六章 島巫女の呪

六章 島巫女の呪 1

 塩漬けの魚に木の実を炒ったもの、貝の和えもの、きのこ汁、たわわに実った果物たち。目の前にはいつもと変わらない豪勢な料理が並べられたものの、宴の席にはなんともいえない沈黙が流れている。かさねも今夜ばかりははしゃぐ気がせず、黙々と箸を動かしていた。


(かさねの目の前で、船は海底に引き込まれてしまった)


 つまりひとたび足を踏み入れれば、自分の意思では外に出られなくなる島、というのがデイキ島の正体らしい。紗弓の話によると、島を取り巻く海流は単なる自然現象ではなく、何がしかの神霊の力が働いてそうだということだった。


(円や団の船もあのように……? あるいはふたりとも島巫女に?)


 考えると、ぞっと悪寒が背中を這い上がり、かさねは目を伏せた。紗弓もあまり箸が進んでいないようだったが、隣にあぐらをかいたイチはいつもどおり毒見を済ませると、自分のぶんの料理の皿を空にしていっている。かさねの視線に気づいたらしく、イチは塩漬けの魚を乗せたごはんを引き寄せ、「やらねえぞ」と牽制するように言った。


「そなたは気楽でよいのう……」

「は?」

「まあいつなんどきも、きちんと食って、きちんと寝るのがそなたであるが」

「その言葉あんたにそのまま返すぞ。それでよく肥えねえな」


 かさねが空にしたごはん茶碗を指して、イチが肩をすくめる。前半はともかく肥えるとは何事だ。


「かように可憐な娘を見て、肥えるとは!? そなたどこに目がついておる!」


 腹立ちまぎれにイチの脇腹にぺけぺけこぶしを喰らわせていると、「あんたたちっていつでも気楽でいいわね……」とたそがれた目で紗弓が呟いた。

 月の宴には今、かさねとイチと紗弓しかいない。円と団が島を出たことと、巫女のおよりに怯えて、数が宴を欠席しだしたためだ。フタの話では、庵に引きこもって誰も寄せ付けないらしい。心配して戸口ににぎり飯をかけておくと、翌日律儀に中身だけがなくなっていた。いちおう、生きてはいるらしい。

 三人で料理を空にして、白湯を啜る。

 巫女の招きを示す赤のおよりは、今日も届くことはなかった。


「このまま冬至までデイキ神を待つっていう手もあるんじゃないの」


 庵までの帰り道、先導するヒトの背中を見つめ、紗弓は声をひそめて言った。あんたどうやら島巫女に嫌われているみたいだし、といつまでたってもおよりが来ないイチを揶揄する。


「もともとデイキ神を探して私たち、この島へ来たわけでしょう。それまでは島を出るつもりもなかったわけだし、海流のことは今は放っておいてもいいんじゃない?」

「……デイキ神が本当にやってくるならな」


 含みのあるイチの返事に、紗弓は眉根を寄せる。


「どういう意味?」

「俺はこの島にあまりいい気が満ちているかんじがしない。むしろ……」


 そこでイチは考え込むように口を閉ざしてしまった。夜の青闇のなか、遠方をじっと見つめるイチの横顔を、かさねは見守る。イチに何かの考えがあるらしいことは、さすがのかさねにももう察せられてしまうのだった。



 夜のしじまに波音が絶間なく響いている。

 寄せては返す青い波。雲間から射すさやかな月のひかり。海上に立つ鳥居の影と、風が昼の足跡を消していく広い砂浜。島の夜の情景を思い描きながら、何度目かの寝返りを打って、かさねはぱちりと目を開いた。


(眠れぬ……)


 庵では、大部屋をふたつに仕切って、片側にかさねと紗弓とヒト、もう片側にイチとで分かれて眠っていた。暗闇にほの白く浮かんだ障壁具を見つめ、向こう側にいるイチは眠っただろうかと考える。夜具を引き寄せて半身を起こしていると、外のあたりできしり、と砂を踏む微かな足音がした。


(誰ぞこの夜更けに)


 紗弓たちを起こさないよう気を配して、かさねは腰を浮かせる。来客かと思って、入口のほうへ耳を澄ませてみたが、足音はむしろこの庵から離れていっているようだ。遅れて、間仕切りの向こうの褥がもぬけの空になっているのに気づき、「あの男……」と呟く。寝乱れた襦袢に上着を引っ掛け、かさねは外に出た。

 思ったよりも冷たい夜風に身震いし、上着の衿を引き寄せる。道先に夜闇にまぎれそうなイチの背中を見つけた。火を持ってくるのを忘れてしまったが、月が明るいおかげでなんとか男を見失わずに済む。


「どこに向かっておるのじゃ……?」


 この道は毎晩、月の宴に向かう際に通っている参道だ。ということは、イチは神社の本宮に向かっているのだろうか。


(しかし何故)


 本宮なら、毎晩月の宴のときに入らせてもらっている。こんな夜更けにひとの目を忍んで訪ねる場所ではないように思うのだが――。息を切らして長い石段をのぼりきり、鳥居をくぐる。はあ、と膝に手をついて息を整えていたかさねを、横から伸びた腕が茂みに引き込んだ。


