一章 人魚の声 4
戸口にかかっていた火を消して、かさねは寝台に横たわる。夜中も船は進んでいるようで、寝台につけた背中から微かな振動が伝わってきた。身体はくたくたに疲れていたが、目は冴えてしまっている。
「イチはどうしておるかの……」
呟き、かさねはカムラが手当をしてくれた手首を眼前に掲げた。
かさねが釣り上げられたのが燐圭の船であると、イチは気付いただろうか。気付いたとして、どのくらいで助けに来てくれるだろう。そもそも、イチをはじめとした紗弓や童たちは無事なのか。
「ふふ。ついに人なのかと訊かれてしまったわ……」
手首を目元に押しつけ、ふふ、とかさねは力なくわらった。
「……ほんに人でないなら、かようにつらくもなかろ」
寝台にうずくまって、どこでもない場所に向けてぽつんと呟く。痛いほどの静寂にこめかみが疼き、かさねは目を瞑った。しばらく枕に顔をうずめていると、次第に睡魔が押し寄せてくる。抗わず、かさねはうとうとと夢の浅瀬を漂い始めた。気付けば、かさねの身体はふわりと寝台から浮き上がって、船内を漂っている。
夢を見ているのだろうか、あるいは魂だけが身体から抜け出てしまったのか。
夢うつつのまま甲板に出ると、透けた手のひら越しに煌々と照る月が見えた。見張りの船員が近くの松明に木を足していたが、かさねに気付いた様子はない。興味を引かれて男の脇腹のあたりに頭突きをすると、ぶるっと悪寒が走ったようで鳥肌を立てた。なんだか面白い。
(……歌?)
寄せては返す波音に混じり、途切れ途切れの旋律が聞こえて、かさねは顔を上げる。子守歌にも似たやさしい旋律だ。船のへりに腰掛けたかさねは、旋律をなぞってふんふんと鼻歌をうたった。かさねの声が、歌い手にも聞こえたのだろうか。ふいに歌が止み、代わりに小さな声が囁く。
(来て)
『どこへじゃ?』
(来て)
(たすけて)
(……水)
(くるしい)
『そなた、まさか燐圭が捕らえた水魔か』
思い当たり、かさねは尋ねる。
あたりを見回すが、水魔らしい影はない。
(おねがい)
(たすけて)
声はそこで途切れた。
「――っ!?」
びくっと背をのけぞらせて、かさねは飛び起きた。
先ほどまで実感のなかった手足に急に血が通ったのがわかる。震え出しそうになった身体を抱き締め、「今のは……」と呟いた。こくんと唾をのみこみ、かさねは寝台から降りる。火はなかったが、引き揚げられたときにつけていた行李には確か月苔石が入っていたはずだ。手探りで足元の行李を開き、ほのかに光る石を取り出す。
狭い通路は人気がなく、暗かった。しばしためらってから、かさねは水を入れた竹筒を持って、部屋の外に出た。
(水、とあの者は言っておった)
(もしかしたら、ひどく苦しい思いをしているのかもしれぬ)
水魔の檻がある部屋までの道はかろうじて覚えている。薄暗い通路を月苔石を掲げて進み、かさねは最奥にある部屋の戸を開けた。燐圭と入ったときと同じ場所に、セワの青い布がかけられた檻が鎮座している。
「かさねを呼んだのは、そなたか?」
尋ねて、そっと布を下ろす。人魚の木乃伊は、先ほどと変わらない痛ましい姿で檻の中央に縛りつけられていた。
「水が欲しい? かように縛られて、つらかったであろうな」
檻の前にかがむと、かさねは木組みの格子の間から手を伸ばし、木乃伊を縛る紐を解いた。赤子ほどの大きさの人魚を引き寄せて、水を入れた竹筒の蓋を開く。引き結ばれた人魚の口元に筒を近づけたが、干からびた膚にぱらぱらと水がかかるだけで口内に入っていかない。木乃伊自体に変化も起きなかった。
「まだ苦しいか? うん?」
固く閉じられた瞼にそっと触れ、かさねは竹筒の水を自分の口に含んだ。腕に抱いた水魔の乾いた口に唇を合わせ、水を流し込む。ぬるい水が口伝いに人魚の口内に吸い込まれていくのがわかった。腕の中の身体が、ふいに大きく波打つ。
「んっ!?」
鋭い爪の生えた手が、かさねの身体をがしりとつかんだのがわかった。さながら猛禽にも似た爪の強さに、思わず口を離そうとしたが、残りの水分も寄越せとばかりに深く口付けられる。
「ん、ん、んむー!!!」
(なんぞ)
(いま、嫁入り前の娘として、たいへん破廉恥なことが起きておる!)
はなせ、はなせ、とじたばたともがいて、弾みにかさねは相手の舌を噛んだ。わざとではない。口の中にあったからまちがえて噛んでしまったのだ。さすがに驚いたのか、水魔の拘束が緩んだ隙に、檻から飛びのく。
(な、なに、舌……、舌が入っ……!?)
混乱のあまり、むせこみながら涙目になって叫び、かさねは己の異変に気付いた。
(声……)
咽喉に手をあてて、もう一度おそるおそる口を開く。
(嘘……嘘であろ)
(声が……)
先ほどからかさねは喋っているつもりだ。
それなのに、咽喉が震えない。何も聞こえない。
(声が、でない)
「ははっ、本当に引っかかった。ひとの娘とは、かように愚かなものなのか?」
代わりに檻のうちから聞こえてきたのは「かさねの声」だった。低く押し潰すように話しているので、声変わり前の少年のようにも聞こえる。
(そ、そな、そなた……)
「たすけてくれて、ありがとう?」
月苔石のほのかな明かりが、檻の中の人影を照らす。憐れな木乃伊の姿はすでにそこになく、十二、三ほどの少年が透き通った白い裸身を床に横たえていた。猛禽のような手が格子のあいだから突き出される。ひっ、と呻いてかさねは尻餅をついたまま、あとずさりした。
「そう怯えなくていいのに。水が欲しいだけだ。何年もあの姿だったものだから、どこもかしこもからからだよ」
かさねの足元に転がっていた竹筒を取り、水魔はそれを飲みくだす。
(そなた、そこにいた水魔か……?)
「ああ。ひとに捕まったせいで、海から離され、ひどい仕打ちを受けていた。昼にあなたが血をくれたから、やっと力を取り戻すことができたんだ」
(感謝をしているなら、かさねに声を返せ!)
「嫌だね。俺たち水魔は、地上で喋る術を持たない。代わりにひとから声を奪って使う」
(かさねを呼んだのも、はじめから声を奪うつもりで……?)
「水魔の声に応えるあなたがいけない。同情なんかして、迂闊な娘だ」
艶やかにわらい、水魔はかさねの足首をつかんだ。虹色の鱗が薄く覆った手のひらは、氷のように冷たい。魔性を感じさせる美貌を綻ばせ、水魔は低い声で囁いた。
「この船のぬしを呼んで。海の神器を探しているのだろう。今は滅び去りし海神の眷属として、彼に話がある」
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