四章 デイキ島

四章 デイキ島 1

 出立の朝はよく晴れた。

 碧水ヘキスイの海は透明な空の青を映して、穏やかな白波を立てている。海流が複雑だ、というハナの言が信じられないくらいだ。朱の組紐できゅっと白銀の髪を結んだかさねは、埠頭の先に立って手庇を作り、海を見渡す。


「出航日和よのう!」

「船はあたしから碧水商人に借りてやったわよ。紗弓がいるとはいえ、あんたたちは泳げないでしょう?」


 朝のうちにひそかに手配をしてくれたらしい。あくびをしながら話すハナの手を握って、「かたじけない」とかさねは破顔する。ハナのそばには、今年三歳になる息子「いち」がいる。この数日のうちにすっかり仲良くなったいちは、かさねが湊を出ることを知ると、腰に腕を回してむずがった。


「かさねが行くなら、おれも行くうー。まだあそぶうー!」

「いちはもうちっと大きくなったらな。お母上に教わって、立派な舞人になるのじゃよ」


 フエ譲りの癖っ毛をくしゃくしゃとかき回してなだめる。赤くなった目でかさねを見上げ、いちは真剣な顔で言った。


「大きくなったら、かさねはおれと結婚してくれる?」

「えー、その頃にはかさねは年増になってしまうぞー?」

「年増でもいいの。絶対だよ、かさね。やくそくして!」

「いちはかわゆいのう。でっかいイチのようにやぁらしい男には育つでないぞ」


 ふんふんと手を繋いで話していると、フエの肩に乗った老鸚鵡を撫でていたイチが何やら冷たい視線を向けてきた。一時目を合わせてから、ふんとかさねはそっぽを向く。


「あたしが言うことじゃあないけど、あんたたち、大丈夫なの……?」

「何の問題もない。まあかさねの貞操の心配でもしていてくれ」

「発育不良児のぶんざいでよく言う」

「発情した獣はなんでも食うらしいゆえな」


 きわどい応酬をしていると、「紗弓をあんたらの面倒ごとに巻き込まないでちょうだいね」とハナが渋い顔で釘を刺した。

 船は木製で、人力の櫓がついている。四、五人が乗ってちょうどくらいの大きさだ。紗弓の見立てでは、島まではまっすぐ進めば、二刻とかからないという話だったが、念のため数日分の旅食や荷を積み込む。


「沖まで漕ぐか」


 尋ねたイチに、「必要ないわ」と返して、紗弓が帯を解いた。しろじろと光を帯びた魅惑的な肢体があらわになる。おお、とどよめくくるい芸座の男衆の頭をハナが叩いているうちに、紗弓は衣をすべて脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。きれいな流線を描く身体がみるみる白銀のうろこにのみこまれ、一頭の龍に転じる。その背に小舟に取り付けた縄を繋ぐ。きらりと尾を翻し、龍はイチとかさねを乗せた小舟を力強く引き始めた。


「かさねー! さゆー! いちー! いってらっしゃあーい!」

「うむ! みなも元気でな!」


 埠頭から声をかけるいちとくるい芸座の者たちに手を振り返し、かさねは冬の海を見渡す。紗弓に引かれた小舟はあっという間に沖に出て、海原を進んでいく。ときどき驚いた様子で跳ねた魚がまちがって船の中に飛び込んできてしまい、かさねはそれらを手ですくって海に戻してやった。潮のにおいがする水飛沫が頬にあたる。


「さすが紗弓どの。どんどん進んでゆくのう」

「ああ。――かさね」


 波の向こうにゆらめくまだ小さな島影に目を凝らしていると、対面に座ったイチが声をひそめてかさねを呼んだ。瞬きをしたかさねに、イチは水面下で翻る白銀の身体に視線を落として呟く。


「紗弓にあまり気を許すな」

「……何ゆえ?」

「あいつが『ニンゲン』に何をされたのか、おまえ忘れたのか」


 その言葉に、かさねはふいに心臓のあたりを鷲づかまれる心地がした。


 ――あんたたち人間を、私は決してゆるさない。


 すべての始まりともなったあの六海の地で、紗弓はイチにそう言い放ったのだという。そうだ。紗弓は父親である龍神を目の前で大地将軍に討たれたのだ……。


「今のところ、こちらに危害を加える気はないらしい。だから、放っておく。どちらにせよ、デイキ島まではあいつなしじゃ行けなかったからな。でも、こっちの事情をむやみに話すんじゃねえぞ」

「……わかった」


 紗弓には一度謀られて異界へ落とされたことがある。父を想う娘ゆえとはいえど、かさねも慎重にうなずくほかなかった。

 数日前、ハナたちくるい芸座の面々と話す紗弓を見たときは、よかった、と思った。紗弓の悲しみは彼らとの出会いで、きっと癒されたのだろうと。けれど、そうもたやすくひとの心の傷が癒えるものなら、……壱烏の死がかように複雑な陰影をイチに落とすこともないだろう。

 うかがうように上目遣いで見やると、イチはひとつ瞬きをして、かさねからは離れた小舟の端に座り直した。


「べ、べつになにも言っとらんではないか……」

「あんた、俺が近くにいるの嫌なんだろ」

「そんなことも言うとらんではないか」


 どうしてそういう風に突っかかった物言いばかりをしてくるのだろう。ふつうに会話をしてくれれば、あの晩は言い過ぎた気がする、とかさねも謝れるのに。


(……だって嫌だったのだもの)

(イチがかさね以外のおなごに触れるのは嫌だったのだもの)


 そんなかさねの繊細な乙女心を。


(粉々に叩き壊すのだから、この男は……!)


