六章 島巫女の呪 2
落下したのは一瞬だった。ぱらぱらと頭に降りかかる木屑に眉根を寄せ、かさねは薄く目を開く。天井にぽっかり空いた大きな穴が見えた。どうやらあそこから落ちてきたらしい。
「おい、無事か?」
「うむ……。そなたは?」
身じろぎをしようとすると、抱え込むように背に回されていたイチの手が身を起こすのを手伝ってくれる。とっさにかさねを庇ったらしい。骨を折ったり、どこか傷めていないか心配になったが、半身を起こしたイチに大きな怪我はないようで、胸を撫でおろす。天井から床までさして高さがなかったことと、落下した場所にちょうど畳が重ねられていたことがよかったのかもしれない。とはいえ、それもこの男の並外れた身のこなしあってのことだろうが。
かさねはイチの身体から下りると、淡い光を放つ月苔石を拾った。部屋を見渡せるように掲げると、色褪せた畳とそのうえに散らばる床板の残骸とが目に入る。かつては上の本殿と繋がっていたらしく、古いきざはしが壁際に残り、中央には文机と文箱、古い照明具が置かれたままになっている。
「ここは……?」
「巫女の私室……に見えるな。今は使われてないらしいが」
イチは自分の上着をぞんざいにかさねにかけた。落ちる直前のやり取りをこの男なりに気遣ったらしい。思えば、旅をしているあいだは隣で雑魚寝をしているし、襦袢姿だっていくらでも見せているのに、あらためて「見られている」と思うと急に恥ずかしくなってくるのだから不思議だ。
(だって、イチが変に気遣うそぶりを見せるから! こちらまで恥ずかしゅうなる……!)
前はこんなことはなかったのに、近頃のイチはときどきかさねの予想の斜め上をいく行動をしたり、態度をとるので、どうしたらよいかわからなくなり、妙に言い張ったり、なじるような言葉をぶつけてしまうのだ。……ほんに傷つけたいわけではないのに。渋面をしたまま、頬のあたりをむぐむぐと揉み込み、かさねはかけてもらった上着を引き寄せた。
「これ手紙……か?」
こちらの胸のうちには気を止めていない様子で、イチがそばに落ちていた文箱を拾い上げる。中には数枚の文が入っていた。見れば、何十、何百の文箱が折り重なって、闇の中にぼんやり浮かび上がっている。
「ふ、筆まめな巫女だったのかの……?」
頬を引き攣らせ、かさねは呟いた。
手紙好きとまとめてしまうには、この光景は少し異様だ。
「紙が黄ばんでる。ずいぶん古い文だな」
「どれ、ちと失礼」
他人の文を盗み見る趣味はなかったが、今はデイキ神に関する手がかりをひとつでも多く得たい。黄ばんだ紙に、流麗な水茎で綴られているのは、神への深い思慕の念だ。あなたさまに会いたい。会いたい。もう一度、ひとめお目にかかれるのなら――。
「まるで恋文よのう」
「千、とあるな。今の島巫女の名だ」
「以前はこちらに住まわれていたということか」
何通も何通も、思慕の念は飽きることなく綴られている。
文は孤独な島巫女の日誌もかねていたらしい。ひねもす、よすがら、デイキ神に仕えて祈りを捧げる巫女の慎ましやかな暮らしぶりを読み取ることができた。
『こもの三山で噴火があり――、落石で社の一部が壊れてしまいました。これより、わたくしは島の奥宮に移ることにし――』
おお、やはり途中で移られたのか、とかさねはうなずく。しかし、文を持つイチの顔はいぶかしげだ。
「こもの三山で噴火って――いつの時代の話だ」
「うむ?」
「少なくとも数百年は前だぞ。ここまで落石が飛ぶ大きさの噴火なんて」
数百年。それはひとの身の寿命をやすやす超える。ならば、『千』とはいったい……。蒼褪めたかさねに、イチは薄くわらった。
「単に同じ名の巫女がいただけもしれない。けど、もし同一人物だとしたら、いったい何歳の婆なんだろうな? 島巫女ってのは」
まるで時が止まったような島や社のすがた。近づく者を引き込み、島に閉じ込める海流。そして、数百年を生きているかもしれない島巫女。
「神というより……まるで魔じゃ。イチ。ほんにデイキ神は、救いとなりうる神なのかの……」
呟き、かさねは目を伏せる。イチはもの言いたげなそぶりをしたが、結局続きを言葉にすることはなかった。
*
水平線に暁のひかりが射す。
壊してしまった床板をなんとか見栄えだけはもとどおりにして、言葉少なに庵までの帰り道を歩く。なんとなく疲れてしまって、かさねは口を閉ざしたままでいた。イチはイチで、思いを巡らせるように赤く色付いた山の端へ目を向けている。
「うぬ?」
ちょうど道の半ばほどまで来た頃だろうか。ふらふらと彷徨う人影が前方を横切り、かさねは足を止めた。朝の薄闇のせいで、遠目にはわからなかったが、男の姿には見覚えがある。
「そなた、数ではないか……!」
かさねの声に、男は落ちくぼんだ目を上げた。
「あなたはどじょう踊りの……」
「どじょうはともかく、大事ないか? 近頃、宴にも姿を見せていなかったから」
何日も引きこもっていたからか、数の目には濃い隈ができ、まばらに無精髭が生えている。駆け寄ったかさねが案じて手を取ると、数の目にうっすら涙が浮かんだ。
「きました……」
「きた?」
「赤のおよりですよ。ほら……!」
握り締めていた赤のひねり紙を数がかさねに突き出す。月の宴で円の前に置かれたものと同じだ。今朝がた、いつものように戸口にかかった食料を取ろうとすると、扉の間に挟まれていたそうだ。数は憔悴しきった様子でぐしゃぐしゃと頭をかく。
「次はわたしだ……わたしがころされる……」
「いや数どの、そうと決まったわけでは」
「――ちょっと貸せ」
震えている数の手からイチがおよりをかすめとる。ひねった紙を開いて、表と裏を透かすが、特に何も見つからなかったようだ。息をついて、イチは戻したおよりを自分の衿元に入れた。
「これは俺がもらった」
「……は?」
「いいだろ、およりを譲ってはいけないなんて決まりはない。こいつの代わりに、俺が島巫女のところに行く」
平然と言い放った男に、かさねは表情を消した。
音を立てて血の気が引く、というのはまさしくこのことだ。
イチが行く? 島巫女のもとに?
