四章 女神眠る地 4

「ここにいらした」

 破顔した天帝にほっとしたように抱きすくめられる。うおおおおい近い、近い、近い、とかさねは顔を引き攣らせて硬直する。ぱし。別の方向から微かに袖を引かれたのはそのときだ。

「い、いち……?」

 瞬きをして、かさねは袖端を摘まむ男を見やる。それで初めて我に返った様子で、イチは眉根を寄せた。しばらく怪訝そうに――己の手を見つめたあと、何かに思い至った様子で天帝を睨む。

「壱烏の顔でちがう女に手を出すな。胸くそわるい」

 孔雀姫という想い人がいたはずの壱烏の顔で、かさねに言い寄る現状が気に喰わないと、そういうことらしい。鋭い眼差しに睥睨された天帝は、細かい機微には疎そうに、はて、と首を傾げた。もとより、ひより以外の者はなきものとして扱っている天帝である。

「碧の用意したものはあなたのお口に合いませんでした?」

 手つかずの膳を見て、別のことを訊く。

「いや、いつもおいしゅういただいておるぞ。今日は婚礼の夜を控えているゆえ、緊張で咽喉が塞がってしもうてな……」

「それはいけない」

 眉をひそめ、天帝はかさねを腕に抱き上げようとした。そのとき、イチの手が「引っかかっている」ことに初めて気付いた様子ですいと指で払う。

「――っ」

 雷電にも似た火花が散って、イチは思わず手をのいた。その手が赤く爛れていくのを見やり、かさねは息をのむ。

「おい、天て――」

「セワの大樹が実をつけたんです、案内しましょう。あれなら、あなたもきっとお気に召すはずだから」

 こちらの声などまるで聞こえていないように、かさねを抱えた天帝は庭に降り立った。天都の御殿を天帝は熟知しているらしい。働く鳥采女たちの間をかいくぐり、橙色の実をつけたセワの大樹の前に舞い降りる。先日、清めを行った泉に生えていたあの樹だ。

「ひより。ほら、」

 丸く熟れた実のひとつを取って、天帝が差し出す。澄ました横面に投げつけたくなるのをこらえ、口を真一文字に結んだままかさねはそれを受け取った。

(どうしてイチよりやさしいなどと一瞬でも思ったのだろう)

 やさしさなど、所詮はひとの物差しでしかない。神たる天帝は、あまねくこの世のものを愛しているのかもしれないが、そのぶん個々に注がれる思いやりはとても薄い。ひとりひとりの人間などは取るに足らないものなのだ。

(けれど、かさねはそうは思えない)

 改めて天帝はどこまでも隔たったものなのだと思い知る。唇を噛んでうなだれていると、期待に満ちた目がかさねの手にある実に向けられていることに気付いた。食べろ、ということらしい。しかし、ひよりの言では天のものを食すのは禁事だ。ひとまず時間稼ぎに皮を剥いてみるが、水気をたっぷり含んだ果実が現れても、天帝の視線がかさねからそれることはない。

「食べぬのですか?」

「ああ、いや……、そなたがくださったものだから、食すのが惜しくてのう」

「そうなのですか?」

 ほとりと首を傾げ、天帝はかさねの手から実を取り上げた。熟れた果肉を食み、獣がそうするようにかさねの指も舐め上げる。ひどく淫靡な仕草だった。

「わたしの子どもはまだ生まれない?」

「もうすぐ……もうすぐじゃ」

「では、舐めてもよろしい?」

「なめっ、舐めるとは!?」

「わたしの子どもがいるところを舐めてもよろしい?」

 手首をつかまれ、さすがに背筋に冷たいものが走った。無垢な眸がいっそ恐ろしい。ま、待て、待て、と猛獣使いにでもなったつもりで、迫る天帝を押し返しあとずさる。泉のふちに足がかかり、澄んだ水面にかさねの姿が映った。それを見た天帝がふと金のまなこを瞠らせる。

「……そなたは誰です?」

 ぎくりと肩を跳ね上げ、かさねは天帝を見つめた。

「誰、とは」

「ひよりではない。ひよりに魂のかたちもにおいも似ているけれど、ひよりではない。誰です、そなたは。何故ここにいる?」

 どうしてかわからないが、天帝は唐突にかさねの正体を見破ったらしい。こくりと唾をのみ込み、かさねはこぶしを握った。先ほどまでいとおしげにかさねを見つめていた眼差しは冷え、猜疑とともしたら暴発しかねない怒りがざわざわと天帝の周囲でくすぶっている。何気なく泉に映った天帝が目に入り、かさねは悲鳴を上げかけた。炎にも似た黄金の火鳥。それが揺らめくようにかさねの前に立っている。

「あ、ああ、あ……」

「その泉はすべての姿を暴くんです。あなたも、わたしも」

「く、来るでない、」

「異なことを仰る。わたしの腕の中へ自ら飛び込んできたあなたであるのに。わたしのいとしい方と子どもはどこです?」

 後ろへ一歩下がった足が泉に浸る。青い水に触れると、天帝も見る間に姿を変えた。イチに似通った男の姿は霧が晴れるように消え失せ、代わりに先ほど水面に映ったのと同じ、獰猛な鳥が羽を震わせている。炎が爆ぜた。泉の水が瞬時に干上がり、大樹の枝に火の粉がかかって煙を上げ始める。

「わたしのいとしい方はどこ?」

「ひっ」

 鋭い嘴を咽喉に突きつけられる。嘘偽りをゆるさない目だ。涙がこみ上げてきたのを奥歯を噛んでこらえ、かさねはこぶしを握った。はー、と息を吐き出す。恐怖で顔をぐしゃぐしゃにした自分が水たまりにひととき映って消えた。

「――莵道かさね」

 腹を据えて、名をあかす。

「千年後、そなたが求める乙女の名じゃ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 嘴に両手を添えると、そっと唇を触れさせた。深く考えての行動ではなかった。けれど、否や周囲にあらぶっていた火の気配がおさまり、あたりに静寂が戻った。

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