四章 女神眠る地 6

 どれほどそうしていただろう。

「星和……」

 かける言葉も見つからないまま、かさねはためらいがちに星和の丸めた背中に手を伸ばす。ひゅん、と空気が擦れるような弓弦の音が打ち鳴ったのはそのときだ。

「かさね!」

 腕をつかまれて地面に引き倒される。はずみに手にしていた口琴が滑り落ち、高らかな音を立てて地面に跳ね返った。あっとかさねが叫ぶより前に、イチの手が口琴をつかむ。それを頭上から振り下ろされた太刀がイチの手ごと貫いた。

「っ……」

「イチ!」

 頬を歪めたイチの肩にすがりつけば、離れていろとばかりに荒っぽく引き剥がされた。眼前に立った長身の影をみとめて、かさねは声を失う。

「大地将軍……!」

 抜き身の太刀を肩に担いだのは、大地将軍・燐圭そのひとだった。イチの手がつかんだ口琴は真っ二つに割れている。かさねは狂乱気味の悲鳴を上げた。その前で燐圭はさらに二度三度と口琴に向かって太刀を振り下ろす。

「やめ……やめよ! やめよ!!!」

「かさね!」

 燐圭の振るう太刀と口琴の間に分け入ろうとしたかさねを、イチが無事なほうの手で引き寄せた。

「離せ! 口琴が壊されてしまう! ひよりからもらった口琴が! イチが!」

「落ち着け」

 暴れるかさねを片腕だけで押さえて、イチは痛みを逃すように息を吐いた。いつしか燐圭が振り下ろす太刀も止んでいた。イチは子どもをあやすようにかさねの額に手で触れる。場違いにやさしい仕草は、その先を言うためだったのかもしれない。

「もう壊れてる」

「――っ」

 咽喉からほとばしったのは、悲鳴であったのか、怒声であったのか。かさねは何度もかぶりを振って、泣き叫び、暴れた。目の前で起きていることが信じられなかった。到底ゆるせることでもなかった。口琴を持ち帰ることができなければ、イチは死ぬ。死んでしまう。いやじゃ、いやじゃ、としゃくり上げて、かさねは粉々に砕けてイチの血を吸った口琴を拾い上げた。

「それをこちらに寄越せ、子うさぎさん」

「……来るでない」

 泣き腫らした目で睨めば、小さな息をつかれて、鼻先に太刀を突きつけられる。逆光のせいで、燐圭の表情は見えない。血の滴る太刀の生臭さだけが男の冷酷さを伝えていた。

「かさね」

 壊れた口琴ではもはや意味がない。渡してしまえ、とイチの声は言いたげだった。かさねはゆるゆると首を振る。切っ先が目の前にあるのに、恐怖心は吹き飛んでいた。悔しさと怒りが嵐のように腹の底から湧き上がってくる。何故。どうして。

(かような目にイチが遭わなくてはならない! 何故!?)

「おなごを痛めつけるのは趣味ではないが……。致し方ないか」

「かさね!」

 じれた様子でイチがかさねに手を伸ばす。砕けた木片を見据え、かさねはそれを口に持っていった。ごくん、と飲み込む。途中でえずきそうになり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死に手で口を押さえて飲み下した。呆気にとられたのはイチと燐圭だ。

「おまえ、何食ってんだ! 馬鹿か、食い物じゃないだろ吐き出せ!」

「いやじゃ! いーやーじゃあああああ!」

 背中を叩いて吐き出させようとしたイチから逃れ、かさねは両手で口を押さえる。そして燐圭をきつく睨み据えた。

「渡さぬ! イチのためのものは何ひとつ、そなたに渡しはせぬ! 不服なら、かさねを斬ってみよ! その太刀でかさねを斬ってみよ!!!」

 飲み込んだはずみに口内をいくつか切ったらしい。声を張ったせいで、血の味が広がってかさねは呻いた。涙と鼻水と血まじりの涎で、たぶんひどい形相だ。かさねを見ていた燐圭が不意に声を立てて笑い出した。

「ほんにそなたは面白いおなごだな、子うさぎさん。見ていて飽きん」

「なにを……」

「――まあよいさ」

 おもむろに太刀を鞘におさめ、燐圭は口端を上げた。

「証に壊れた口琴を持ち帰ればよいと思ったが、そなたの啖呵に敬意を表して、それくらいはくれてやる。さりとて、女神との誓約を果たしたのが私であることは変わりあるまい」

 肩をすくめる燐圭の姿が徐々に透け入り始める。かさねとイチもまた同様だった。すべてを見届けた大地女神がかさねたちを呼び戻そうとしている。

「星和!」

 赤子を抱えてうずくまったままの男にかさねは声をかける。大きな声を出すとまだ咽喉が痛んだが、構っていられない。

「どうかそなたは――!」

 そなたとその子どもだけは。

 ……しあわせに生きてほしい。ひよりのぶんまで。

 途中でつかえて言えなくなってしまったかさねに、星和が泣き濡れた目を上げる。未だおぼつかない表情をしながらも、腕にはしっかりと赤子を抱き寄せている。その手の確かさに目を細め、かさねは深く頭を下げたのだった。

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