五章 月の宴 4
ひと肌のぬくもりを取り戻した頬に手をあてる。しばらく何かに祈るようにそうしてから、かさねはヒトの身体に夜具をかけ直した。腰高障子から淡いひかりが射している。薄曇りのため、わかりづらいが、昼下がりを過ぎたようだ。紗弓はいつの間にか庵からいなくなってしまっていた。自分のぶんの茶碗はきれいに洗って戻してあるのがなんとも紗弓らしい。
「イチ」
濡れ縁で冷めてしまった朝餉の残りをかきこんでいたイチの隣に、かさねは座した。固くなったごはんを茶でふやかして流し込み、イチは箸を置く。
「ヒトは?」
「眠っておる。しかし驚いたわ。ヒトの身体がぐんぐん冷たくなっていくものだから」
「あれはそういうものなんだ。『けがれ』を移されたほうは仮死に近い状態になる。若くて元気な奴ならだいたいどうにかなるけど、稀にそのままってこともある」
「そのときは?」
「死ぬ」
淡然とイチは呟いた。首筋をひやりとした手で撫ぜられた気分になる。そのような危うい瀬戸際にさっきのヒトはいたのだ。考えると、手のひらを通して伝わったぬくもりがひどく尊いものに思えてくる。ヒトが無事で、よかった。
「あの呪をヒトにほどこしたのは、島巫女だろうか」
「おそらく。おつとめとヒトが言うなら、そうだろ」
「ならば、ヒトに移されたのは島巫女の『けがれ』か?」
「どうだろうな。ただ、覚えているか。奥宮で焚かれていたあの独特の香。何かの臭いを隠そうとしているように俺には思えた」
「臭い?」
「たとえば、……腐臭とかな」
冗談ではなかろうが、恐ろしいことをイチは言った。
「……何の腐臭じゃ」
「それは確かめてみないとわからない」
かさねの脳裏に赤ら顔をした気のいい漁師――円の姿が蘇る。早朝に島を発ったという円。円は本当にこの島を出られたのだろうか。そもそも何故、島巫女に呼ばれた翌日、「福の方」は揃って消えてしまうのだろう。思い返せば、奇妙なことばかりだ。
「島巫女のこと、今少し調べる必要がありそうじゃ」
「ああ」
やがて呟いたかさねに、イチは思案げに顎を引いた。
デイキ神にまみえるために訪れた島だが、島自体に不穏な気配があるとすれば別だ。手を合わせてごちそうさまをしていたイチに、のう、とかさねは考えていたことを口にする。
「天都でも使われている呪法だと、さっき言っておったな。イチは転身の呪のこと、知っていたのか?」
手を下ろしたイチがかさねのほうを振り返る。ああ、とうなずくイチの声に、複雑そうな感情がのぞくのをかさねは見逃さなかった。
「……孔雀姫が前に言っていた。天の一族の『わるいもの』を引き受けるのが『陰の者』の役割なのだと。イチは……」
「転身の呪は、天都ではごく普通に使われているんだ。壱烏の『陰の者』は十人。代わりばんこで、転身をしてた。やると寝込んで数日は動けなくなるし……、俺もそれで一度死にかけたことがある」
やはり、という思いがかさねの胸に兆した。イチがヒトの異変に最初に気づいたのも、呪法のせいだとすぐに見抜けたのも、何のことはない。すべて身をもって知っていることだったからだ。「陰の者」の役割については、以前天都を登ったとき、孔雀姫から話を聞いていた。けれど、こうして目の当たりにすると、割り切れない気持ちがこみあげる。
(なんという……)
(なんという、むごい仕打ちなのか)
天の一族の不浄を肩代わりするために存在する者。イチは生まれてすぐに双子の兄――壱烏と引き離され、双子は不吉であるという、ただそれだけの理由から、陰の者に貶められたという。そこに個人の意思や希望は介在しない。神に差し出される贄といったい何のちがいがあるのだろう。
何かをこらえるように、かさねは息を吐き出した。口を開くのには、少しの勇気が要った。この先の問いは確実にイチの内面に触れる。しかし聞かずにはいられなかった。
「お役目を……、イチは厭うたことはなかったのか」
誰かの代わりになる生を。
悔しく思ったことはないのだろうか。
だって、かさねならきっと――ゆるせない。狐神に差し出されたときのように、あるいは花嫁のさだめを明かされたときのように、全力で拒むだろう。抗うだろう。かさねは、自分をほかの誰かには譲り渡せない。
イチはかさねのほうを見た。
「……何故?」
そう尋ねる灰と金の眸があまりに澄んで、どこにも虚偽が見当たらなかったので、かさねは口を閉ざした。
