五章 月の宴
五章 月の宴 1
「将軍。大地将軍……!」
深い瞑想に沈んでいた
あれからいったい何日が経つのか。水以外口にしないでいた身体はあばらが浮き出て、立つと軽く眩暈がした。
「騒々しいな」
まばらに生えた顎髭を撫ぜて、燐圭は扉の内鍵を開く。すぐに配下の者が中に飛び込んできた。変わり果てた燐圭の姿を見て、「ひぃ」と息をのむ。とっさに弔いの詞をあげようとした男に、「生きておる」と若干むっとした顔つきになって言った。
「五日になるので、よもや死んでおられるのではないかと」
「ほう、そんなになるのか。道理で腹が鳴るわけだ」
肩をすくめ、燐圭は社を閉ざしていたすべての扉を開け放つ。朝陽が中に射し込み、祭壇に置かれた太刀を照らし出した。
「あなたさまがあまり表に顔を出さないゆえ、ちまたでは大地女神に次の将軍職をもらおうとする者まで現れる始末ですよ」
「ははっ、あの女神のお気に召す男がすぐに現れてたまるか。その大地女神と私は語りあっていたのだぞ」
「女神はいかなるお告げを?」
「お告げか。ふふん」
太刀を肩に担ぐと、燐圭は社の外にある井戸で身を清めた。男の差し出した小刀で髭を剃り、髪を整える。ついでににぎりめしをひとつふたつとほおばると、生きかえった心地がした。かつて、大地将軍の力を得るために、燐圭は一度己の胸を太刀で突き、女神への交信を試みた。大地女神は激情の女神だ。死を恐れずに語りかける者に、はじめて声を返してくれる。こたびは瞑想の果てに、天の烏が舞い降りる金でできた剣を見た。
「ひとつは、天帝の目覚めは近いということ。そして、降り立つ場所についても」
「なんと。それはたいそうな話ではございませんか」
「夢解が必要だな。さゆこを呼べ」
「はっ」
男の背を見送って、燐圭は井戸端に腰掛ける。大地女神の加護を受けた太刀は触れると熱く、今にも暴発しかねない陰気を湛えている。天帝を斬る。その一点においてのみ、大地女神と燐圭の目的が一致しているからだろう。
「燐圭さま」
夢解の娘は、そう時間をおかずにやってきた。かつて神に食われかけたところを燐圭に助けられた娘は、以来燐圭を慕ってともに行動している。いにしえの道に通じる娘はこの手のことに詳しかった。
「燐圭さまがご覧になったのは、
燐圭の話を静かに聞いていたさゆこは、やがて口を開いた。
「神器?」
「神の力を宿した宝具のことです。優れた神器は、神々が降り立つ依代にもなるとか。いにしえの神器について聞いたことは?」
「鏡、玉、剣か」
「鏡は天に、玉は大地女神が所有し、そして剣は龍神に守られて海にあると申します」
さゆこの声は清冽な水のようだ。ふうむ、と髭を剃った顎をさすりながら燐圭はうなずく。
「龍神といえば……六海か? しかしあれはすでに消滅したぞ」
「そのときに海の底に沈んだのやもしれません」
「見つけることは難しいか……」
考え込む燐圭に、どうでしょうか、とさゆこは微笑む。
「燐圭さま。わだつみのものは古来よりわだつみのものに聞けと申します」
「なるほど?」
わだつみ――海に住まうのは龍神だけではない。たとえば島女神、泡を息吹とする童神、航海を司る神、それに神々の眷属となる水魔たち。
「水魔は今ではずいぶん数を減らしたと聞きますが」
「探す手立てはあろう」
目に爛々とした輝きを宿して、燐圭はうなずく。それからさゆこのほっそりとした腕を引き、二十を過ぎても小柄な体躯をあぐらをかいた膝のうえに乗せた。女の髪を無骨な指先で撫ぜる。
「そなたはよいな。話をしていると、頭が澄み渡るようだ」
「それはよろしゅうございました。して、見つけた神器をどうなさるおつもりです?」
「壊す」
燐圭のこたえは明快だった。
「ただし、壊すのは天帝が神器に降りてからだ。かの神の力がもっとも弱まるのは、こちらのものに降りたそのときのはず。神器ごと葬り去れば、労せず消し去れよう?」
「……恐ろしいことをお考えになる」
さゆこは整った眉根を寄せただけで、それ以上は何も言わなかった。燐圭の殺気に触発されたのかもしれない。大地女神の怨念を宿した刀がぶるりと震え、青い火花が散った。
*
「へーっくしっ!」
悪寒を覚えて思いきりくしゃみをすると、「ちょっとおやじみたいなくしゃみをするのやめてよ」と紗弓が眦を吊り上げた。
「すまぬすまぬ。なんぞ遠方から嫌な気配がしての」
