五章 月の宴 5
しばらく床を離れられなかったヒトも数日が経つと、身体を起こして炊事の手伝いができるほどに回復した。若くて元気な奴なら、というイチの言葉のとおりだ。
島巫女はこのために、ヒトをはじめとした童たちをそばに置いていたのだろうか。それとなく「おつとめ」についてヒトに尋ねてみたが、固く口を閉ざしたまま答えようとはしない。
「だ、だが、これではそなたがな――」
さらに問いを重ねようとしたかさねの首根っこをつかみ、やめよう、とイチが言った。俯いたヒトの頭の上にイチの手が乗る。ぞんざいに髪をかき回す手に、ヒトは人知れずほっと息を逃していた。
ヒトの身体に浮かんでいた呪字は、役目を終えたかのように輝くのをやめ、身体を拭いたときに一緒に消え去ってしまった。
「ヒトねえさん、いる?」
ヒトを中で寝かせて、かさねが井戸端で野菜を洗っていると、しょい籠を背負ったフタがやってきて声をかけた。どうやらヒトの心配をして来たらしい。
「大事ない。今は中で寝ておるが……見ていくか?」
「うん」
こくりと首を振るフタは、表情こそ読み取りづらいものの、ヒトへの確かな思慕の情がのぞいている。童たちは皆一様に表情に乏しく寡黙だが、互いを想い合っているらしいのはなんとなく伝わってきた。庵に上がってヒトのかたわらに座ったフタが小さな手を取る。そのまま無言でぎゅっとヒトの手を握り締めるフタの背をかさねは見つめた。
「――で、そなたのほうは何用じゃ」
フタとともにちゃっかり庵に上がり、何故かかさねの隣に座っている青年がひとり。やたらと顔色が悪く、先ほどから終始かたかたと歯を鳴らしている。その顔には見覚えがあった。月の宴で会った三人のうち、確か世を儚んで身投げした算術家の――、
「
「一引く一が何故零になるか悩んでいた御仁よの。もちろんじゃ。見てのとおりヒトが身体を壊してのう、数日宴にも出られなかった」
ほかの者はどうしておるのか、と尋ねたかさねに、「ふたり増えてひとり減りました……」と数が陰鬱な表情で呟いた。寒そうにしている青年のそばに火鉢を持ってくる。かじかんだ手を火鉢にかざし、数は鳥肌の立つ腕をさすった。
「ふたり増えて……とはどういうことじゃ」
「また新たな『福の方』が打ち上げられまして。その翌日、
「消えたというのか」
「フタは、早朝に島を出ていったと言っていましたが」
手を繋ぎ合う、睦まじげな童女の姿に目をやり、数はこめかみを押す。
「何か、おかしくはないですか」
そっとひそめられた数の声に、かさねは顔を上げる。紗弓は浜に出ており、イチは庵の裏で薪を割っていたから、中には今、童たちとかさねと数しかいない。もちろんイチのことであるから、数やフタの気配には気づいているにちがいないが。
「早朝に、といいますけど、今朝の海は荒れていた。何ゆえ朝に発つ必要があったんでしょう。それに私、見てしまったんです」
「……何をじゃ?」
「団さんの荷をミツたちが片付けているのを。いくらなんでも、冬の海に着の身着のまま出ていくなんてありえますか。団さんは……」
かすれた声で呻き、数は頭を抱えた。
島を出てはいないのではないか、と数は言いたかったのだろう。
かさねは数を連れて、童たちの気を引かないよう、それとなく外に出る。脱力した様子で井戸端に腰を下ろし、数は俯いた。
「順番でいけば、次に島巫女に呼ばれるのは私です。私は恐ろしい……。あの社の中では、いったい何が行われているんです? 円さんが話していたような極上の一夜があるとは私には思えない……」
「赤いおよりが巫女の招きを意味するとは聞いたが。拒むことはできないのか? あるいは、かさねたちのように宴自体を欠席することは」
「円さんの話では、ひとり赤いおよりをもらっても行かなかった者がいたようです」
「その者は?」
「やはり翌日には島を出ていたと……」
かさねと数は目を見合わせて、こくりと唾を飲み込んだ。