「み……みとめぬ!」
ほろほろと涙を流して感謝する数とイチの間に割り入って、かさねは怒声を上げる。かさねの反対は予期していたのだろう。イチは落ち着いた一瞥を返した。
「何故、そなたは何でもひとりで決める。人死が出ているやもしれんという話をしたであろう?」
「だからこそだ。悠長に待っているのは逆に危ない。この島は俺たちの意思では出られないらしいしな。あんただってもう気付いているだろ。この島はおかしいって」
ヒトやフタたち童は今はそばにいない。イチは慎重に言葉を選んで、かさねも疑念を抱いていたことを口にした。
「デイキ神がすでに神でなく、零落して魔のものになっているとしたら……。早々に島を脱出する手立てを考える必要がある。けど、その前にデイキ神の正体を確かめたいんだ。鍵は島巫女が握ってる」
「だが先ほどの、見たであろ。島巫女は……」
数百年を生きているかもしれない巫女。それが真だとしたら、島巫女とてすでに人ではない。
「俺の考えが正しければ、島巫女は俺には触れられない。天帝とデイキ神、相反するものの加護を受けているからだ」
イチの右の目に残った金色は、天帝が与えた恩寵のしるしだ。今はそれが守りになりうるのだとイチは言った。
「だが……」
それでも引き下がれず、かさねは口ごもって俯いた。
「……だが、イチがまた……」
この男は忘れたのだろうか。鳥の一族の襲撃で、かさねを守って死にかけたことを。かさねは、絶対に忘れられない。背に回した手を滑った血の熱さも、噎せかえるようなにおいも、徐々に弱まっていく呼気も。失うかもしれない、と思ったあの絶望も。絶対に、絶対に忘れることはない。
かさねは、イチの己の身にまるで頓着しない生き方がおそろしい。この男は強い。けれど反面、自分の身を簡単に投げ出してしまいもする。強いのに、危うく脆いのがイチという男なのだった。すん、と鼻を鳴らして、かさねはイチの手を握りしめた。
「かさねはそなたがまた、血を流すのはいやなのだ」
「俺……?」
不思議そうにイチが瞬きした。なんだかよくわからないことを言われて意図をつかみかねているという顔つきである。それでも黙って手を握り締めていると、しばらく何かを思案する間があった。
「あんたは、俺が心配なのか」
何かが少し伝わった気がして、かさねは顎を引く。イチにもわかるようにぶんぶんと何度も縦に首を振った。
「あたりまえ……当たり前であろ! そなたが血を流したらかさねもつらいし、そなたが傷ついたらかさねが泣きたくなるわ! もし次に怪我をしてみよ。暴れて大泣きしてやる! 絶対じゃ!」
自分でもよくわからない脅しをかけて、かさねは腫らした目でイチを睨む。自分を見つめる灰と金の眸が、ふいに何かがほどけるようにまろんだ。――そう。イチは確かに笑んだのだった。
「……それは大変だな」
「そ、そうじゃ。大変な騒ぎにしてやるぞ」
真剣に繰り返すかさねの頬にイチの手が触れる。そっと何かを確かめるように擦ったあと、おもむろに頬肉をつまんで引っ張られた。右と左を同じようにされて、怪訝な顔をしているうちに反対に押し込まれる。
「前から思っていたんだけども、」
「ほへ?」
「あんたの頬、伸びすぎ……餅か」
「なんの話をしておる!?」
咽喉を鳴らした男の腕を「ひとが真面目な話をしているときに!」とかさねは叩く。めずらしく何かのツボに入ったらしい。ひとしきり咽喉を震わせていたイチは笑みをおさめると、好き勝手いじり倒したかさねの頬にもう一度手を添えた。
「わかった」
男がかがんだはずみに額と額がこつりと触れたので、かさねは少し目を細める。あめ土のにおいが鼻腔をくすぐった。それから金色のひかりの気配。
「無茶はしない」
「ちゃんとかさねに約束せいよ」
「約束だ」
その声に、ずっと重く横たわっていた不安や恐れを押しのけて信じたい、という気持ちがじわりと湧いてくる。それは思いのほか温かく、かさねの胸に満ちていった。両手を繋ぎ直して、かさねは顎を引く。
「わかった」
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