五章 月の宴 3
翌朝、戻ってきたヒトから
海流のせいで島の外には出られないんじゃなかったか、とイチが尋ねると、島巫女が選んだ福の方に限っては例外もある、とヒトは曖昧に言葉を濁す。それにしたって何もかように急いで旅立たずとも、とかさねは凪いだ海を見つめる。当たり前だが、海原にすでに船影はなく、円の姿を見つけることはできなかった。
浜にはまた、海藻、鳥の死骸に流木といったさまざまなものが打ち上げられている。それらをよけながら、かさねはざるを片手に紗弓と波打ち際を歩いていた。朝餉用の貝を拾うためである。イチのほうは庵で薪を割っていた。
「しかし、いまだ小蛙たちが頭の中で合唱の練習をしているようじゃ……」
ずきずきと鈍い痛みを発するこめかみを押して、かさねは呟く。かさねの記憶にはないが、昨晩は帰ってきたあと嘔吐を繰り返してさんざんだったらしい。かさねは吐くのに慣れていない。ぐすぐすとむずがるかさねの背を叩いて、イチが盥を引き寄せていたのは切れ切れに覚えている。おかしい。昨晩はもっとときめく出来事があったはずなのに、締めが悪かったせいで台無しになってしまった。
「あんた酒はやめておいたほうがいいわよ」
紗弓にまで真顔で忠告され、かさねはしょんぼりとうなだれた。
波打ち際の潮だまりには、赤や白の貝が眠っている。それを手分けして拾いつつ、かさねは島の頂にある奥宮の方角を見上げる。鬱蒼と茂る森や岩場のせいで、ここから奥宮の鳥居は見えない。
「円はあのあと、まことに島巫女に会うたのだろうか」
「さあね。ふつうに考えれば、一夜の情けをもらったということでしょうけど」
「福の方すべてと? つまりそのう……」
「性交」
「せい……って」
ほわほわと頬を染め、かさねは俯いた。あんたいったいいくつよ、とざるを置く紗弓は呆れ顔だ。
「だってそなたはあるのか性交!」
「えっ、それくらい……。ないわよ……」
「であろう? かさねとて、絵草紙で四十八の手を学んだくらいだわ」
「それはすごいわね……」
「うむ。あれはすごかった」
深々とうなずいたかさねに、「あんたといると調子がくるう……」とぽそりと紗弓が呟く。いったいどういう意味か。かさねが尋ねる前に、紗弓は波打つ黒髪をかき下ろして、表情を隠してしまった。
「でも、よそものとまぐわう、というのは道理ではあるのよ。伝説でも、その土地に訪れた英雄がよくそこの娘と契るでしょう? 男はその土地の力を交合によって手に入れるし、娘のほうも外の力をうちに取り込むことができる。娘が産んだ子どもがたいてい何らかの異能を持っているのは、このためよ」
「なるほど?」
「巫女と契るのは、デイキ神の神意をうかがうことにもなるしね。……ただ、本当のところはわからないわ。見たわけじゃないし」
「島巫女に呼ばれたあと、皆島を出て行くというのも気になるな。海流によって閉ざされていると聞いたが、抜け道でもあるのか……?」
ううむ、と唸ってかさねは腕を組む。
「それに今の話だと、島巫女は『福の方』から何らかの力を得ているということであろ? 奥宮で会うたときには只人と変わらないようだったが」
「気になるならイチに行かせればいいじゃない。謎も解けるし、うまくすれば、デイキ神の神意もうかがえるし、一石二鳥よ」
「あ、あほう! さっきそなたが言うたではないか。あの奥宮では一夜の……」
「性交」
「せっ」
かさねの脳裏にめくるめく想像が駆け抜ける。悲鳴とも奇声ともつかない声を上げて、かさねはぶんぶんと首を振った。
「嫌じゃ! それは絶対に嫌じゃ!」
「ちょっと大声上げないでよ。びっくりするじゃない」
「そなた、このことイチに言うでないぞ」
あの男の自分への執着のなさを考えると、確かに謎も解けるしデイキ神の神意もうかがえるし一石二鳥だ、などと言い出しかねない。むしろ、そのうち言い出したらどうしよう。蒼白になり、かさねは頭を抱えた。絶対に阻止しなければ。
「かくなる上は、かさねの貞操を島巫女に……」
「あんたいろいろと間違えてるわよ」
首をすくめ、紗弓は草履を脱いだ足を海水に浸す。
ぱしゃんと軽い音を立てて、爪先で水を跳ね上げる。こういうときの紗弓は今にも龍に転じて、海に飛び込んでしまいそうだ。龍神の血よのう、と目を細め、かさねは微笑んだ。
「海に入るか? よいぞ、着物はかさねが持っているから」
手を差し出すと、紗弓は不思議そうに瞬きをして、それから目の端を染めた。べつに、と口を尖らせて、水を足でかき回す。
「いいわ。それにここの海は、苦手」
「六海とはちがうからか?」