やはり、とかさねは考えずにはいられなかった。この島はおかしい。まるで島自体がひとを捕えて食すかのようだ。円も団も島を出たのではなく、本当は島巫女に――……。
「かさね!」
考えに沈んでいたかさねは、ぴしゃりと飛んだ声で我に返る。一拍遅れて顔を上げれば、紗弓がこちらへ駆けてくるのが見えた。ひゃあ、と数が顔を両手で覆う。紗弓は襦袢一枚を身に着けてこそいたが、薄布は水が張り付いて透け、蠱惑的な肢体があらわになっている。
「うおおおおい、紗弓どの。それは殿方の目には毒……」
「馬鹿言ってるんじゃないわよ。大変なの! イチは?」
「外で薪を」
「どうした」
声に気付いて、こちらに回ってきたらしい。半裸の紗弓を目にしたイチは、無関心そうに自分の上着を投げてよこした。片頬を歪めたものの、紗弓も受け取ったものにはしぶしぶ腕を通す。
「とにかくまずいのよ。男がふたり、船を出そうとしている」
「危険だといわれた海だぞ」
「何が何でも
「余計な手間を増やしやがって」
舌打ちをして、イチは草履を履き直した。駆け出し際、かさねに言い置く。
「おまえはヒトの面倒をみてろ」
「いや、かさねも行くぞ。紗弓どの、ヒトたちを頼む」
「私も行くわ。そこのあんた、あとのことは頼んだわよ」
「えっ、ちょ、あの、ええええええっ」
悲鳴を上げる数を残して、イチとかさねと紗弓は浜へ向かった。肉厚の葉が茂った砂の小道をイチは風のような速さで駆け抜ける。かさねのほうは全速力で走っているうちに息が上がって、浜に着く頃には汗だくになっていた。波打ち際で小舟を一艘、男たちが海へ押し出そうとしている。男のひとりをイチが腕をつかんで止めた。
「ここの海は荒い。きちんと流れを読んで出ないと、遭難するぞ」
「うるせえ! 何が『福の方』だ、気味が悪い。こっちは早く湊に戻りてえんだよ!」
肩を押されて突き飛ばされ、イチは顔をしかめる。鳥の一族に傷つけられたほうの肩だ。
「手荒なことをするでない!」
かさねはすっ飛んでいって、イチの前に両腕を広げて立った。はるか年下の娘が乱入したことで、男たちは少しばつが悪そうな顔になる。
「船を出すなら、時機を読んでともに出そう。のう? そのほうが危険も少ない」
「馬鹿か。ここいらの海域は、冬に入れば海獣のはびこる魑魅魍魎の地になる。悠長に待っていられるか」
「だが――」
「危険というなら、おまえらこそ早々に島を出たほうがいいぜ。ちび!」
取りすがろうとしたかさねの手を男が振り払う。よろめいたかさねの身体をイチが受けとめた。その隙に男たちは船を出し、勢いをつけて海原に飛び込む。屈強な男たちは巧みに櫓を操り、ぐんぐん沖のほうへ向かっていく。見る限り、さして波はなく、海は穏やかに凪いでいる。しかし、ちょうど島の鳥居を越えたあたりで、異変が起きた。
「ちょっとあれ」
紗弓が指差した先で船影がぐらりと傾く。船上の男たちが焦った様子で櫓を振り回している。しばらく見えない何かと戦うように男たちは暴れていたが、そのうち船が真ん中からふたつに割れて、とぷんと海底に引き込まれた。細く短い悲鳴が上がって消える。波打ち際にしゃがみこみ、かさねは声もなく一部始終を見ていた。
「……やっぱり」
腕を組んだ紗弓が乾いた呟きを漏らす。
「この島に近付いたとき、海流に足をつかまれたかんじがしたのよ。それで水の流れを見失って、気付けば、浜に打ち上げられていた。ほかの者たちもたぶんそう。この島は近づいた者を引き寄せ、出る者を拒む」
「つまり、かさねたちもこの島に閉じ込められたと?」
「少なくとも、赤いおよりとやらが来るまでは出られないということでしょうね」
とんだ面倒ごとに巻き込まれたわ、と首筋を掻いて、紗弓は嘆息した。
船とふたりの男を飲み込んだ海は、今はうららかに白波を立てている。まるで何事もなかった、とでも言いたげに。
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