「壱烏がしあわせなら、俺はそれでよかった」
その声に重なるように、森の古老の言葉が耳奥で蘇る。
あの男はこの先もあんたに降りかかる災厄を退け、身代わり続けるよ。命ある限り……それが『陰の者』の想い方だからね……。
(では、イチのわるいことは誰が代わってくれるのだろう)
この男の流す血は。
痛みは。誰が引き受けてくれるというんだろう。
誰かの代わりにぼろぼろになってばかりいるこの男の。
(……かなしい)
かさねは目を伏せた。
「かさね?」
目の端からぽろりと涙がこぼれ、気付いたらしいイチがいぶかしげにかさねを呼ぶ。何でもない、と眦をこすり、かさねはイチの両手をつかんで引き寄せた。冷たくなった手のひらに額をあて、少し擦るようにして、深く息を吐き出す。
……遠い。
あまりにも。
かさねとこの男では、生まれも育ちも、生きてきた軌跡や、そこから生ずる考え方や価値観といったものも、まるで異なる。だから、もしかしたら本当にわかりあえることはないのかもしれない。一生、わかりあえずに終わってしまうのかもしれない。だけど、それでも。だからこそ。
近づきたいと、――そう思うのだ。
すん、と鼻を鳴らして、かさねは顔を上げた。
「……イチ。そなたに想われていた壱烏はしあわせものだったのであろうな」
考えたことがある。
壱烏への愛情のほんのひとかけでよいから、かさねにも傾けてくれたらよいのにと。こんなにきよらかで、鮮烈で、研ぎ澄まされたひとふりの刀のような深い情をかさねは知らない。もしもそれをひとりじめできたら。一心に傾けてもらうことができたら、さぞかし甘美であろう。
だけど、それはたぶんちがう。
かさねが本当に欲しいものとは、きっと『ちがう』のだ。
「だが、かさねとは『半分』にしないか」
「半分?」
「かさねのわるいことを半分。代わりにイチのわるいことを半分。『半分こ』しよう。そなたがすべてを背負う必要はないのじゃ。かさねのわるいことを引き受けてくれたぶんだけ、かさねのよいことも半分にしよう。そうしたら、イチのよいことをかさねにも分けてくれ。きっととてもうれしくなるから」
引き寄せた手と手を繋いで、ふふんと胸を張る。イチは瞬きをして、それから何故か視線を下方へそらした。なんぞまた妙な顔をすると思い、何気なく頬に触れる。灰と金の眸がうっすら開いた。一度見つめ合ってから、かさねはそろそろと手を下ろして、一歩ぶん律儀に距離を取る。「おまえそれいい加減にしろよ」と若干気分を害した様子でイチが呟いた。
「だって、だぁーって今、やらしい気配を感じた! よいはなしをしておったのに!」
「しねーよ。あんた最近ほんとうに面倒くさいぞ」
「それだけ乙女を傷つけたということじゃ。思い知ればよい」
頬を膨らませていると、「かさね」とめずらしくきちんと名を呼ばれた。目を上げる。そのとおり「呼ばれている」のだと気付き、かさねは唇を尖らせた。といっても無視をすることはできず、のそのそかたわらに座り直すと、肩を引き寄せられる。
「わるかった」
「……イチ?」
「あれは俺がわるかった」
目を瞬かせ、おおおおおお、とかさねはひそかな感動に駆られる。イチが。謝っている。あのイチが。思わずそーっと額に手をやると、「なんだよ」とイチは頬を歪めた。
「いや、素直なそなたなんぞ珍しゅうて。熱でも出したのかと思ってな」
「だから、一言多いんだおまえは」
はー、と疲れた風に嘆息して、イチはかさねの背に腕を回した。普段のぞんざいな扱いが嘘のように、抱き締めるときのイチはやさしい。丁寧に、細心の注意を払って、腕の中に招き入れる。この男にこういう繊細さがあったのかとかさねは少し驚くし、他方でとてもイチらしいと思ったりもする。ひとに見せたがらないイチの内側は、繊細でやさしい。口元を緩めて、かさねは男にぎゅっと抱きついた。
「かさねの『よいこと』をはんぶんこ、じゃな」
満足げに微笑むかさねに対し、イチのほうから返事は返ってこない。微かな吐息がやわく耳朶に触れただけだ。かさねの言葉は届いただろうか、この男に。すべて理解されなくてもいい。ただ、少しだけでも伝わっていたらいい。この男のしあわせを願っている人間がここにいることに。いつか気付いてくれたら、かさねはうれしい。
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