「それもあるけれど……、水の流れが読みづらいの。本来のものに別のものが混じっているような。この島に入るときも、制御が効かなくなったしね。めったにないのよ、あれ」
「別のもの、のう。やたらにこの浜にひとやものが流れ着くのと何か関係があるのだろうか」
「さあね。よその海のことはわからないけど」
髪を手で押さえ、紗弓は睫毛を伏せる。気のないそぶりをしているが、伏せがちの目は何かを懐かしむように移ろう波を追っている。
(紗弓どのは何を目的にこの島へ来たのだろうか)
ふいに胸のうちに押し込めていた疑問が頭をもたげ、かさねは口を閉ざす。訊くことははばかられた。紗弓はおそらく胸のうちを明かさない。それに、おまえはどうなのかと尋ねられたときに、容易に返せる答えをかさねも持ってはいないのだ。
(それに、なんとなくわかる)
父――龍神の鎮魂のため、諸国をめぐっていたという紗弓。ことわりを覆す技を持つというこの島で、紗弓が願うのは父のこと以外に考えられない。よみがえりか、時の巻き戻しか。かさねは己の手のうちから消え去った龍神の最期に想いを馳せた。かさねとて、取り返せるものなら取り返したい。あの悲しみや悔しさをなかったことにできるなら。
(けれど、どんなに願ってもそなたに再びまみえることはないのだろうな。龍神よ)
(紗弓どのの望みは、たぶん叶わない)
胸を刺す棘のような痛みに息をつき、かさねは薄曇りの空を仰ぐ。
紗弓の傷つく姿を、できればもう見たくない。
そう思うのも、龍神をすくえなかったことへの後ろめたさゆえだと、イチならば言うのだろうか。
*
庵に戻ると、厨に立ったヒトが鍋で出汁をとっていた。集めた貝を渡せば、さっそく塩抜きを始める。六つの少女とは思えない手際のよさだ。炊き上がった飯をよそって、海藻の味噌汁、煮魚を並べる。貝のほうは次のごはんに回されたようだ。
「いただきます!」
手を合わせて、かさねは茶碗を持った。
「ヒトはきのうはどこへ行っておったのじゃ?」
「おつとめしてた」
「おつとめ? 島巫女のもとでか」
こくりとうなずいたきり、ヒトは口を引き結んで、味噌汁を啜った。
煮魚を咀嚼していたイチがどこか気づかわしげにヒトを見やる。この男が他人に対して関心を持つのはめずらしい。はて、と不思議に思っていると、イチの手がおもむろにヒトに伸びた。
「おい」
傾いだ小さな身体をイチが受け止める。ヒトの持っていた茶碗が転がって中のものが床に広がった。
「ヒト!?」
驚いてかさねは腰を浮かせる。ヒトは青褪めた顔をして、苦しそうに背を折り曲げている。ヒトの首筋に手をあてたイチが「冷たい」と呟いた。
「ここの家、火鉢はあったか」
「確か厨の隅に。持ってくる!」
「ああ」
イチがヒトの身体を抱き上げて、褥の上に移す。火を熾した火鉢を引きずって、かさねが戻ってくると、衣をまくったヒトの胸にイチは手をあてていた。ひと目見て、これは、とかさねは呻く。小さな身体におびただしく描かれた幾何学模様の呪字。それがヒトの心臓の鼓動に合わせてにわかに発光していたのだ。
「転身の
「てんしんの……」
「病や老いをはじめとした、あらゆる不浄を別の者に移して清める。天都ではおなじみの呪法だ」
天都は神気に満ちた清浄の地。天帝に仕える天の一族もまた、その身を清浄に保たねばならない。ゆえに彼らの「けがれ」を移す依代たる「陰の者」が必要とされるのだと、前に孔雀姫が言っていた。「壱烏のわるいものぜんぶ」イチが引き受けてきたように。
褥に寝かせられたヒトからは血の気が失せ、腕に触れると氷のように冷たかった。死人の膚とはかようなものではないかというくらい。
「イチ、ヒトは平気なのか? かさねは何をしてやればよい?」
「移されたもんはどうにもならない。こいつが自分でどうにかするしか」
「そんな……」
「ただ」
眉根をきつく寄せたヒトの額に、イチは手を置いた。
「触れていると、少しはあたたかいだろ」
うむ、そうじゃな、うむ、と何度もうなずき、かさねはせっせとヒトの腕をさする。 冷えきった白い膚はなかなかぬくもりを取り戻さない。かさねが与える熱がすべていずこかへ吸い取られていくようだった。つらいのだろうか。ヒトは背をこごめているだけで声を発しない。
(何故)
(六つの子どもがかような目に遭わなければならない)
(……何故!)
怒りにも似た気持ちが湧いてきて、かさねは忌々しげに小さな身体に描かれた呪字を睨む。鼓動に応じて鈍く輝いていたそれは徐々に光を失い、そのうちふつりと消え去った。ヒトの膚が淡い赤みを取り戻したのは、しばらくあとのことだ。
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