 だって、仮にちゅうをするにも、もっと場所とか、雰囲気とか、いろいろと大切なものがあるのでは!? 後生大事に取っておいたのに、ものすごく中途半端なところでつるっと済ませてしまったというか、


(ここじゃない! ここじゃないところで済ませてしまった感があああああ!)


 あああああぁああああ思い出すといかん腹が立ってきた、と船のへりにごんごん頭を打ち付けていると、おもむろに大きく船が揺れた。


「な、なんじゃ?」


 身を起こしたかさねをつかみ寄せつつ、「島を取り巻く海流に入ったんだ」とイチが島影を仰ぐ。いつの間にか、なだらかな稜線を描く細部が見えるほどに島に近付いていた。海上に色褪せた鳥居が立ち、その先の白浜には背籠をしょった小さな人影が歩いている。あれがデイキの島民だろうか――。


「ふおっ」


 いきなり横殴りの力が加わって、かさねは外へ投げ出されかけた。イチがかさねの腕をつかんで船のほうへ引き戻すが、その船自体が波に持ち上げられて横転する。


「――っ!!」

 

 龍の身体が海流に押し流されていくのが見えた。紗弓にすら御しきれない、島を取り巻く海流。手が宙をかき、冬の海に叩きつけられる。全身を針で突かれるような烈しい冷たさだった。


(おぼれる!)


 かさねは泳げない。手足をばたつかせると、昏い水面に無数の泡が散った。白く乱れる視界に、一艘の葦舟がよぎった気がして、かさねは無我夢中でそちらへ手を伸ばそうとする。きらめく黄金の葦舟には、しわがれた幼子とも老爺ともつかないものが手足をこごめて横たわっていた。海流に乗せられるまま、くるくると海上を漂ったソレはやがて緑深き島にたどりつく。浜辺に打ち寄せられたソレを拾い上げた漁師に、彼は告げた。

 わたしこそは、天帝の兄神である、と――。


 つん。つんつん。つん。


 波の打ち寄せる音が聞こえる。肩を幾度か突かれ、かさねはうっすら睫毛を震わせた。すぐ間近でのぞきこむ二つの目に気付き、「ふおっ」と勢いよく身を起こす。


「……生きてた」


 手にした小枝でかさねを突いていたのは、まだ六、七歳ほどの少女だった。黒髪のすっきりした顔立ちの少女で、白い小袖に緋色の袴をつけている。海に投げ出されたかさねたちは、島の浜に打ち上げられたらしい。同様に横たわる紗弓とイチの姿を少し離れた場所に見つけて、「イチ! 紗弓どの!」とかさねはふたりを呼んだ。浜にはかさねたちのほかにも、さまざまなものが打ち上げられている。船の残骸、酒瓶、木の枝、布切れ、それに水死体。


「ひっ」


 男の身体に絡んだ網に足をひっかけて転んでしまい、かさねは頭から砂をかぶった。身体を青黒く膨張させた男は、とても生きているもののようには思えない。


「ここは何でも打ち上がるから。この間もふたり、男が流れ着いた」


 子どものわりに妙に大人びた口ぶりで話す少女である。かさねの足に絡んだ網を慣れた手つきで取り去って、少女は砂浜に置いていた背負い籠を肩にかけた。砂浜に打ち上げられたもののうち、使えそうなものを拾って歩いているようだ。


「おい、無事か」


 目を覚ましたらしいイチが頭を振って、紗弓の裸身に自分の上着をかける。紗弓のほうは龍から人間に戻ったまま、気を失ってしまったらしい。


「かさねは平気じゃ。紗弓どのは?」


 蒼褪めた紗弓の頬に触れると冷たかったが、息はきちんとしていた。かさねはほっと胸を撫でおろす。かさねの額にくっついたままの砂を指で払いつつ、イチは自分たちをのぞきこむようにしている少女をいぶかしげに見つめた。


「あんたは?」

「ヒト」

「人?」

「ひと。いちばんめの、ヒト」


 無表情に少女は繰り返した。ハナとフエのところの「いち」といい、最近、数字の一がらみの名をつけるのが流行りか何かなのだろうか。ヒトか、とうなずき、「助けてくれてありがとう」とかさねはまず礼を言った。


「かさねに、こちらはイチ。それから眠っているのが紗弓じゃ。ここは……デイキ島、かのう?」

「そうだよ」


 こっくりうなずき、ヒトは底知れない灰色の眸を細める。童女らしい小さな手がかさねの濡れそぼった袖を引っ張った。


「浜に打ち上げられたものは、島巫女さまにお見せしないといけない。来て」


 有無を言わせぬ口調で、島の内側へと続く道を指差す。かさねたちが乗ってきた船は海流に巻き込まれたのか、浜のどこにも見当たらなかった。これでは、碧水に引き返すことはできないし、どちらにせよ、デイキ島に立ち寄るという漂流神を探してここまできたのだ。かさねも島の者に話を聞きたい。イチのほうも特に異論はなさそうだった。


「あいわかった。では、その島巫女さまとやらのところへ連れていっておくれ」


 見れば、島のうちにも色褪せた大鳥居がもうけられている。背負い籠を鳴らしてそれをくぐるヒトを追い、かさねも立ち上がる。デイキ島、と書かれた木片は道脇に朽ちかけたまま転がっていた。

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