二章 森の古老 4
つんとした薬草の香りが鼻腔をかすめ、イチは淡いまどろみから目を覚ました。二三度瞬きするうちに、白濁としていた世界が精彩を取り戻す。血をうしなったせいか身体がだるいし、頭がふわふわする。寝台のうえで身じろぎをしようとして、イチは右腕をがっしりつかむ何かに気付いた。
「おや、起きたかい」
すり鉢で薬草を擦っていた樹木星医が声をかける。
「……なんだこれ」
イチの腕をしっかり抱き締めて眠っている娘を目で示すと、男は愉快そうに目を細めた。
「さっきまでひとりで外にいたんだけどねえ。奇声と怒声を立て続けに発しているから、気でもふれたかと心配したが、存外すっきりした顔で戻ってきたよ。半刻くらい前かな」
「そうか」
夜着をかけた肩は穏やかに上下している。ふすん、と鼻を鳴らしてかさねが寝返りを打った隙に腕を引き抜き、寝台の柱を使ってなんとか半身を起こす。何気なく武器の位置を確かめるのはもはや習性といってよいだろう。相手に敵意があろうとなかろうと、周囲にひとがいると身を起こさずにいられないのも。
樹木星医は苦笑を漏らしただけで、イチのほうへ上着を放って寄越した。
「よく道を覚えていたね。四年前に一度来たきりだろ」
「正直、たどりつけるかは五分だった。あんたがこちらに気付いて、入口を開けてくれなかったら危なかったな」
「あれだけ血の臭いを振りまかれたら、気付くに決まってら。君はいつもぼろぼろになってあたしの前に現れるねえ」
呆れた風に樹木星医が息をつく。それであらためて自分の身体に目を向けると、至るところに包帯が巻かれ、擦過傷や痣も無数にあった。身体じゅうの鈍い痛みはここからやってきていたらしい。喋ったはずみに乾いた咳をいくつかして、「水あるか」とイチは訊いた。
「まだ動かないほうがいい」
寝台から下りようとしたイチを止めて、樹木星医が甕から汲んだ水を渡してくれる。ぬるい水は咽喉にゆっくり染み渡った。少し生き返った心地がして、イチは息をつく。
「手当、たすかった。……ありがと」
「礼には及ばんよ。縫うのはあたしの趣味みたいなもんだから」
二杯目の水をもらいながら、イチはそれとなく手足の動きを確かめる。見たところ、骨や腱に異常はなさそうだった。いちばんの重傷は、矢で射られた肩だろうか。毒が塗られているとまずいと思ってとっさに抜いたのだが、あれで血が失われてそのあとの動きが鈍くなってしまったのがよくなかった。
「どのくらいで動けるようになる?」
「どのくらいも何も、治るにはひと月はかかる大怪我だよ」
「動けるようになるには?」
「……君なら、十日あればどうにかするんじゃないかね」
投げやりに言い、樹木星医はまた薬草を擦り始めた。縫うのはもうごめんだからねえ、とのんびり釘を刺すのは忘れない。イチは首をすくめて、残りの水を飲み干した。
「そのお嬢さんが今噂の天帝の花嫁かい」
天候の話をするような気安さで樹木星医が問うた。
イチがこたえるまでもなく、この男なら、かさねの容姿と花を散らしたような痣ですぐにわかったはずだ。樹木星医というのは、樹木老神のことほぎを受けた森の隠者。ひとより長命である彼らは、普通の人間に比べて、この世のことわりに通じている。イチがかつて莵道の継承者を探して頼ったのもこの男だった。そして樹木老神から天帝の花嫁のさだめを明かされたとき、あるいは、とイチの脳裏によぎったのも。
「その娘は、神と誓約を交わしている」
樹木星医の問いにはこたえず、イチは言った。
「魂を縛るほどの強力な縁だ。その誓約を解く方法はないか?」
「お嬢さんを花嫁のさだめから解放したいのだね」
「誓約を結ぶ方法があるなら、解く方法もあるはずだ」
「君はたいそうなことを言っているよ、イチ。お嬢さんが約束を取り交わした相手は、この国の最高神だ。最高神と結んだものは、最高神でなくては解けない。そこいらの狐神であれば、格上の神のとりなしでどうにでもなるかもしれんがね」
かさねの出自を知ってか、樹木星医は揶揄するように喉を鳴らした。しかしイチは目をそらさない。ひとしきり笑ってから、樹木星医は真顔に戻って嘆息した。
「君はいつもあたしに無理難題を突きつけるねえ……」
「あるのか、ないのか。知りたいのはそこだ」
「あるなしで言うのなら、無い。天帝を超える神が、この国にはいないのだから」
ただし、と樹木星医は付け加えた。
「『
