三章 恋占 2
裏路から飛び出すと、イチの背中はすでに雑踏に紛れそうになっていた。灰青の上着を見失わないように追いかける。すぐに追いつけると思ったのに、大通りを縦横無尽に行き交うひとびとのせいで、なかなか距離は縮まらない。
夕暮れの街では、セワで染められた青暖簾がひとつふたつと下ろされ始めている。宿屋の前で、主人と今晩の宿賃の交渉をする旅人たちの姿を多く見かけた。それらには見向きもせず、イチは水路にかかる橋から対岸に渡る。
「おおおおお……」
水路を挟んだその通りは、威勢のいい市場とはまるで趣がちがっていた。
通りを照らす無数の灯りのまばゆさに、かさねは目をぱちぱちと瞬かせる。燕色に塗られた門をくぐると、同じ色の柱を持つ店が道の両脇にどこまでも連なっていた。外と反して、今まさしく暖簾がかけられ始めた店の前では、化粧をした女や男が立って、道行くひとに婀娜っぽい視線を送っている。着崩した衣からのぞくのは、豊満な肢体だ。
「おむねさま……おむねさまがおる……」
感動のあまり、右と左の巨乳に向かってかしこみかしこみ拝んでいると、きゃあああ!と華やいだ声が少し離れた一角から上がった。
「イチじゃない! あんた何年ぶりよお」
「碧水の近くに来たときには寄れって言ったのに、薄情なんだからー」
きゃあきゃあと蕩けた歓声を上げる巨乳美女たちに群がられているのは。
(……うぬ?)
イチである。
まごうことなき黒髪金眸のあの男である。
「ねえねえ、今日は泊まっていくんでしょう?」
(おとまり!?)
「あたしを買ってよ、イチならうんと安くしとくよ」
(お買い上げ!?)
「いやよ、みんなで順番にしようよぉー」
(しかも複数のおむねさまを!?)
「い、いいいい、い、」
動揺のあまり柱に取りすがったまま、口を開けたり閉じたりしていると、「うさぎちゃんじゃーん!」と明るい声が背後から降って、かさねをがばりと羽交い絞めにした。梔子の衣に、帯につけたおびただしい数のひょうたん型の楽器。そして人懐っこい笑顔。
「そなた……フエ!」
「ひさしぶりー。なになに、こんなとこで何してんの、うさぎちゃん。大人になりにきたの? それなら、俺とどうよー。妻子持ちですけどー」
「フエ」
かさねの手を取り上げて誘いをかけていたフエの首根っこをイチがつかむ。こちらの声に気付いて巨乳美女たちを振り払ってきたようだ。なんでここにいるんだ、という顔をしたイチに、そなたこそなんだあのおむねさまたちは、とかさねも憮然と睨めつける。両者の無言の応酬には気を介した風もなく、フエがのんびり首を傾げた。
「奇遇だねえ。きみらも碧水観光?」
「ちがう。おまえらを探してたんだ。ハナは?」
「いるよー。今日は燕楼のお座敷で、傀儡芝居をさせてもらっててねえ。俺は先に終わって暇してたとこ。探してたって? なんか用事?」
「それは……」
「あらあ、ほんとだ。イチじゃない」
話しているさなか、巨乳美女たちに腕を引かれて、紫の小袖を引っ掛けたハナが燕楼のひとつから出てきた。うさぎさんも、と艶やかに口端を上げるハナは、前に会ったときからちっとも変わっていない。
「ハ――、」
破顔しかけて、かさねはハナの背に立つ少女に気づき、瞬きをした。波打つような美しい黒髪、うすく色づいた膚、見る者を思わず惹きつけずにはいられない切れ長の碧眼……。忘れるはずもない。春に六海で出会った――。
「
おそるおそる声をかけたかさねに、「おひさしぶりね」と紗弓は冷たく目を眇めて髪を払った。
*
天帝の花嫁を探して向かった六海での顛末は、いまだにかさねの胸に鈍い痛みを残している。六海に住まう龍神をかさねは救うことができなかった。目の前でうしなってしまった。龍神の娘たる紗弓は龍に変化していずこかへ消えたと、あのあとイチに聞いたが、まさかハナが率いるくるい芸座に身を置いていたとは。
「漂流旅神ねえ」
イチの話を聞いたハナが畳んだ扇を顎にあてる。つらつらといつの間にか別のことを考えていたかさねはそれで我に返った。巨乳美女たちが用意してくれた燕楼街の一室。褥がふたつ用意されていただけの狭い部屋に、くるい芸座の面々とイチとかさねは膝を詰めて座っている。
「森の古老の仰るとおり、あたしたち根無し草の守り神ではあるわよ。はい、これ」
帯に結ばれていた根付をハナがイチのほうへ寄越す。赤いお守り袋は古いものであるらしく、何度も繕い直したあとがある。「あたしの養母からもらったの」と言い添えたハナは、お守り袋を開くようイチを促した。ちょうちょ結びのされた袋を開くと、木の札と折り畳まれた紙とが出てくる。
「札のほうは見ないでねー。あたしの真名が記されているから」
「こっちが神姿か」
「そうよ」
