶を握らせただけで、フタは扉を閉める。
外気から隔てられると、独特の香がむっと押し寄せた。そういえば、はじめて社に訪れたときから、イチはこのにおいが苦手だった。記憶の底にこびりついたものだからかもしれない。独房で焚かれた線香のにおい……。
ずるる。やがて静寂に、何かがこすれあうような微かな音が響いた。呼気をひそめていたイチは瞬きをする。ずるる。ずる。ずる。粘着質な音は、蝶番が外される金属音とともに止まった。細く開いた扉から、白い女の手がするりと伸びる。蜜蝋の明かりが、千早を纏う島巫女の姿を照らした。
「まあ」
座したイチに目を止めて、島巫女は不思議そうに呟く。
「今日ここへ招いたのは、確かあなたではなかったはずですが……」
「そうか? 赤いおよりは俺のところに届いていたぞ」
本当は数に渡るはずだった赤のおよりを衿元から取り出して、イチはぬけぬけと言い放つ。褪せた竹色の御簾越しにそれを眺め、島巫女は楚々とわらった。その姿はまだ、ふつうの女そのもの。
「変わったお方。あなたはわたくしには興味がないようだったのに」
「ねえよ、今も。あんた自体には」
「そうでしょうとも。あなたは初めてこの宮に訪れたときも、目の前の娘以外を見てはいなかった」
さやかな衣擦れの音を立てて首を傾げる島巫女は、確かにうつくしい。処女雪のような膚も、ぬばたまの黒髪も、長い睫毛や薄く色づいた唇。精巧につくられた人形のようだった。人形。そう、島巫女は魂がここにはないような、虚ろさがあった。
「それでも、あなたはここにいらした。美しい方。わたくしに食べられてくださる?」
御簾を引きやって、島巫女の白い手がするすると伸ばされる。闇夜にしどけなく揺らめき、イチの頬に触れようとしたそれを、反対につかんだ。
「その前に、確かめたいことがある」
折れそうな細腕をつかんで引きずり倒し、千早とその下の小袖の衿元を強引に剥ぐ。触れた箇所から青い火花が散った。島巫女がぎゃっと悲鳴を上げ、イチも顔をしかめる。双方の触れ合った場所がみるまに赤く爛れ、蒸気が上がった。
「ひっ……!」
逃げようとした島巫女の肩を膝で押さえつけ、乱れた衣を引き剥がす。女の玉膚――の代わりに現れたのは、老婆のごとく染みと皺が刻まれた身体だ。爛れた左手をようやく島巫女から離し、思ったとおりだとイチは呟いた。
「なに、を……」
「俺は天帝の恩寵を受けている。あんたはそれと相反する力――デイキ神の恩寵をその身に受けているな? しかも俺とは比べものにならないほどの祝福を」
あるいはこれは。
呪いと呼ぶべきものかもしれない。
「
ひっと呻いた島巫女が、部屋の端まで這い下がる。乱れた衣からのぞく肢体は一部が爛れ、一部が腐敗を始めている。爛れはともかく、腐敗はもとからだろう。鼻を刺すこの臭いを消すために、社には香が焚かれていたのだ。
「あんたを蝕んでいるのは、それだな。千」
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