四章 女神眠る地 5
(かさねさま)
今は苛立つように唸るにとどまった鳥と相対していると、焼け焦げた大樹から囁きにも似た呼び声が発せられた。
「ひよりどの!?」
声は聞こえるが、姿が見えない。せわしなくあたりを見回したかさねに、ひよりの声が語りかける。
(今からあなたのもとへ降ります。手を伸ばして)
「手を?」
(そう天へ――)
乞われるまま天へ腕を差し出すと、中天に白い光がさっと閃き、かさねの手を別の手がつかむ。
「っと、わ、わ、わ、」
突如現れたひよりを何とか受け止め、かさねは地面に転がった。ひよりを守ることに気を取られていたため、背中をしとどぶつけて呻く。
「ぶ、無事か、ひよりどの」
「ええ、なんとか……」
かさねの胸に突っ伏すように倒れていたひよりは、腕に抱いたものを引き寄せた。白い産着にくるまれていたのは、うすべにの膚をしたあどけない赤子だった。ふわふわと睫毛を震わせた赤子はすぐにひよりを探し当てると、首根っこに頬を擦り寄せた。
「天帝」
花鳥の舞う白打掛に綿帽子、赤の房飾りをつけた懐刀。莵道の花嫁衣裳をひよりはつけていた。抱えた赤子を火鳥の姿をした天帝のほうへ差し出して微笑む。
「たいへん遅くなり申し訳ございません。求めに応じて莵道ひよりが参りました」
(それはわたしの子どもですか……?)
「ええ、あなたとひよりの。神とひとの縁のあかし。あなたのことほぎを受けた男の子です。名を金烏(キンウ)」
(きんう)
天帝はすべらかな嘴を赤子のほうへ向けた。まぶしそうに金目を細めた赤子の額に、嘴の先が触れる。額を中心にまるく光が輝いた。
(あなたとわたしの子どもへ、ことほぎのしるしに天道を授けましょう。永劫、わたしに仕えることをゆるします)
「感謝申し上げます。あなたとわたくしの子どもは天の一族の祖として、この天都を守り、永劫あなたにお仕えしましょう」
光に気付いたのだろう。イチや星和をはじめとした莵道の者たちも、その場に集まってきていた。
「神とひととの婚姻は果たされました」
集った者たちを見渡し、ひよりは静かに告げる。腕に赤子を抱き、火烏に寄り添うひよりは輪郭に沿ってうっすら光を纏い、神がかった美しさがある。恐れを通り越してある種の感慨めいたものを抱き、かさねは息をついた。
「かさねさま。こちらへ」
ひよりは首にかけていた茜色の口琴を外すと、それをかさねの手の上に乗せた。
「道中わたくしの代わりをしてくださってありがとう。約束の口琴です。どうか受け取って」
手の中におさまった口琴は内側から薄紅の光が滲むかのようだ。ひよりの体温だろうか、ぬくまった口琴を握り締め、「こちらこそ礼を言う」とかさねはひよりの手を取った。
「これでイチを救うことができる。そなたのおかげじゃ」
「いいえ。わたくしこそ、あなたに会えてよかった」
涙ぐみそうになったかさねに額を合わせると、ひよりはイチを振り返った。
「さあ、イチ。あなたの花嫁を連れ帰って」
「ああ」
イチに腕をつかまれ、「待て!」とかさねは身をよじった。
「かさねはまだ――」
「俺たちの用は済んだ。帰るぞ」
「イチ!」
そのとき、ひよりの腕の中にいた赤子が火がついたように泣き出した。あらあら、と苦笑し、ひよりは今ひとつ取り出した口琴を握って「星和」と呼ぶ。
「樹木神にいただいたものです。かけてあげて。この子のこれからに幸が多いように」
「ひより」
うなずきながらも、眉根を寄せる星和の表情は苦しげだ。ひよりを愛する星和である。その心中ははかるべくもない。それでも、星和はいっとう丁寧な手つきで口琴を受け取ると、ぽろぽろと涙を流す赤子の首にそれをかけやる。艶やかな常磐色をした口琴は、色といい、形といい、イチの首にかかっているものと同じに見えた。地神をしずめるほどの強い力を持った呪具である。かつてこの地を治めていた樹木神の木膚から作られたゆえ、それだけの力を持つに至ったのだろう。
「金烏。おまえに木々のことほぎを」
星和が赤子の額に口付けを落とす。水に触れたかのようにすぅっと泣き声がおさまった。赤子を星和に預け、ひよりは今は静かに羽を畳んでいる天帝のもとへ歩み寄る。金の炎を揺らめかせて、火鳥がひよりに擦り寄る。炎がひよりの身体を包んだが、白銀の髪も、白無垢も、まるで損なわれることがなかった。
「ひよりどの!」
幸いにも、女神からの応答はまだなかった。不穏なものを感じたかさねはイチの腕を抜け出し、ひよりの手首をつかむ。そして愕然とした。――すり抜けた。さっきは確かにつかめたはずの手は、かさねの目の前でまぼろしのようにかゆらいでいる。まるで、一枚膜を隔てた向こう側にいるかのようだ。
「待って……待ってくれ、ひよりどの。そちらに行ってはならん!」
考えて口にした言葉ではなかった。けれど、何故かひよりはかなしそうな顔をして目を伏せる。
「連れ帰ってと言ったのに。もう時間がない」
「ひよりどの!」
「さっきここへ来るために莵道をひらきました。三度目の莵道」
手をつかんで、とひよりが言ったときのことを思い出す。
あのときに莵道はひらかれていたのだ。
「『三度目の莵道は、神との和合を意味する』」
息を詰めたかさねの前で、ひよりの姿が次第にゆらめく。薄紅の花を咲かせていた痣は今やそれそのものが生き物であるかのようにひよりの身体にまとわりつき、脈動を始めていた。
「もう『こちら』へはもどれない。星和、ごめんなさい。『あちら』のものになってしまったわたくしをゆるしてね」
「ひより……、」
星和がはじめて動揺する声を上げた。くしゃりと顔を歪めた星和に手を伸ばし――、それがもう触れ得ぬものになってしまったことに気付いて、ひよりは首を振る。天帝が鋭い一声を放った。直後、激しい地揺れが起こり、大地がぱっくり割れる。天の底が待ちわびていた何かを迎え入れるかのようだった。
「いやじゃ! ひよりどの! ひより――」
「千年後の『わたし』よ。あなたはくじけないでね。どうか、このさだめを――」
乗り越えてみせて。
鈴が転がるような声とともに、ひよりの姿は完全に大地にのみこまれた。天帝がまた一声哭いて、地揺れを止める。歓喜とも、怒声とも、はたまた悲壮ともつかぬ情を振り払うかのように、鳥の姿はぐんぐんと天高くを舞い上がり、すぐにかさねたちには見えなくなった。静寂のかえった大地では、膝をついた星和が赤子を抱えたまま号泣している。かさねは声ひとつ上げることもできずに、ただそれを見つめていた。
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