三幕 漂流旅神編

序章 壱烏

序章 壱烏

 天都の神域にある奥宮では、千を超える蝋燭の炎が常に絶やされることなくゆらめいている。中には火番と呼ばれる守り人がおり、蝋燭の炎がひとつ消えるたび、すぐに別の炎を足すのだ。

 その千の炎のなかを、小さな影が走っている。

 ひと目でものがよいとわかる濃朱の衣をまとった少年だった。絹独特の光沢を持った衣が涼やかに翻り、蝋燭を映した眸が爛と光る。金目。天帝のことほぎを宿す両目は、天都でもごく一部の者にしか顕れない。少年に気づいたものの、火番が追い出そうとしないのは、ほかでもない彼こそが天帝の恩寵を受けた一族のひとりであるためだ。

 天帝を祀る社の前に立った少年は、おそるおそる顔を上げた。御簾がかかった先にある祭壇には、磨き抜かれた鏡が鎮座している。両脇にはやはりゆらめく炎。


「天帝」


 少し上がった息を整え、少年はその名を呼んだ。

 緊張で強張っているものの、両目には並々ならない決意がにじんでいる。


「お願いです。どうか、わたしの声にこたえて」


 かつて千年の眠りについたとされる最高神は、こたえを返さなかった。代わりに両脇の炎がびょうと燃え盛る。蛇のようにとぐろを巻いて、左の炎が訊いた。


(そなたは誰だ)


壱烏イチウ


(ちがう。それは、仮の名にすぎぬ)


 右の炎が虎のごとく牙を剥いて、不満げに罵った。


(仮名を告げるとは非礼)

(名を告げよ)

(まことの名を)

(そ、な、た、は、だ、れ、だ)


 絡み合うふたつの炎に罵られながらも、少年のたたずまいは静穏としている。小さく息をついて、彼は口を開いた。


「    」


 その音を口にした瞬間、ふたつの炎が社の天井に届くまで伸びあがった。火花を散らして絡み合い、大きな火烏の姿をかたどる。輝く翼がごうと打ち鳴らされれば、御簾が灰に変わり、少年とかの神を遮るものは何もなくなった。光。あるいは闇。まばゆすぎるそれはもはや見つめることもできない。身体のうちから響く声で、火鳥が少年に問うた。


(おまえの願いは、なに)


 天帝とは、おおいなる神。

 命を与えるもの、奪うもの。永久不変の、ひととはあまりにかけ離れた存在。

 額に汗が滲み、反して背筋には悪寒が走る。

 危うくその場にくずおれそうになるのをこらえて、少年は乞うた。


「……ぼくの『イチ』をたすけて」


 火鳥の片翼が炎に転じて、鼻で笑う。

 

(それも仮名だ)

(まことの名が無い)

(無い。それはおまえの影)

(名が無いものはすくえない)

(存在しない)


「イチは、生きている」


 いささか気分を害して、少年は眉根を寄せた。自分の『ともだち』を存在しないなどと言われて、黙っているわけにはいかない。まして今イチは、死のふちにいた。「陰の者」を束ねるおやじさまの話では、これはもう使い潰されたということで、だめなんだという。その手は握るとまだあたたかいのに、うすく開いた眸は壱烏を映すのに、呼んだらこたえようとしてくれるのに、それでも。


(方法が、ある)


 ぱち、と火の粉をひとつ立てて炎が言った。


「方法?」


(差し出す)

(名を)

(無いものにあたえる)

(おまえはうしなう)

(名の有るものは、すくえる)

(名の無いものは、すくえない)

(だから、差し出す)

(おまえのまことの名を)


 天帝はおよそ情というものを持ち合わせない。おおいなる存在が求めるのは、常に平らかさだ。何かを与えるためには、何かを奪わなければならず、何かを生かすためには、何かを殺さねばならない。そういう理屈で存在している。

 少年の顔に懊悩がよぎったのはつかの間だった。


「    」


 先ほどと同じ音の連なりは、少年の真名と呼ばれるものである。真名を明かすことは魂を握られることと同義。ゆえにそれは、つれあい以外には生涯固く秘され、仮名と呼ばれる通称が「名前」として扱われる。真名を譲り渡したとき、何が起きるかは天の一族たる彼にすら、わからない。


「お願いです、天帝。わたしのすべてを差し上げるから、イチをたすけて……!」


 懇願を受け入れた天帝が翼を大きく広げて、少年のほうに向かってくる。光。あるいは闇。あまりのまばゆさに、目を開けていることはもうできなかった。


 死の床にあったイチが息を吹き返したのはその少しあとのことである。

 天帝の力をみだりに引き出した壱烏は、責を負って天都を追放される。

 その死の五年前の出来事である。


 *


 北の寒村。鹿骨カボネの地に、細い嗚咽が途切れることなく響いている。

 冷たくなった主人の骸から、ひとりの少年が離れられずにいるのだった。

 彼の命が少しずつ燃え尽きる長い日々、彼は何度も神に願った。

 どうか、おれの壱烏をたすけてください。

 そのためなら、なんだってする。なんだって。

 けれど、願いは届かなかった。天帝は、彼の願いを聞き入れなかった。声すら聞こえていないようだった。彼は自分が信じていた神を罵り、己を呪った。三日三晩、骸にすがりついたまま離れない彼を見かねて、鹿骨の心やさしい村人たちが葬送の準備をしてくれた。――あまり生者の想いが強いと、魂がかえれなくなってしまうからね。彼を引き剥がし、鹿骨の老巫女が諭した。

 おれが。

 ぼんやりと彼は呟いた。

 おれが、しねばよかったのに。

 代わりに。しぬのが、おれだったらよかったのに。そのために、生まれたのに。いちうのわるいことをぜんぶ、引き受けるのがおれなのに。

 乾いたはずの涙はあとからあとから溢れてやまない。壱烏の弔いを終えて、その骨を鹿骨の冷たい大地に埋めたあとも、イチの心は何も変わらなかった。なんでおれ、いちうがいないのに、生きてるんだろ。


「    」


 聞き慣れない音の連なりが頭上からしたのは、墓の前で何をするでもなく座り込んでいたときだった。しばらく反応を返さなかったイチは、かたわらに何かの気配が立ったことに気付いて、のろのろと顔を上げた。


「さがしましたよ」


 これといった特徴のない、中年の男だった。旅用の笠を傾けた男は、杖を鳴らしてイチの顔をのぞきこむ。いつもならもっと警戒心を抱いただろうが、今のイチは腫らした目を無関心にそちらに向けただけだった。男は検分するようにイチを眺めまわしてから、ひとつうなずいた。腰をかがめて、ひたと額に口付けが落ちる。


「これで、次からは見つけやすい」

「……なんだ、あんた……?」

「先ぶれですよ、ただの。わたしの仕えるあなたに挨拶をしに来ました」


 うっすら笑んで、男はしゃらんと杖を鳴らした。半月に上がった口元の印象だけを残して、その姿はいつの間にか消え去っている。その場に座り込んだまま、イチは瞬きをした。アレは、なんだったのだろう。浮かび上がった疑問はしかしすぐに、別の感情に押し流される。それきりもう、思い出すこともなかった。

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