三章 恋占
三章 恋占 1
久方ぶりの旅装に身を包み、かさねは朱の組紐で髪を結いあげる。故郷の乳母・亜子が編んでくれた守り紐である。草木で染めた糸は魔を払う力を持つという。道中、かさねは肌身離さずこの組紐を身に着けていた。
樹木星医のもとに立ち寄った芸座の者から話を聞くと、ハナたちは地都に近い
「ったく本当に幻の神を探して旅に出るっていうんだからねえ」
呆れ半分に送り出した樹木星医は、旅のあいだの携帯食や数種の薬草を一緒に持たせてくれる。イチもいつもの旅装に研ぎ直した刀を佩いており、はた目には動きや足取りに危ういところはなかった。
――この場所に来てから、ひと月。
本当はもう少しイチを休ませたかったのだが、本格的な冬に入れば、移動自体が難しくなってしまう。橙や黄に染まった葉が落ちきる前に、かさねとイチは樹木星医のもとを旅立つことに決めた。
「あたしら古老が使う、あわいに近い木の道がある。鳥の一族にも知られてないだろうから、碧水まではそれをお使い」
樹木星医は木を削りだして作った杖をかさねに渡した。ぼさぼさ頭のうえで休んでいた蝶がひらりと舞って、杖の先端に留まる。碧水までの道案内はこの蝶がしてくれるという。
「その杖はあんたにやろう。迷ったときの心のしるべになさい」
「ほんに、いろいろとありがとう」
杖を抱き締めて頭を下げたかさねに、「まったくやかましい毎日だったよ」と樹木星医は短い首をすくめる。
「だが久方ぶりの客人、楽しかった。碧水まで気を付けておゆきなさい。縫って塞ぐのは一度で勘弁だからね」
「うむ。また会いにゆくぞ、次は茶菓子を持って」
「では、とびきりの茶を用意しておくとしよう」
どんぐり目を細めて、樹木星医はうなずいた。銀の糸が張り巡らされた「守り」の外へ出る。それまで見ていた景色が揺らめき、常緑の森があらわれた。振り返ると、薄闇の先に樹木星医の小柄な姿はない。根が二股に分かれたあのセワの樹も庵も、霧の向こうに隠されてしまっていた。
「不思議な御仁であったのう」
「あれで結構な気難しがりなんだ。『次』の約束ができたなら、それなりにあんたのことが気に入ったんだろ」
イチ自身は樹木星医にさしたる未練はないようだ。霧の向こうへ一瞥を向けただけで、朝の光がまだらに落ちた木の根道を歩き始める。かさねの持つ杖から蝶が離れ、先導するように道案内を始めた。あわいの道、と樹木星医が言っていただけあって、あたりはしんと静まりかえり、ひとの気配がまるでない。時折、鬱蒼と茂る木の上で鳥のはばたきの音がし、鹿や狐といった山の生きものがこずえの間を駆け抜ける。獣たちが使う道なのだろう。
「大地将軍は、どうしておるのかの」
碧水が地都に近い場所にあるため、自然とかの男の憎い面がまえを思い出してしまう。樹木老神からの帰り道、ひとづてに聞いた話では、しばらく表に姿を現していないとのことだったが、ただ引きこもっているようには思えない。
「女神の加護を受けた太刀を持って、いったいどこへ向かったのやら」
「天帝の目覚めは近い、とあいつは言っていたな」
「本気で天帝を斬る気なのだろうか」
「いっそ斬らせるのも、あんたにとっては好都合なんじゃないか」
「物騒なことを言うでない」
憮然となったかさねを呆れたように見て、「……お人好しは変わらずか」とイチは呟いた。肩にかけた荷をやりづらそうに持ち替える。その顔はいつもより蒼白く、やはり無理をさせているのではないかとかさねは心配になってしまう。少し前まで半身を起こすことすらつらそうだったのだ。
もともと、旅食や小銭、替えの草鞋や下着といった最低限の持ち物は小さな行李に入れてそれぞれで持っているのだが、野宿用の筵や什器などの共用のものはまとめてイチが担いでいる。これまでは当たり前のようにそれに甘んじてしまっていたのだが。
「のう、イチ! 荷は代わりばんこに持たんか」
目を輝かせて、両手を差し出してみる。しかしイチから返ってきたのは「はあ?」という冷たい一瞥だった。
「あんたに持たせたら、即効足に落とすだろ。これ以上俺の荷を増やすな」
「かさねとて、荷のひとつやふたつくらい……」
容赦のない悪口にむぅと唇を尖らせると、イチはかさねの額を手で押しやった。
「あんたと俺じゃ、力がちがうんだから同じことをしなくたっていいだろ」
「それはそうだが……」
かさねは歯切れ悪く黙り込む。そのまましゅんとうなだれていると、軽い嘆息が落ち、薬や月苔石などが入った小さいほうの荷を渡された。
「よいのか!」
「荷を持つのが何でそんなにうれしいんだ……?」
「うむ。うれしい。ありがとう、イチ!」
怪我をしていないほうの腕に飛びつくと、「……へんなやつ」とイチがぽそりと呟いた。
碧水までの道中は平穏に進んだ。
