三章 恋占 4

 かさねと燕楼を出る頃には月が中天に架かっていた。ついでに泊まっていったら、と勧めるハナたちに、イチは頑なに帰ると言い張った。芸座に身を置いていたとき、歓楽街で一夜を過ごすのは日常茶飯事だったが、かさねはふつうの「お姫さん」なのである。

 むやみに好奇心が旺盛な少女は、内廊を歩く間も、部屋の外に置かれた線香を不思議そうに見上げたり、襖の向こうから漏れ聞こえるはばかりない嬌声に、「うむ?」という顔をしたりしている。挙句、細く開いた襖のあいだから、そーっと中をのぞこうとしているので、イチはかさねの首根っこをつかんで、ぱしん!と襖を閉じた。


「育ちのよいお姫さんじゃなかったのか、あんた」

「でも、なんぞ苦しそうに唸っておるから……」

「……」

「あっ」


 急に何かに気付いた様子でかさねは頬を染め、もじもじと顔を手で覆った。襖の向こうで行われていることにうっすらと察しがついたのかもしれない。なんとなくばつの悪さを感じつつ、燕楼の主人に銀の粒を握らせてセワ染の暖簾をくぐる。店の表に出たところで、「イチ!」と娼妓のソノが駆け寄ってきた。夜明かしをせずに帰る客を見送っていたらしい。


「もう帰り? ハナねえさんと話はできた?」

「ああ」

「ね、せっかくだから、寄っていきなさいよ。あたしもカヤちゃんも、ちょうど空いたところだし。安くしとくって言ったでしょお?」


 白粉の香りをくゆらせて腕に手を回してきたソノは、背後でぷるぷる震えているかさねに気付いて、「あらやだ」と口に手を当てた。なんだ、そっかあ、うーん、と意味深にうなずいたあと、こぼれんばかりの乳を揺らして胸を張る。


「安心して! 子ども同伴でも、あたしはへいき!」

「かさねは子どもではなああああああい!」


 ソノとイチのあいだに無理やり割り込んで、かさねが喚いた。ソノから奪い取ったイチの腕に、同じように胸を押し付ける。


「ぴっちぴちの十七歳じゃ! この冬で十八になる!」

「えっ、じゅうなな……って、あたしと同い年? それにしては発育がちょっと……?」


 本気で困惑した様子で、ソノが自分とかさねを見比べる。確かに同い年と言われると、肉感的に出るところが出たソノに対して、かさねは背もちまっとしているし、全体的に薄っぺらい。しなやかに伸びた手足のおかげで、ここの住人よりはるかに健康そうではあったけれど。


「こいつはもろもろが十四くらいで止まってるんだ。気にするな」

「もろもろとはなんぞ……」


 地を這うような声が、腕を抱き締めるかさねから漏れた。ソノの胸元を羨ましげに見つめ、己のそれに目を落としたあと、みるみる涙目になる。


「お、おむねさまなんか、嫌いじゃあー!!」


 捨て台詞を吐いてかさねが身を翻す。呆けた顔をするソノの肩に軽く手を置いて、わるい、と詫び、イチもきびすを返した。店の角灯に照らされた道をひとをかき分けるように走る少女を追いかける。比較的治安がよいとはいえ、夜の街である。


「おい」


 燕楼街の大門を出たあたりで追いついて腕をつかむと、「離せというに!」とかさねは四肢をばたつかせた。ひとごみで騒がれるのも煩わしく、イチはあっさり手を離す。早足で歩き出したかさねの隣に歩調を合わせて並ぶと、かさねはむくれた顔つきで、イチとは反対側の水路へ目をやった。


「……なんだよ」

「べつに」

「面倒くさい奴だな」


 ぽろっと漏らした一言のせいで、隣の娘がさらに機嫌を悪化させたのがわかった。

 歓楽街が遠のくと微かな笛の音やひとの騒ぎ声も途切れ、ひっそりと月明かりの夜道が続くだけになる。互いの立てる足音と、時折こぼれる白い呼気の気配。俯きがちに赤くなった指先を絡め合わせる少女を見やって、さむそうだ、とイチは思った。


「か、かさねとて、男と女が夜に何をするかくらい知っているぞ」


 脈絡なくかさねが言い出したので、イチは伸ばしかけた手を止めた。

 だって亜子が絵草紙で「おべんきょう」させてくれたもの、とごにょごにょ呟いて、かさねは胸の前で腕を組む。


「かさねが何もわかっていないと思うなよ。先の口ぶりだと、おむねさまたちとー、イチも『たからぶね』をしたり『ふたつどもえ』をしたりしておったわけか。ふううん。そりゃあそなたとて男だものな。十四で発育が止まってるおむねより、もっちもちのおむねさまのほうがよかろうな?」

