二章 森の古老 3
綿の入った夜着をかけて外に出ると、日はすでに暮れていた。明かりを持たずに、ひとりかさねはセワの巨大な根に腰掛ける。網の目のように張った枝のあいまから、銀の星のきらめきが見えた。夜天を仰ぎ、じわじわと緩んだ涙腺に抗ってきつく眉間に力をこめる。
「もおおおおおおお、あああああああああーーーーーー!!!!!」
感情のほとばしるままに、かさねは叫んだ。癇癪を起こしたように地団太を踏み、己の膝にこぶしを打ち付ける。何事かと驚いた鳥たちがセワの枝から飛び立った。息を切らせ、かさねはぶわっと溢れた大粒の涙を拭いもせずに地面に落とす。
「ひより、いるか?」
自分の中に向けて問うが、あのやさしげな微笑はかえらない。
「いないのか? いないな? 誰もいないな? かさねは今からひどいことを言うぞ」
災厄を身代わるだとか。
それが想い方だとか。
命の限りだとか。
「しょうじき、重いんじゃあああああああーーーーーー!!!!!」
空に向かって叫び、かさねはすっくと立ち上がった。
「だって、冷静になって考えてみてほしい! 襲いかかる追手をすべて斬り倒し、こちらには傷ひとつどころか、返り血すら浴びせないほど、完璧に守られてもみよ! ふつうに、申し訳なくなるわ! 罪悪感で胸がいっぱいになって、息をしているのすら苦しゅうなって……、つらくて、泣きたくもなってくるわ! かさねにこんな思いをさせて、イチはほんに、ひどい! ひとりで決めてひとりで守ってひとりで傷ついている、ひとりよがりの大馬鹿ものじゃ!!」
息もつかずにまくし立てていたせいで、声が枯れる。
乾いた咳をいくつかして、かさねは弱々しく笑んだ。
「ほんにな。ほんに、ひどいことを言うたであろ……?」
ふふん、とぎこちなく口端を上げて、草むらに両手をつく。青い暗がりのなか、幾千の星の光がさやけく大地に射している。静かだ。ひとり息を喘がせているかさねがいる以外、とても静かだった。
「力がほしい……」
血を吐くようなささめきはぽつりと落ちた。
「何故、かさねのような力のない娘に、かようなさだめが与えられたのじゃ。何故。かさねなのだ。なぜ……」
丸い水滴がいくつも草の上に落ちる。くすん、くすん、と童女のような泣き声を人知れず漏らして、かさねは地面に額をくっつけた。腐った葉と土が入り混じった大地のにおいに恋しさを駆られて、土がくっつくのも構わず額をこすりつける。
かなしかった。くるしかった。
何故、選ばれたのだろう。
何故、自分ばかりがこんな思いをしなければならないのだろう。
答えなどどこにもないから、ただ、つらい。
(目をあけたら、この痣が消えてしまっていればよいのに)
どれほどそうしていただろう。濡れた頬に張り付いた髪がちりちりと痛んできて、かさねはわずらわしさから薄く目を開いた。地面に大の字に寝転んで息を吐き出す。すぐ耳元にある、露を宿した草の葉に触れ、そっと白い葉裏をなぞった。風が草とかさねの上を吹き抜ける。
「ふふ……」
眉尻を下げて、かさねはなんとなくわらった。
ひとしきり叫んで、暴れて、少しだけすっきりしたのかもしれない。
何故。どうして、自分なのかと。
樹木老神からの帰り道――、否、孔雀姫によって天帝の花嫁のさだめを告げられたその日から何度も自問した。天を呪い、なじり、そのうち疲れて考えるのをやめてしまったりもした。けれど、そう。老鳥の言ったとおりだ。
(ないのだ)
(逃げ道など)
かさねの手には今も薄紅のうろこ痣がある。
だから、逃げられない。天都から逃げても、追手から逃げても、この地上のどこへ逃げたとしても、かさねがかさねである以上、自分から逃げることだけは決して。
「ならば、逃げるのはもう、やめじゃ」
夜天に架かる銀の月が、眼前に掲げた手をしろじろと照らす。やわらかな風が指のあいまを撫ぜた。曖昧模糊としたそれをつかみとるように、かさねはこぶしを丸める。
「かさねは、イチと恋がしたい」
天に向かって宣言し、握ったこぶしを突き上げる。
「いちゃいちゃしたい! ちゅうしたい! そしてあわよくば、イチのだけの……っ、花嫁になりたい……!」
言っているうちに、清純な乙女にしてはよこしまな願いも入ってしまった。ほわほわと赤く染まった顔を両手で覆ってしばらくじたばたしてから、かさねは勢いをつけて半身を起こした。眦に残った涙を手の甲で拭い去る。
「だからまだ、――止まることはできん」
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