イチが開く紙をかさねも横からのぞきこむ。こぶし大ほどの紙には、一柱の神の姿が描かれていた。ひと目見て、ひっとかさねは咽喉奥を鳴らす。神というには、あまりの異形だった。その神には手足がなかったのだ。
「漂流旅神は、不具の神ゆえ地上の島に流されたという伝説があるわ。天帝は、この国に住まう数多の地神に土地をあげたけど、兄神だけには土地を譲らなかった。だから、一所にとどまらず、外つ国を漂流していると聞く。あたしたちも、それぞれ理由があって定住地を持たない。漂流旅神はそういうあたしたちの道中を守ってくれると、古くから信じられているの」
「かさねは天帝に兄神がいたことすら知らなかった」
「そうでしょうね。これは表に伝わる神話のうらっかわ。お姫さまは知らなくて当たり前よ」
普段の陽気さとは異なる、静かな微笑をハナは浮かべた。芸座の者は、たいてい陽気で快活だ。漂流の生活を楽しんでいるように見える。けれど、定まった土地を持たないというのは、かさねが考える以上に複雑な影を彼らに落とすのかもしれない。
「デイキ、の名に心当たりはあるか」
しばらく神姿を見ていたイチはやがて別のことを訊いた。
「デイキ? ああ、デイキ島のこと?」
「島?」
眉をひそめたイチに、「漂流旅神が流されたといわれる原初の島よ」とハナが説明する。
「そっかあ、あんたがいたときには季節がかぶってなかったからねえ。あたしたち漂流の民は、毎年デイキ島のある海に向けて奉納の願い文を流す。もちろん遠方にいるときは、別の芸座に文だけ託すんだけど……。ええーと、ここからも見えるんじゃないかしら」
「見える? そのデイキ島とやら、まことに存在するのか?」
「もちろんよ。島自体があたしたちの信仰の対象なの」
丸窓を開いたハナは、いさり火の揺らぐ夜の海に目を向けた。
「ほら、あれ。小さな島影があるでしょ」
「どれだ」
ハナが指す方角をイチとかさねは互いに押しやりながら凝視する。確かに波間に漂う小さな影が見えた、ような気がした。
「島民はおるのか?」
「さあねえ。伝説では漂流旅神と通じる島巫女と、彼女に仕える島民がいるって話だったけれど……、遠くから見るだけで実際に渡ったことはないのよ。このあたりは海流が複雑でね。浜の近くでは漁もしているんだけども、遠くに出た船はかえってこない。だから、遠方への船は絶対に出さないの」
「そんな……」
デイキ神への手がかりが目の前にあるというのに、足を運ぶことができないとは。いてもたってもいられず、かさねは丸窓の桟から身を乗り出した。白い息を吐きながら、夜の海を見渡す。
「泳いで渡るのは無理かのう?」
「お姫さま。あんた、あそこまで何日かかると思ってんのよ。第一、晩秋の海よ?」
「――できないことでもないわ」
くるい芸座の者から失笑が漏れたが、玻璃にも似た声がぴしゃりと遮った。それまで一同からは離れた場所で黙していた紗弓である。
「私の力をもってすれば、できない話じゃない」
「紗弓どの」
龍の血を半分引いた紗弓は、水の流れを操ることができる。六海の荒海でも、紗弓は波を完全に御していた。今の言葉は嘘ではないだろう。しかし、紗弓がかさねたちに力を貸す理由が見当たらない。
――あんたたち人間を、私は決してゆるさない。
あのとき紗弓がイチに言い放ったという言葉を、かさねは今も覚えている。その『人間』に彼女自身の養父や大地将軍、そしてかさねやイチが含まれていることも。戸惑った顔つきになるかさねに対して、イチのほうの態度はもっと冷淡だった。
「そもそも、何故あんたがここにいるんだ。芸座に何の目的で近付いた?」
「それは……」
「紗弓を拾ったのはあたしよー。あんたとおんなじでね、道端に生き倒れていたのを拾ったの。行くところがないっていうから、一緒に旅しているのよ」
言い澱んだ紗弓の肩に手を置いて、ハナが豊満な胸を張った。
「あんたは本当に見境なくなんでも拾うな」
「死にそうなのはほっとけないタチなのよ」
ハナに肩を引き寄せられた紗弓は、子どものように頬を染め、きゅっと唇を噛んで俯く。どうやらハナに心を開いているのは本当らしい。膝元に視線を落とし、「父の供養で国をめぐっているの」と小さな声でぼそぼそと言った。
「あんたたちは好きじゃない。けど、ハナさんの頼みなら、協力しないこともない」
「えらい好かれようだな、ハナ」
「まあねえ。これが人徳ってやつうー?」
ふふん、と微笑み、ハナは揺れる胸を突き出した。
「デイキ島には、毎年この時期、漂流旅神のおとないがあるというわ。嘘かまことかわからないけど、かの神を探しているなら、もってこいじゃない?」
窓の向こうの碧水の海は、冬の凍てた気配が漂い始めている。
漠々とした昏い海を見据え、うむ、とかさねはうなずいた。
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