「何が言いたいんだよ」


 笑顔であるのに、黒々とした何かがうずまいているかさねの表情に微妙に引いて、イチは頬を歪める。第一、たからぶねとかふたつどもえってなんだよ。

 怒りにも似た激情が宿っていた赤眸にふと玻璃めいた光がかゆらぐ。かさねは急に泣き出しそうな顔になって眉をハの字に下げた。


「……どのように?」

「は?」

「どのように触れたのだ……?」


 藪から棒の問いに、イチは瞬きをする。かさねがどうして急に怒ったり泣き出しそうになったのかよくわからなかったし、突飛な質問ばかりを繰り返されるのでだいぶ辟易としていた。ただこれ以上泣かれるのは嫌で、息をついて、少女の頬を伝った涙に指をあてる。ぬるい水の粒をすくいとって、濡れた眦に指の背を這わせると、かさねはむずがるように目を閉じた。

 夜の静寂が張りつめる。

 しずかだった。とても。

 不意に胸のうちに未知の感情が兆し、イチは目を細めると、すん、と鼻を鳴らしている少女にそっと唇を触れさせた。本当に何も考えてなかった。前後の脈絡もなく、ただ刹那的に今したいと思ったことをしてしまった。ひややかな呼気が重ねた唇から伝わって、まずい、と思う。とまらない。それまできちんと存在していたはずの楔が突然なくなってしまったみたいだった。

 一度で満たされず、すくみ上がった身体を引き寄せて、さらに口付けを重ねる。それはきよらかで、とてもあまかった。もっと、と熱を帯びた情動が身体を支配するほど。小さな呼気が漏れる。それで意思を取り戻したらしい、上着を握り締めていた手が、ごん!!! とイチの頭を叩いた。


「って」

「なっ、なっ、なっ、なあああああっ」


 これ以上なく顔を赤くして飛びのき、かさねは唇に手を当てた。動揺した様子で瞬きを繰り返した両目から、大粒の涙が溢れ出す。


「さいっ……最っっっ低じゃ!!!」


 はじめてだったのに!!

 だん!と地団太を踏んで、かさねは頬を伝う涙を乱雑に拭う。


「どのようにとは訊いたが、同じことをせいとは言っとらん! 今みたいな……おむねさまと毎晩たのしかったろうな!? でも、かさねははじめてだもの! そなっ、そなたは乞われれば、誰とでも今のようなことをするのか!?」

「誰とでも…って、おまえが妙なこと訊くからだろ!」

「だ、だって、それはそなたが、おむねさまたちといちゃいちゃしておるから……っ!」

「誰が何だって?」


 かさねの物言いにもどかしい苛立ちを感じて、腕をつかもうとする。ひっと本気で怯えられ、イチは思わず手を引いた。赤く腫らした目からまたぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。恐怖と焦燥が少女の眸の奥で閃いた。それは一瞬の、見過ごすくらいの間のことだったけれど――。唇を噛み、かさねはイチから身を離す。


「も……もうよい! かえる!」

「かさね」


 正直、この場に留まりたかったが、結局イチはかさねを追いかけた。夜の街をひとりで歩かせるわけにはいかない。かさねが今日の宿に戻っていったのを見届けると、イチは脱力してその場にかがみこんでしまった。


「何が起きたんだ……」


 立て続けにわけがわからない事態が起きて、頭のほうがついていけない。

 とりあえず理解できたのは、先ほどの行動で、イチがかさねをひどく怒らせたらしいということだった。何故急に止められなくなったんだろう。イチだってそうするつもりなどなかったのだから、かさねは驚いただろう。そしてたぶん、……傷つけた。


(けど、はじめてって、あの言いがかり何だ)

(天帝や狐神とはさんざん俺の前でやってたくせに)


 なんとなく憮然となって、イチは宿の玄関口にある飲み水用の水甕の柄杓をとる。


(……嫌なのは俺だけかよ)


 柄杓に口をつけると、冷えた水が乾いた咽喉を伝っていった。

 御しきれない感情や衝動といったものが、近頃ふいに己のうちから頭をもたげる。それはイチの意志や思考の隙をついて現れるので、気付いたあとに自分で茫然とすることがしばしばだった。

 何かを欲しい、と思うことが。

 イチにはずっとなかったはずだった。

 陰の者と呼ばれる彼らには、「欲しいもの」があってはいけない。何かに執着すれば、容易に自分を差し出せなくなるし、そもそも、そんなものは彼らには「不必要なもの」であったから。イチの唯一の願いは、壱烏がしあわせであること。健やかであること。望むのはそれだけ。だけど、その壱烏はもういない……。


(なら、今の俺の望みはなんなのだろう)


 あの娘に触れたとき、俺。

 なに、が欲しかったんだろう。

 柄杓を甕の上に戻すと、窓辺の月が水面に映っていた。つい、と表面を指でなぞると、おぼろげな半月は瞬く間に霧散する。わからない。わからないことばかりで、つかれた。小さく息をついて、イチは破れた床板を軋ませながら、きざはしをのぼっていく。

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