「漂流……?」
「天帝の兄神として生まれたが、その身の不具ゆえにどこぞの島に流された神さ。ゆえにこの国のどの書物にも名は載っていない。かの神が流れ着いた場所もね。だが、兄神を祀る島の民は、数百年前までは確かにこの国にもいたそうだ。あたしも会ったことはないが」
「天帝に兄弟がいたなんて、俺も聞いたことがねえぞ」
「そりゃあ、天都の者が伝えるわけがないよ。なにせ、放逐された異端の神だからね……。だが、兄弟であるなら、同格の力を持つ可能性は高いだろ? それに兄神が流れ着いた島の巫女は、摩訶不思議な術を使う、とも伝えられている。何でも、世のことわりを覆す禁忌の術だそうだ」
「話がきなくさくなってきたな」
壱烏を失ったあと、イチは天都への道を求めて国をめぐったが、兄神の話を耳にしたのは初めてだった。天帝を最高神とするこの国のことわりからすれば、放逐された兄神もそれを祀る島の民も、異端と呼べる存在だ。一筋縄でいくとは思えない。
「その神の名は?」
「――デイキ」
耳慣れない言葉を樹木星医は口にした。
「デイキ? どんな字だ?」
「そこまではあたしも知らない。デイキの音も、偶然知ったものだからね」
「でいき……デイ・キ。
顎に手をやって考え込んでいると、「――探してみよう、イチ」という声がかたわらから上がった。見れば、夜着にくるまって眠っていたはずの娘が身を起こしている。
「……あんた、いつから起きてたんだ?」
「少し前じゃよ。そのデイキだか、デンキだか知らんが、ともしたら力を貸してくれるやもしれんだろ? 可能性があるなら、探してみたい。このまま、天都の者どもの迎えを待っていても、ただ地の底に落とされるだけのようであるしな」
旅中、思い悩んでいたようだが、少し吹っ切れたらしい。熱心に言い募るかさねを見やり、確かにこのまま逃げ続けていても行き詰まる、と認める。今回はどうにか追手をまくことができたが、次はさらなる数が投入されるだろう。とてもイチひとりでは守りきれない。
「行こう、イチ。かさねもがんばるゆえ」
「何をがんばるんだ、あんた」
こぶしを握って意気込むかさねに、イチはぬるい一瞥を返す。かさねは不本意そうに唇を尖らせたが、夜着をかけたままやってきて、「でいっ」とイチの額に額をぶつけた。
「――って!」
「そもそも、そなたさっきから何をべらべら喋っておるのだ。はよう休め、怪我人。それとも何か? かさねが隣で手を握っていてやらんと眠れぬとでも? いやあ、愛されすぎるというのも困りものよのう」
にやにやとしたり顔でうなずく少女に、なんとなく面白くない気分になる。
「ひとの腕に涎垂らして寝てた奴がえらそうに。あんたに腕をつかまれていたせいで、寝返りも打てなかった俺の身にもなってみろ」
「はああ? そなたがうなされているようだから握ってやったのに、まるでかさねを虫か何かのように!」
「だって、あんたの手のつなぎ方、狂気を感じるぞ」
「ああそうか、ようわかった、もうつながぬ! つながーぬ! そなたが夜泣きをしてたって、絶対手を握ってなどやらんからな!」
ふん、と頬を膨らませたかさねがそっぽを向く。交わされる応酬を眺めていた樹木星医がふいに吹き出した。くっくっくっく、と引き攣るような独特の笑い方を繰り返し、「息がとぎれる……」と呟く。
「まったく仲がよさそうで何よりだよ……。ところで、イチ。お嬢さん。漂流旅神の行方にあてはあるのかい」
「ない」
「まったくじゃ」
くっくっく、とまた咽喉を鳴らして、樹木星医はおもむろに立ち上がった。鳥の巣状の頭で羽を休めていた蝶たちが、驚いた様子で一斉に飛び立つ。
「漂流旅神というのは、その名のとおり、流れ者たちの秘されし加護神でもあってね。あたしも、デイキの名は彼らから教えてもらった。イチ。君なら、思い当たる者たちがいるだろう?」
その言葉に思いつく面影があって、イチはひとつ瞬きをした。
「芸座……ハナたちか」
「そう。彼らはこの国のどの地にも属さない、さすらいの民だ。だからこそ、我々が知らない、世のうらっかわの秘密を知っていたりもする。まずは彼女たちを探してみるのがよいかもしれないね」
身を乗り出して話を聞いていたかさねと目を合わせる。
次の目的地は、こうして決まった。
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