四章 デイキ島 3
あーかいおはなとしーろいおはな、
うかぶとしずむと、どーっちだ
子どもたちの歌う声が聞こえて、かさねは足を止めた。くるい芸座で、いちが口ずさんでいたわらべ歌に似ている。見れば、水を張った盥に子どもたちが集まり、水面に投じた赤いおよりと白いおよりを膝を詰めて見守っていた。
「こちらのほうでは知られた遊びなのかのう」
「水盆を通じて神と交信をはかるのは、六海でもやっていたわね」
起き抜けの頭をだるそうに振りつつ、紗弓がこたえた。島巫女と面会を果たした帰り道、ようやく紗弓は目を覚ました。この気位の高い少女は、イチに背負われている状況に唖然となり、今は若干ふらつきながら自分の足で歩いている。見かねたかさねが腕を貸そうとすると、「要らない」と睨まれた。
デイキ島は島巫女が指導者となり、小さな集落をつくっているようだ。昼下がりのこの時間、並んだ家々からは機織りの音や炊事の煙が上がっている。井戸のそばでは、野菜を洗う少女たちの姿。のどかな島の風景だ。
「水盆? ああ、六海の離れ小島にあったものか」
「龍神をはじめとした水を司る神々は、水を媒介に私たちと交信をはかるわ。島をおとなうことを考えると、デイキ神も水系統の神なのかもしれない」
ふうむ、と紗弓の話に相槌を打ちながら、かさねは脳裏に千年前の地で出会った天帝の姿を思い描く。泉を焼き払うほどの熱と火気。かたどった姿は火鳥。天帝のほうはおそらく火系統の神だ。兄弟で相反する性質を持つのは偶然だろうか。
「ねえ、あんた背籠の中身はどうしたの?」
ヒトの小さな背には不釣り合いの籠を指して、紗弓が尋ねる。浜辺に打ち上げられたものをヒトは選んで背籠に入れているようだった。先ほど、島巫女の社でフタに中のものを渡しているのは見たが、確かに、いったい何に使われるのだろう。
「浜に打ち上げられたものは、どれも『福』だから。集めるのはわたし、
「占場?」
「デイキさまが降り立つところ。『福』はみな、デイキさまに捧げるの」
ヒトの話し方は明快だが、童女らしい感情というものがすっぽり抜け落ちている。まだ六つか七つの子どものはずだ。同じことを感じたらしく、紗弓は気味悪げに眉をひそめた。話は終わったものとまた歩き出そうとしたヒトの隣に、かさねは並ぶ。
「その占場とやらはここから近いのか?」
「岬の端。……けど、占場には巫女さまとわたしたち以外は入れない」
「フタひとりで運ぶのは大変だろう。かさねも手伝うぞ」
「よそものは入れない」
にべもないヒトの返事に、むうん、とかさねは困り顔をする。これはなかなかに手ごわそうだ。空の背籠を背負い直すと、ヒトは坂道を足早にくだっていってしまう。しかしかさねも諦めない。呆れた顔をしている同行者ふたりを置いて、ちょこまかと童女のあとについていく。
「のう! ヒトはこの島で生まれたのか? 歳はいくつじゃ!」
「……」
「ちなみに、かさねはここよりずっと北方にある莵道の国で生まれた。国というのもおこがましい貧しき土地でな。山に住まう狐神と仲良うやりながら、細々と暮らしている」
「……」
「かさねには兄さまと姉さまがたくさんおってなー。そういえば、『兄さま』に『姉さま』だと誰が誰だかようわからんから、『一の兄さま』、『二の兄さま』と呼んでおったな……。どの兄さまも姉さまもかさねを可愛がってくれてのう、父上だけはたぬきだが」
「母上は?」
話しているうちに懐かしくなってきて、兄や姉のやさしい顔や父の腹立たしいたぬき面を思い浮かべていると、ヒトがおもむろに口を開いた。童女の真摯な眼差しに眉を上げて、かさねはうなずいた。
「母上はかさねを産んですぐに儚くなられたゆえ、顔を知らぬ。父上は母上のことは愛していたらしいと聞いておる」
「……そう」
かさねを見つめるヒトの目に、にわかに何かの感情がよぎって消えた。そっと俯いたヒトに、「ヒトのお母上はどんな方なのだ?」とかさねは尋ねる。ヒトは足元に目を落としたまま首を振った。
「知らない。……わたしも島に流れ着いたのを巫女さまに拾ってもらっただけだから……。フタもミツもシイもイツもみんなそう」
口早に呟いてから、話し過ぎたと思ったのだろう。ヒトは口を引き結んで、背籠のしょい紐を握り締めた。凍てた潮風が海のほうから吹き抜ける。そうか、と顎を引き、それ以上は訊かずに、かさねは頬にかかった髪を耳にかけた。
今はちょうど島の中腹に位置するため、デイキ島を取り巻く海が見渡せる。時折白波の立つ昏い海面から近くに目を戻すと、イチは何やら複雑そうな顔でヒトの小さな背を見つめていた。
*
ヒトが案内した庵は、集落から離れた浜のそばに立っていた。ヒト曰く、浜に打ち上げられた「福の方」は皆、島の者が暮らす集落ではなく、間をあけて立ち並ぶ庵のほうへ案内されるらしい。今は戸が締められているが、ほかの「福の方」もそれぞれの庵にいるのだろうか。
