一章 逃げ道
一章 逃げ道 1
みたび莵道をひらいたとき、
あなたは異界のものとなり、この大地に落ちるさだめにある。
黄泉を総べる女神――次の大地女神として。
*
太陽が山の端に沈む。
落日の空にこだまする笛の音をかさねは聞いた。セワの森からいっせいに鳥が飛び立つ。あかがね色をした空に黒い鳥影が乱舞した。
「烏が騒いでるな。ひと雨来そうだ」
金と灰の眸を眇めて、前を歩くイチが呟く。
樹木老神のおわする緑嶺から天都まで帰る道の途中、季節はすっかり夏から秋の様相に変わった。あたりを取り巻く外気が下がり、日が落ちるのも目に見えて早くなる。足元には色付いた葉が折り重なるようになった。
「ふもとまで下るのは……間に合いそうにないのう」
「しかたない。今日はここで休むか」
セワの大樹の根元に風雨がしのげる場所を見つけると、筵と紙に油を塗った合羽を広げておく。かさねは乾いた枝を集めてきて、火を熾した。イチのほうはその間に近くに食料を探しにいく。
「さすがに冷えるの」
火種に小枝を足して、炎を大きくしていく。擦り切れた草鞋と足袋を脱ぎ、赤くなった足を揉んだ。冬になるともう、今のような旅は難しいかもしれない。初雪が降る前に天都にたどりつけそうなことが幸いだったが……。
(天都へ戻ったとして、かさねはどうする)
(大地に落ちるさだめをただ待つのか?)
炎に照らされた己の手をかさねは眺めた。鱗めいた薄紅の痣は、肩から腕だけでなく、いまや左の上半身を覆いつつある。目をそむけたところで厳然と存在する、天帝の花嫁のあかしだ。左手を額につけて、かさねはうなだれた。
「かさね」
「おおおおおおう!?」
いきなり名を呼ばれて、両肩を跳ね上げる。思案にふけっているうちに、イチが帰ってきていたらしい。男の腕の中のつやつやした赤い実やらきのこやらを見て、かさねの腹がぐぅ、と情けない音を立てた。まくっていた袖を戻して、催促するように両膝を叩く。
「イチ。かさねは、腹がへったぞ!」
「あんたはこっちの実の皮を剥け。そのまま齧ると苦いから」
赤い実をかさねに渡すと、イチはきのう
「ありが――って、いやいや、そなたが寒くなるであろ?」
「別に」
「別に? いや、ううーん……」
考え込み、かさねは自分には丈の長い上着を引き寄せて、イチの隣に移った。ぴとりと身体をくっつけて、半分をイチの肩にかけるようにする。
「これなら、どちらも寒くあるまい!」
名案じゃ!と思って、かさねはむんと胸を張る。口を開きかけてから、イチは結局無言でかさねの座る左から右へ視線をそらした。なんだその微妙な態度は、と唇を尖らせ、それで急に我に返る。
(ち、ちかい)
一枚の上着に無理やりふたりを入れているので、相手の呼気や心音が届くくらい、身体が密着している。触れ合った肩が熱い。なんとなくかしこまって、かさねはイチとは反対側の下方へ視線を落とした。
(なんというか、その)
天帝の花嫁たるさだめを告げられたこんなときに、自分の頭がお花畑なのはかさねとて重々承知している。承知しているが。
(そのう、イチは……)
事は重大であり、急を要する。
いっそ花嫁うんぬんより、恋する乙女にとっては重大なことでもある。
(イチはもしや――)
(かさねに惚れたのではあるまいな!?)
閃いたとたん、かさねの頭ににわかに祝いの管弦が鳴り響き、空から降りた天女が輪になって舞う。苦節三年。長かった。ほんに長かった。
ついにイチが……! かさねに……! 惚れた気がする……!