懐紙で鼻をかんで、かさねは水平線の向こうにぼんやり浮かんだ橙の灯りを見つめる。よくは見通せないが、あれが碧水の明かりであるという。宵の空には一番星が輝き、雲が龍のうろこのように広がっている。本宮の鳥居をくぐると、四方に篝火が焚かれて月の宴の準備が始まっていた。島巫女が住まう奥宮に対して、浜辺に近いこちらの社が本宮となっているようだ。見るからに古い造りで、色の剥げた大鳥居は苔むしていた。
「莵道かさねじゃ。しばらく世話になるぞ」
拝殿でデイキ神への挨拶を済ませると、ところどころ朽ちた社を見渡す。島民が少ないせいか、あまりきちんと手入れができているという印象は受けなかった。島巫女は今もデイキ神へ崇敬の念を抱いているようだったから、このありさまは少し不可解でもある。
「かさね」
拝殿の裏に回っていたイチに呼ばれ、建物の背の部分にあたる壁を見上げる。イチが手元の明かりを掲げると、微かな彩色が見て取れた。
「壁画……か?」
「神社の縁起を描いているらしい。この、舟に乗っている男神がデイキ……天帝の兄神だろうな」
イチが示す先には、海上を漂う葦舟とデイキ神の姿が見て取れる。不具の身であった天帝の兄神は国を追放され、島流しにあう。このあたりはハナが語っていた伝説のとおりだ。ただし、葦舟に座るデイキ神の姿はひとの身と大差なく、四肢もひとつとして損なわれることなく描かれている。
「デイキ神は不具の身という話だったが……」
「ああいう話は、語り継いでいるうちに捻じ曲がるもんだ」
イチはかさねに明かりを預けて、壁画に手を置いた。爪で染料をこすり取り、においを嗅ぐ。
「丹……。退色が進んでる。ざっと数百年は前のものだな」
「しかし、信仰が篤いというわりには、この社……あまり手入れがされている気配がないというか」
かさねは先ほど抱いた違和感を口にする。明かりを壁画に近付けると、表面には黴が生え、もとの木も腐りかけていた。
「なあ、島を見て、あんた気づいたか」
「何がじゃ」
「男がいない」
イチは金と灰の眸を眇めた。そういえば、とかさねは井戸端で野菜を洗う女たちや子どもたちが水盆を取り囲む姿などを思い浮かべる。道すがら見た集落のどの風景にも男はいない。今の時期なら、日中力仕事をする男が外に出ていてもおかしくないのに。
「まさか……。なら、あの子どもたちの親はどこにいるのだ」
「まあな。隅々まで回ったわけじゃないし、見間違えかもしれない。けどこの島、おかしいぞ。特に、島巫女」
「千どの? 先ほど話した様子だと、親切な御方のように思えたが」
「表向きはな」
何かの気配を感じた様子で、イチはそれ以上の言及を避けた。ほどなく小さな灯りをひとつ掲げた少女が現れ、礼儀正しく目礼をする。
「福の方。宴の用意が整いました。こちらへ」
「……あんた、ヒトじゃねえな」
ヒトと同じくらいの背丈、髪型、声であるが、イチの言うとおりよく見ればヒトとは顔つきがちがう。少女は足を止めて、少し首を傾けた。
「ヒトねえさんは大切な『おつとめ』を終えたあとなので」
「おまえは?」
「ミツです」
ヒト同様、淡々と告げ、ミツはきびすを返した。少女に案内されて、野外に幕を張り、準備された宴の席に座る。桟敷のうえには、焼いた魚や山菜、木の実などを使った膳が並べられている。おおおおおお、とめったにないごちそうを目にして、かさねは唾を飲み込んだ。
「イチ……! 見よ、久方ぶりのごちそうじゃ!」
歓声を上げて目の前の袖を引っ張るが、イチのほうは別のものに注意を向けている様子で反応が薄い。
「イチ?」
自分を隠すようにたちはだかるイチの背から、かさねはそっと顔をのぞかせた。桟敷にはかさねたち以外にも、三つの膳が並べられている。その前に座る、見知らぬ三人の男。年齢も雰囲気もまちまちだが、一様にこちらへいぶかしげな視線を向けている。
「どちらさま……かの?」
探るような沈黙に首を傾げ、かさねは尋ねた。
「福の方です」
男たちが答えるより前に、ミツが口を開く。そういえば、島巫女がかさねたちの前にも何人か浜に打ち上げられた旅人がいたと言っていた。つまり彼らがそれか。
同じようなことを考えたのだろう。いちばん年嵩の男が「あんたらもこの島に流れ着いたクチか」と薄く笑って、盃を差し出した。
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