一章 逃げ道 2

「忌々しい……!」


 呪具たる口琴の音に、鳥の一族が動きを鈍らせ、顔をしかめる。

 しかしその身に神霊と人間、ふたつの血が流れる彼らには、狐神のときのような一撃必殺の効果は及ぼせなかったようだ。きん、と刀の鯉口を切る。腰をかがめて、イチはまず前方にいる老人を斬った。白装束からさっと吹き上がる血を皆まで見届けず、右から飛びかかった男の腹を蹴り、返す刀で左の男を斬り伏せる。どう、と重い音を立てて、若い男の身体がセワの樹の根元に転がった。

 速い。さながら一陣の風のようだ。

 細く射す月光は、時折雲に隠れてその場を完全な暗闇に変えてしまう。夜目の利かないかさねは、それ以上イチの動きを目で追うことができなかった。そば近くで躍動するひとの呼気と、刀と刀が打ち合う鋭い金属音、血の臭気。夜闇に濃密に漂うそれらに、かさねはどうすることもできず、己の身をぎゅっと腕で抱き締める。

 指一本触れる、どころではない。

 血の一滴すらもかさねには寄せ付けない。

 その計算をするだけの余裕が、まだイチにはあるのだ。


(なんという……)


 わかっているつもりだったが、かさねは考えずにはいられなかった。


(なんという強さなのだろう)


 鳥の一族は、天都の守りを担う一族だという。

 下界という慣れぬ土地ではあれど、彼らとて訓練されたつわものにはちがいない。だが、イチの速さの前では鳥たちの動きは児戯に等しかった。かさねがセワの樹の前でたたずんでいるうちに、あたりには七羽の身体が倒れ伏した。かろうじて息はあるようだが、的確に手や足の健を傷つけられた彼らはもうろくに動くこともできない。呻き声が途切れがちに漏れ、色のわからぬ体液があたりに広がっている。


「う、あ……」


日のあるうちに見たら、その凄惨さにかさねは胃の中のものをすべて戻していたにちがいない。舌に広がった酸っぱいものを飲み下し、乱れた呼気をなんとか整えようと苦心する。


「かさね」


 最後のひとりから刀を引き抜いたイチは、血脂を慣れた仕草で拭った。

 澄んだ鍔鳴りの音を立てて、刀が鞘におさまる。わずかな衣服の乱れもないかさねに対して、イチのほうは血だらけだった。そのほとんどが返り血なのだろうが……それ自体には頓着した様子もなく、ただ首にかけた口琴に付着した血だけには目を眇めて、「行くぞ」とぞんざいに言う。


「ど、どこへ」

「天都の追手がかかった。次はもっと大勢がくる」


 イチの口ぶりは冷静だ。かさねはこのときになってようやく、イチが小鳥を先に天都に返して、わざわざ木道を選んだ意図に思い当たった。イチは予想していたのだろう。天帝の花嫁の役割を樹木老神から伝えられた今、天都がかさねをどう扱うかを。

 天帝との子を成したのち、地の底に落とされる。

 千年前のひよりと同じように。

 目の前で繰り広げられたあまりにむごい運命を、かさねはまだ受け止めきれていない。けれど、そんなかさねの心など誰も慮ってはくれないのだ。


「怪我はないのか、そなた」

「ああ、俺は――」


 イチのほうへ駆け寄ろうとしたかさねは、その背後で上半身だけを起こす男に気付いた。手には矢をつがえた弓が握られている。


「イチ!!!」


 かさねが叫ぶよりも前に、イチはそちらに視線を跳ね上げる。反射的に身を引こうとして、何故か、その場にとどまる。うなりを上げた矢がイチの肩を射抜いた。直後、イチとは別の呻き声が上がって、弓を持った男が弾かれたように後ろに倒れる。矢を放たれる直前に、イチが短刀を投げていたようだ。


「い、イチ、イチ……!」


 矢の衝撃で傾いだ男を慌ててかさねは支える。突き立った矢の生々しさにおののいていると、イチはわずらわしげに己の肩に一瞥を送り、「平気だ」とかさねの手をのけた。ひと息に鏃が引き抜かれる。どっと溢れ出した鮮血にかさねは蒼褪めた。先端のにおいを嗅ぐようにしてから、イチは矢を折って地に捨てる。