ばちん!と緩みそうになった両頬を叩いて、かさねはむつかしい顔を作る。
(いやいや、気のせいとはいわせぬぞ)
大地女神によって千年前に飛ばされたあたりから、少しおかしいとは思っていたのだ。前はかさねが狐と口付けを交わそうが、龍の嫁になろうが、さっぱり興味がなさそうだったのに、天帝のときはなんとなく嫉妬するようなそぶりを見せていたし。理由もなくかさねを抱きしめてくることがあったし。額にちゅってしてきたし。
そうした事象の数々を振り返ると、答えはひとつであるように思えた。
恋である。
かさねの隠し切れない魅力に、ついにこの朴念仁も落ちたのである。
(さあ、いつでもかさねに想いのたけを伝えるがよい。心の準備はできておる)
わくわくと期待のこもった目で見上げていると、イチは胡乱げな顔で「まだ煮えてねえぞ」と鍋のほうを示した。
「いや、雑炊ではないわ。そなた、かさねに何か言うことがあろう?」
「言うこと?」
「だーかーらー、あれじゃよあれ。乙女のほうから言わせるでない」
「……ああ、もしかして気付いてたのか、あんた」
「そりゃあ、かさねはこれで案外、ひとの機微には聡いたちだもの」
もじもじと膝の上で手を組み合わせつつ、かさねはうなずく。吹きこぼれそうになった鍋をかき回しながら、ふうん、とイチは首を傾げた。
「あんたに気付かれてるとは思わなかった」
「いや、そなた、わりに丸わかりだぞ!?」
「まあさすがに、これだけ回り道してればばれるか……」
「回り道というか、まわりくどいというか」
「もういい加減、あいつらにも気付かれてる」
……あいつら?
はて、という顔をしたかさねに、イチは一転して鋭くなった視線を向ける。次の瞬間。かさねは頭をわしづかまれて、地面に押し倒されていた。
「って、え、ええっ」
「静かにしろ」
鍋にかけられていた火が消えて、あたりが暗転する。激しい鈴音が鳴り響き、いったい何が起こっているのかわからないまま、かさねはイチの身体のしたで瞬きを繰り返した。ひとしきり注意を促すように空気を震わせてから、鈴音がおさまる。
イチが手元の刀を引き寄せるのが動きでわかった。
「――そこにいるのは壱烏元皇子のいちばんめ、だな?」
低い声が闇夜から響く。雲間の月に照らし出されたのは、山間には似つかない清らかな白装束の老爺だった。小癪な罠を、と呟く老爺の手には、草の根に結ばれた鈴が握られている。野宿の際よく仕掛けておくもので、獣や山賊が近づけば、音が鳴る仕組みになっている。どうやら先ほど食料を取りに行ったときに、イチが仕掛けておいたようだ。
「あんたらは、鳥の一族か」
身を起こしたイチはかさねを背に押しやりながら、四方を取り囲んだ白装束の者たちを見つめた。みずらを左右に結い、鳥のように軽やかにたたずむその者たちの姿には、かさねも覚えがある。見たところ小鳥の姿はなかったが、面影やたたずまいに通じるところがあった。天の一族に仕える、鳥の一族。
ひときわ老いた男が音もなく前に進み出て、「花嫁御寮は無事だな」とかさねを見下ろして呟いた。
「そろそろ、あんたらが現れる頃だろうとは思っていた」
「……やはりわざとか。何故、天都へ戻らぬ。イチ」
鳥の一族の言葉に、かさねは眉をひそめる。
緑嶺から、かさねとイチは天都に戻る道をたどっていたはずだ。少なくともイチは、別れ際に小鳥にも、かさねにもそう説明していた。だが、老爺の物言いだとそれはちがうという。
「樹木老神への礼を尽くした道中だと、はじめは私たちもそなたらを待っていた。しかし遅い。遅すぎる。そなたは、わざと天都へ戻らない道を選んでいるな。イチ」
「あいにく俺は天都を追放された身でね。道を忘れた」
「戯言を」
老爺の声が鋭い怒気を帯びる。背後の若い鳥たちがすくみあがったが、イチは平然とした顔をしている。
「花嫁御寮をかどわかす気か」
「あんたらこそ、こいつをどうするつもりだ」
「その娘には天帝の花嫁となるさだめがある。天帝が目覚めるまで、天都で大事に――」
「大事に閉じ込めておくのか。こいつの意志を無視して。あんたらの考えはもううんざりなんだよ」
引き抜かれた刀が薄く射し込む月を弾いて、しろじろと光る。鳥の一族の者たちもまた、緊張を帯びた仕草で弓と刀を構えた。その数、八羽。
「い、イチ、」
「俺から離れるな」
短く告げると、イチは首にかけた常盤の口琴を口にあてた。
細い音が波紋のように夜闇に広がっていく。
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