「ふおっ!? むー! むー! むむー!!」

「何やってんだ、おまえ」


 よく知った声が耳朶に触れ、かさねは振り回していた手足の力を抜く。かさねを後ろから羽交い絞めにしたのは、見失ったと思っていたイチだった。


「そなた……!  気づいておったのか?」

「当たり前だ。あんた、あんなにぴょこぴょこ跳ねて、隠れているつもりだったのか?」


 呆れた様子で尋ねられ、かさねは唇を尖らせる。こちらの衿のあわせを直す男の手を眺めながら、「そなたこそ、こんな夜更けに何をしておる」と尋ねる。


「神社に用があったんだよ」

「だから、どんな用じゃ」


 追及をやめないかさねにイチは嘆息する。かさねの尾行に気付きながらもそのままにしていた時点で、本気で隠すつもりはなかったらしい。腰に括り付けていた小袋から、月苔のくっついた石を取り出してかさねに渡す。


「この島の『宝』に興味がある」

「たから?」

「神像――って聞いたことあるだろ」

「いざりの兄上が彫っていたあれか」


 かつてこの男とともに訪れたセワの社で、兄のいざりが手慰みに彫っていた数多の木像。思い出してうなずいたかさねに、「神像は本来、神の姿をかたどってつくるものなんだ」とイチが説明する。


「ハナの守り符にもデイキ神の姿が描かれていたように思うが……」


 四肢が欠損した異形の姿。。それゆえに天都を追われた異端の兄神が、この島で祀るデイキ神のはずだ。


「あれは後世の人間が想像で描いたものだ。ねじ曲がって伝えられている可能性もある。けど、デイキ神が流されたというこの島でなら、もとの姿のまま残されていてもおかしくないだろ?」

「確かに。そして神像があるとすれば、社というわけか」

「デイキ神の姿がわかれば、正体がつかめるかもしれない。この島に本当に帰るのか……、あるいは帰り方についても」


 八方塞がりのようだった事態に微かに光が見えて、かさねはうなずく。

 イチのこういうところは素直に感心してしまう。神霊に関する知識だけではない。イチは常に思考することをやめない。育ちからそう訓練されたのかもしれないが、すぐに目の前のことに振り回されてしまうかさねにはなかなかできないことだ。


「幸い、夜のあいだこの社にひとはいない」

「忍び込む気か?」

「そしられたくないなら、おまえは帰って寝てろ」

「あほう。一緒に行くに決まっておろうが」


 イチの腕を取って、かさねは社の本殿に向かった。表戸は頑丈な鍵がかけられていたが、側面に腐りかけた木戸があり、イチが力をかけるとあっけなく内側に開く。とたん、埃と黴くさいにおいとが押し寄せた。


「ずいぶん年季が入ってるな」


 くしゃみをしたかさねに、あたりを一瞥してイチが呟く。

 本殿は長くひとの手が入っていなかった様子で、至るところに蜘蛛の巣がかかり、床板には何層もの埃が積もっている。思った以上にひどい。


「千年前のものをそのまま使っているって言われても信じるぞ俺は」

「どこもかしこも朽ちておるし……床板を踏み抜きそうだのう」


 ぎし、ぎし、と歩くたびに不穏な軋みを立てる床板に、かさねは頬を引き攣らせる。かさねが抱いた月苔石以外に手元の明かりはない。先の見通せない濃密な暗闇の中、破れかけた御簾のかかる祭壇に、神の依代となる鏡が鎮座していた。


「かさね」


 照らせ、ということだろう。イチは鏡に向けて一礼をすると、祭壇に手を伸ばした。取手に指がかかったとたん、ちりりと蒼い火花が散る。


「っ」


 弾かれたようにイチが手を引いた。その指先が瞬く間に赤く腫れ上がったのを見て、かさねは危うく月苔石を取り落しそうになる。


「イチ! 平気か?」

「……ただの火傷だ。おまえは近づくなよ」


 かさねを背のほうへ押しやって、イチは手を布でくるみ、注意深く祭壇に触れた。空気に宿る火の気か何かのせいだったのか。次は何事もなく祭壇にもうけられた扉が開く。神像はふつう、人目を避けて安置されていることが多い。ごそごそと中をあさるイチに、どうじゃ、とかさねは訊いた。


「うーん……ねえな」

「神像自体がない……? あるいは別の場所にあるのか」

「探すぞ」


 皆が起き出してくる朝まではまだ時間がある。祭壇を閉めたイチは、脇に置かれた祭礼用の櫃を開ける。かさねも何かそれらしいものがないか探してみたが、収穫はなかった。


「よそものであるかさねたちを招いた社ぞ。もしかしたら、社としての価値は低いのやもしれん」

「本命は奥の……島巫女の住む社のほうなのかもな」


 うなずき、イチは汗の滲む首のあたりを袖で拭った。


「さっきの傷は大事ないか?」


 男の隣にかがんで、手元をのぞきこむ。かすっただけだろ、と呟いて、イチはかさねの上着のあわせをまた直した。やたらにさっきから同じことをするのう、と何気なく己の胸元に目を落とし、かさねは沈黙した。

 そういえば、起き抜けの襦袢に上着をかけただけで走ってきたのだった。

 襦袢である。つまり、下着である。

 もともと薄い生地でつくられているし、汗をかくと膚が透けて――。かさねは上着をかき抱くとぴゃっと勢いよくイチから離れた。


「み、み、見たのか……!?」


 視線を跳ね上げたかさねに、イチはそっと目をそらした。


「見たのか、見たのだな!? かさねのおむねさまをそなた、先ほどから実はいやらしい目で……!?」

「……そんなあるかないかもわからないようなもんを……」

「何を馬鹿な、たわわに実っておるではないか!」


 むきになって言い返し、かさねはイチに迫る。直後、である。めき、と不穏な音が足元からして、腐っていた床板の一部が抜ける。わ、と声を上げる暇もなかった。かさねとイチは、巻き込まれるようにしていっぺんに床下に落下する。

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