「……草木の毒じゃ俺には効かねえぞ」

「ふん、だが逃げても無駄だ」


 地の底から這うような声で、老爺は吐き捨てた。

 鳥笛が響く。鳥の一族のひとりが鳴らしたようだ。


「天都は花嫁を逃がさない。おまえひとりで花嫁御寮をどこまで連れていけると? その身に花嫁のあかしがある限り、逃げ場所などは――」

「黙れ」


 遮り、イチはかさねの身体を傷ついていないほうの肩に担ぎ上げた。


「あんたらの言いなりにはならない。少なくとも、こいつがそれを望まない限りは」

「ま、まて、イチ。かさねも、」

「あんたの足じゃ追いつかれる」


 ぴしゃりと断じられてしまえば、返す言葉はなかった。唇を引き結んだかさねの身体をイチが抱え直して、足元の荷を取る。重たげな雲からついに雨が降り始めた。はじめは細い線のようだったそれは、すぐに風を伴う雷雨に変わる。


「せいぜい逃げてみよ!」


 血まじりの痰を吐いて、老爺が哄笑を上げた。


「この地にそなたらの居場所などない! それを思い知らされるだけなのだから……」


 まるで呪詛ともいえる言葉に、かさねは耳を塞ぎたくなって、きつく眉根を寄せた。



 *



 稲妻が時折、空に走る。

 木々の間を降る雨は、瞬く間に大地に水道を作った。むっと土のにおいが濃くなる。月が隠れた空は暗く、これから始まる夜の長さをかさねに予感させた。

 足場の悪さをものともせず、一刻ほどイチは走り、鳥の一族と十分距離をあけたところで一度息をついた。石のあいだから湧く泉の水で、肩の傷を洗う。かさねはその隣で空になった竹筒に水を入れつつ、そろそろと男を見上げた。

 鳥の一族と刃を交えてから、膚がひりつくような緊張をずっとイチは張りめぐらせている。これまで縁側でまどろんでいた獣がふいと自分の役割を思い出して、頭をもたげたかのようだった。出会った頃のイチはそういえば、こんな男だった。


「……どうした」


 かさねの視線に気付いて、イチが尋ねる。やりにくそうに裂いた布を肩に縛っているので、「貸せ」とかさねはそちらに手を伸ばした。イチは他人に不用意に身体を触れられることを厭う。わかっていたが、放っておけなかった。変色した傷口からは、未だじわじわと血が流れ続けている。泣き出しそうな気分になり、かさねは息を吐き出した。


「イチは……鳥の一族のこと、予期しておったのか?」

「ああ。そろそろ不審がられる頃だと思っていたし、きのう孔雀姫から警告の鳥文が寄越されたところだったから」

「鳥文?」

「鳥の一族が内々に動いたゆえ、気をつけろと。――安心しろ。孔雀姫はいちおう、まだあんたの味方でいるつもりらしい」


 薄くわらって、イチは手当を済ませた肩を軽く振った。


「小鳥はこたびのこと、知っているのだろうか」

「さあ……。あいつは鳥の一族でも孔雀姫の侍従だから、立場がすこし違うんじゃないか」

「かさねのせいで、ふたりが立場を悪くしないとよいのだが……」


 この一刻、雨脚は徐々に強まっている。ぬかるんだ道は悪路といえたが、それは追手にとっても同じだったし、夜の獣がうろつかなくなっているだけ僥倖なのだとイチは言った。


「今なら雨水が足跡も洗い流してくれる。朝になる前に、山を抜けるぞ」

「……うむ」


 強張った顔つきのまま、かさねは足元へ目を落とす。山を抜けることができたら、追手はなくなるのだろうか。老爺の呪詛めいた言葉や鳥笛のことを思い出す。――とてもそうは思えなかった。言葉少なに俯いていると、「この世の終わりみたいな顔するな」とかさねの額にイチが軽く触れた。


「道を塞ぐ奴を片っ端から斬るだけだろ。そう難しい話じゃない」


 少し砕けた口調には、こちらを案じる響きがあった。それほど今のかさねは思い詰めた顔をしているのだろうか。自分でももうよくわからなかった。

 濡れそぼったかさねの髪を耳にかけようとしてから、イチは何かに気づいた様子で手を引いた。代わりに吸い寄せられるように五指が刀の柄を握る。暗闇にらんと光る複数の鳥目を見据え、イチは刀を引き抜いた。


「……けど、わるい。『手加減』はもう無理だ」


 鳥の一族というよりはかさねに向けて呟いた声が、闇夜に落ちた。

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