庵は樹を組んで作られた高床式の簡素なもので、中には広い一間がもうけられていた。竹で編んだ衝立で、自由に仕切って使うらしい。夜には島巫女が言っていた「月の宴」が、島の本宮で開かれるとのことだった。宵の頃にまた迎えにくると言い残し、ヒトは庵から出て行った。
「占場、かしらね」
坂道をのぼる小さな背を縁から眺め、紗弓が呟く。
かさねたちの着物は、海に落ちたせいで塩気を含んで、まだ少し湿っている。ヒトが替えの着物を用意していったので、それに着替え、もとの着物のほうは洗うことにした。大盥にためた水に衣を放り込んで、足でじゃぶじゃぶとかさねが揉んでいると、紗弓が立ち上がるそぶりを見せた。
「待て」
その腕をイチがつかむ。
「今、追うのは早い。島巫女たちに警戒されると、島を追い出されるぞ」
「ふん。ずいぶん悠長なことねえ」
「旅が長いもんで。どこぞの海では、龍神に生贄に差し出されそうになったしな」
イチの悪態に、目に見えて紗弓の表情が険しいものに変わった。
「何が言いたいわけ」
「こっちの足を引っ張られたくないだけだ」
「私がいなかったらこの島へもたどりつけなかったくせに。むしろ感謝されていいくらいよ」
「あんたもこの島には用があったんだろ? ひとりで行くには危険が多いから、俺たちの話に乗った。お互いさまだ」
「まあまあイチ。紗弓どの」
剣呑な気を帯び始めたその場を察して、かさねは盥に両足を入れたまま、取りなしを試みる。一般的には美しいと評されるふたつの顔から、口を挟むな、とでも言いたげな冷たい一瞥が返った。さながら氷の刃である。
「何と面倒くさい輩であることか……」
「何か言ったか」
「何か言った!?」
息を逃していると、同時に反論が返った。それがまた癇に障ったらしい。苛立たしげに顔を歪め、「浜へ行くわ」と紗弓は身を翻す。
「海のようすを見てくる」
「夜は宴があると巫女どのが……」
「それまでには戻ってくるわよ」
ふんと鼻を鳴らして、紗弓は草履を履く。足早に離れていく後ろ姿を見送り、かさねは嘆息気味にイチを振り返った。
「そなた……ほんにすぐにひとに悪態をつく癖、どうにかせいよ」
「別に本当のことを言っただけじゃねえか」
「言い方ぞ、言い方。何故、紗弓どのを責めるように言う」
「おまえはやたら紗弓を庇うな」
かさねから洗い終えた衣を受け取って搾りながら、イチが言った。
「龍神をすくえなかったことに後ろめたさがあるのか?」
金と灰の眸がまっすぐかさねを見る。飾らないイチの言葉は、ときに核心をついて、ひとの胸のうちを暴いてしまう。だから、諍いが絶えない。
「……言い方ぞ」
眉根を寄せて、かさねは残った衣を踏み出した。ちゃぷちゃぷと沈黙のあいだに水の音が響く。しばらくの間、イチは何かを図るようにかさねを見ていたが、結局腰を上げて、軒と木の間に架けた紐に衣を干し始めた。その背に、かさねは道中気になっていたことを聞いてみる。
「ヒトになんぞ感じるところがあったのか?」
「何?」
「微妙そうな顔でずっと見ておったから」
肩越しに目を向けたイチは、少しばつが悪そうな顔をする。
「たいした話じゃない」
「そうか?」
「ただ、ヒト、フタ、ミツ……ってひでえ名付け方だなと思って」
いちばんめだから、イチ。
にばんめだから、フタ。ミツ。シイ……。
それきり黙ってしまったイチの横顔に目をやり、かさねは頬を緩める。
「かさねはイチの名前、好きだぞ。わかりやすくて」
「褒めてないだろ、それ」
「あと呼びやすい!」
憮然とする男にふふっと笑って、洗い終えた衣を差し出す。風が吹いて、濡れた衣が一斉に翻った。その合間を時折かしましく、いつもの話し声が花を咲かせる。
*
社では女の細い呻き声がしている。しわがれ、かすれたそれは、断末魔に似た響き。日没ごとに繰り返されるそれに子どもたちはすっかり憔悴し、身を寄せて互いの手を握るばかりだ。
ずず、と粘ついた何かが床を擦る気配がして、ヒトは肩に顔をうずめるフタから目を上げた。固く閉じられていた板戸が外れ、薄闇からするすると白い手が伸びる。それはゆっくり手招きのかたちをした。
「ヒト、フタ、ミツ、シイ、イツ。おいで、わたくしのかわいい娘たち」
甘い蜜を含んだ声が子どもたちを呼ばう。震える義妹たちの頭に手を置いて、ヒトはひとり立ち上がった。捨てられない、どうしても。このひとはヒトたちの大事な「おかあさま」だから。
「巫女さま」
さまよう白い手を両手でそっと包む。そうすると、ヒトの身体は強い力で社のうちに引きずり込まれた。焚きしめていた香のにおいが強くなる。さらさらと衣擦れの音を立てて、島巫女は千早と緋袴を脱ぎ捨てた。おぼろな蜜蝋の灯りに、女の肢体があらわになる。
「夜の準備をしなくては。手伝いをしてちょうだいね、ヒト?」
何かが這うような湿った音がして、間近の几帳がぱたりと倒れた。
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