樹木星医が遣わしてくれた「道案内」がよかったのだろう。夜、肩を寄せあって眠るときだけイチは注意深く獣が嫌う香を焚き、草の根に鈴を結ぶいつもの罠を仕掛けていたが、幸いにもその鈴が鳴ることはなかった。久方ぶりに長く歩いたせいでむくんだ足を泉の水で冷やし、かさねは草鞋を結び直す。
碧水、と彫られた標石が峠の先に見えてきた。
先導していた蝶がひらりと翅を翻して、かさねの鼻先に止まる。
「ここでお別れ――ってことらしい」
「そうか、何日も飛んで疲れただろう。樹木星医にもよろしく伝えてくれ」
御礼を言うと、蝶は戯れのようにかさねの口端に接吻を贈って、いとけない肢体を翻した。青い鱗粉を振りまき、薄闇の向こうへ消え去る蝶をかさねは見送る。ちょうど標石を基点に木道とあわいの道は接していた。一歩前に踏み出すと、銀の帳がふわりとひらいて、目の前の景色が「守り」を抜けたときのようにまた少し変わる。標石のまえであくびをしていた猫がおののいた様子で飛びのいた。猫からすれば、かさねたちが急に現れたように見えたのだろう。
「まずはハナたちの居所だな」
「鳥の一族は、平気かの……」
「あいつらはひとで賑わう街や市には、ふつう近づかない。小鳥がひとごみを歩いただけで卒倒しそうになっていたの、覚えてるだろ。あいつらからすると、ひとが多い場所はゴミ溜めみたいなものらしい」
「難儀なものよの。不浄を厭うというのは」
「地に落ちてしまえば、俺らみたいな『不浄の塊』のほうがずっと生きやすい。皮肉だな」
淡泊な口調でイチは呟いた。
湊を中心に発展した碧水の街は、水路に沿って家々が立ち並んでいる。セワで染め抜かれた青暖簾がいっせいに翻るさまは、地都を思い起こさせた。イチの話では、地都へ向かう旅人たちが経由地として多く立ち寄る街なのだという。
街の門をくぐると、イチは澱みない足取りで賑わう大通りとは異なる裏路に入る。どうやら、イチにとっては初めての街でないようだ。蟻の巣のように入り組んだ裏路をどんどん奥へ進んで、暖簾も出ていないおんぼろの長屋の前で足を止める。
「ここは?」
「今日の宿だ」
今にも崩れそうなのだが……、とかさねは頬を引き攣らせたが、イチのほうは気にした風もなく傾きかけた戸を叩いた。二三度鳴らしていると、「いますぐ、いますぐ」と痩せた老人がしわぶきながら顔を出す。
「あいよ。今日はもう閉じてるよ」
「相変わらずやる気のない宿屋だな」
「その面、イチじゃねえか。ハナさんとこの」
「数年前にくるい芸座は出たんだ。ハナたちを探してる。来てるか」
「ああ、ひと月くらい前から予祝の準備でね。今は燕楼街に滞在しているはずだよ。ハナさん、あそこの子らに慕われているから」
「えんろーがい?」
耳慣れない言葉に、かさねは眉根を寄せた。イチの背からひょこりと顔を出したかさねに瞬きをして、老人は首をかく。
「碧水きってのイロマチさ。歌と技とで旅人の疲れを癒す」
「なんと……それはよいものじゃ。イチも行ってきたほうがよいぞ!」
労いの気持ちをこめてうなずくと、イチは急にへんな噎せ方をした。「うぬ?」と首を傾げるかさねをよそに、イチは咳払いをしながら銀一粒と引き換えに今日の宿の手配を済ませる。
「おぼこいの連れてるじゃねえか。ついに人さらいに手を出したか?」
「こんな世話が面倒なもの、引き取る物好きがいるかよ」
「へえ、じゃ普通につるんでるのか。あんたがねえ……。まあ、こっちは金がもらえりゃなんだっていいけど」
銀粒を光へ透かして、まいどあり、と老人がうなずいた。見た目にそぐわない軽快な足取りで、二階のほうへかさねとイチを通してくれる。壁は薄いが、いちおう個室になっているようだ。ひととおりの荷をほどくと、「じゃあ」とイチはかさねを置いて立ち上がった。
「俺はハナたちを探してくるから、おまえはここで待ってろ」
「は? かさねもそのエンローガイとやらに行くぞ」
「あんたはやめとけ」
「何ゆえじゃ」
「何ゆえでもだ」
有無を言わせない口調で断じて、イチは刀の代わりに懐刀を腰に挿した。
「ここの主人はあれで口が固い。よそもんは中へ入れないから、安心しろ」
「ま、待て。かさねだってイロマチでいろいろ癒されたいぞ!」
「あそこであんたがやることはないし、俺にだってないから、この話は終わりだ」
かさねの反論を聞かずに、ぴしゃりと襖が閉められる。
「な、なんなのだ、あやつ……」
解せないイチの態度に眉をひそめ、かさねは閉じた襖を見つめる。ハナたちが滞在している場所なら危険があるようには思えないし、何故かさねを連れていってくれないのかさっぱりわからない。むー……とひとしきり顎に手をあてて唸ってから、かさねはすっくと立ち上がった。
「イチをひとりにさせておけるか」
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