四章 女神眠る地 3

 天都に来てから、三日目の朝を迎えようとしていた。日向三山からのぼる陽のまぶしさにかさねは目を細めた。かさねの前には白打掛の花嫁衣裳が衣桁にかけられている。莵道でひよりのために織られたものだ。

「ついに婚礼当日になってしもうたな……」

 ふう、と嘆息したかさねに、「大丈夫だ」と励ますように星和が言った。

「ひよりは必ず戻ってくる」

「かさねとて信じておるよ」

 イチは外の高欄に片膝を抱いて腰掛けたまま喋らない。星和の視線に気づいたらしい。金と灰の双眸を上げると、「陽が沈むまで」とそっけなく言った。

「こいつがひよりの代わりをできるのはそれまでだ」

「おい、イチ、勝手に……!」

「このお人好し馬鹿が何と言おうと、婚礼の段になったら俺たちは抜ける。いいな」

「わかっている」

 不安げな使用人たちを見回し、「大丈夫だ、ひよりは帰ってくる」と星和は今一度固く顎を引いた。


「それにしても腹が減ったの……」

 きゅるるる、と情けない音を立てた腹を抱え、かさねは用意された膳を恨めしげに見つめる。贅を凝らして作った料理の数々に手が伸びそうになるが、ひよりの言いつけを守って星和の持ってきた干し肉のほうをかじる。手つかずのまま残した料理は、毎回イチが庭の烏にやっているらしい。

「こちらのものを食べてはならんというのはどういう意味であろうか」

 干し肉を割いてイチにも渡しながら、かさねは問うた。鳥采女は膳を並べて下がったため、部屋にはちょうどかさねとイチのふたりしかいない。

「異界をおとなったとき、やってはいけない決まりごとのひとつだ」

「そうなのか?」

「その土地のものを食すというのは、その土地の円環に組み込まれるって意味になる。俺たちからすると、千年前の世界と深い縁を持つのはよくはない。戻れなくなってしまうからな」

「しかし、この干し肉だとて、ある意味異界のものではないか。平気なのか?」

「わからない」

 肩をすくめて、イチは割いた干し肉を咀嚼した。

「が、さすがに食わないと死ぬだろ。ひよりが天都の食い物にことさら注意したのは、おそらく天帝と強い縁を作ってしまうと、大地女神の加護が薄れてしまうからだ。俺たちは大地女神の力でこの地へ来たから」

「なるほど」

 その理屈なら、かさねにも理解できた。うなずきつつ、竹筒に入った水を飲むイチの横顔をちらりと盗み見る。床にあぐらをかいて座るイチの様子は、普段と何ら変わりがない。

(おとといのあれはなんだったのであろ)

 前に地都でかさねを案じて抱きしめてくれたときとは、何かがちがっていた。抱きすくめる腕の強さも、危うい熱も、謎かけのような言葉も皆。

「そなた、もしかしてかさねのことが……」

「なんだよ」

 かさねのぶしつけな視線に気付いて、イチが怪訝そうな顔をする。しばし考えた末、手にしていた干し肉をひっこめて、大真面目に言った。

「これ以上食うと、肥えるぞ」

「うむ……そなたに何かを期待したかさねが色ぼけていたようじゃ……」

 遠い目になって、かさねは嘆息する。干し肉はそなたが食え、と残りも渡して、廂に出る。天青の垂れ衣が翻る先に広がるのは、霞みがかった春空。日没まではあと三刻ほどだろうか。しかしひよりが現れる気配はまだない。星和に諭されるまでもなく、かさねだってひよりが戻ってくることを信じている。三日前、ひよりは樹木神の力を借りてかさねに約束してくれた。長い付き合いではないが、ひよりの人柄はわかっているつもりだ。

(しかし、もしも大地将軍が行く手を邪魔したとすれば……)

 ひよりがいるのは天帝すら察知しえない、樹木神の胎内だ。さまざまなことに通じているといえど、ひとの身の大地将軍が見つけられるとは思えない。さりとて、あの男がこのまま行動を起こさず、かさねたちの手に口琴が渡るまで待っているだろうか。

「そもそも、大地将軍が叶えたい願いとはなんだったのであろ」

 なんとなく疑問に思っていたことをかさねは改めて口にしてみた。

「黄泉路を自らくだるなど、よっぽどのことじゃ。そうは思わんか」

「……大地将軍、と呼ばれる奴らが代々、女神からどうやって加護を得るか知っているか」

 反対に尋ねられ、かさねは首を振る。

「確か、燐圭の前は別の男がつとめておったのだろ。将軍職が一族世襲の時代もあったのだと、旅をしているときに聞いたぞ」

「あいつの前は百年ほど、同じ一族が将軍職について、地都を治めていた。その一族の祖も、燐圭も、同じ方法で女神から加護を得た」

「同じ方法?」

「死ぬんだ、一度」

 背筋にひやりとしたものが伝った。イチは薄暗い目をして、庭に咲き乱れる花を見つめている。

「一度死のふちにくだった者の前に、大地女神はあらわれる。といっても、気まぐれな女神で、必ずしも降り立つとは限らないし、そのまま死んでしまうこともある。運よく女神に気に入られて加護を受けた者だけが、地道の管理者たる将軍の資格を持つんだ」

「で、では……燐圭が将軍となったとき、前の将軍はどうなったのだ?」

「詳しくは知らない。けど、たぶん生きてはいないだろうな」

 みるみる蒼褪めるかさねに対して、イチの口ぶりは淡泊なものだった。

「イチ。前から気になっておったのだが、あやつ……燐圭は地上から神々を追い払うことをもくろんでおるであろ。女神は何故そのような輩に加護を与えたのだろう」

「神々のことは俺にもよくわからない。ただ、あんたも対峙してみてわかったんじゃないか。あの女神は天帝や地神たちとは異なる存在のように見える」

「確かに……」

 どこか禍々しさすら纏った女神を脳裏に描き、かさねは鳥肌の立った腕をさする。神々とひとは生きる時間がちがえば、ものごとに対する考え方もまるで異なる。けれど、大地女神は妙に人間くさく、ゆえに狂気じみた恐ろしさがあった。この時代、天帝は生まれたばかりの幼神で、大地女神に至ってはあらわれてすらいない。この先、どのような混沌の中から、あの女神は生まれるのだろう。

「ひよりが戻ってきて口琴の受け渡しが済んだら」

 遠くへ視線を向けていたイチがふいにかさねを振り返って言った。

「すぐに女神のもとへ戻るぞ」

「……ひよりどのの婚礼を見届けなくてよいのか?」

「いい」

 イチにしてはめずらしい、投げやりな声だった。

「それはもう、いい」

 ともしたら、とあとになってかさねは思い出すことになる。このときのイチは持ち前の勘の鋭さで、迫りつつある不穏な気配を感じ取っていたのではないか。皆までわからずとも、それが「見てはならないもの」と思える程度には、何かを予感していたのかもしれない。

「し、しかしだな、」

「――ひより」

 甘やかな呼び声がして、かさねは口をつぐむ。鳥が舞い降りるような身軽さで現われたのは、淡い光をその身に纏った天帝だった。

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