四章 女神眠る地 2

「ひよりどの! 無事であったか!」

 身を乗り出して、かさねは水面に映るひよりに手を伸ばす。けれど水をかくだけで、肝心のひよりには届かない。水面越しに、ひよりがすまなそうに目を伏せた。

(ごめんなさい。わたくしは今、ここではない別の場所にいるのです。水を介してそなたと話ができるよう、樹木神に繋いでもらいました)

「そうか。その様子だと、樹木神には会えたようだのう」

(突然いなくなってしまって、びっくりしたでしょう。あのときは慌てて飛び出てしまったから……かさねさまもご無事ですか)

「大事ない。すこーし旅程が変わって、早々に天都へたどりついてしまったがのう」

 不安そうな顔をするひよりに、かさねは笑いかけた。ひよりの代わりにかさねが花嫁役をやっているのだという話をすると、ひよりはしきりに大丈夫かと身を案じる。

「天帝も今はまだかさねをひよりどのと思い込んでおる。平気じゃ。その様子だと、そなたも大地将軍とは鉢合わせておらんようだな」

(だいちしょうぐん、ですか?)

「あらぶる神をうつつに降ろしたかのような男よ。あやつにはあやつの事情があって、そなたの口琴を破壊しようと狙っている」

(そうでしたか……。ひよりは大丈夫。子を産むまでの間、樹木神の胎内に隠れていたのです)

「産むまで? ではもしや」

(ええ)

 うれしそうに顔を綻ばせ、ひよりは腕に抱いた赤子をかさねにも見えるようにした。産着に包まれた赤子は思ったよりもずっと小さい。けれど、落陽を溶かし込んだような金の双眸を見れば、すぐにわかった。天帝のことほぎ――天の一族の祖となる皇子である。ふわふわと瞬きをした赤子はかさねを見つけたのか、小さな手をこちらへ伸ばしてきた。あどけない姿にかさねは目を細める。

「かわゆいのう。そうか、そなたのすえがイチや壱烏なのだな」

(今は樹木神の胎内にいるので、天帝も赤子の存在には気付いていません。口琴の完成まであと少し。必ず戻りますので、どうか待っていてください)

「うむ。……ひよりどの」

 一度はうなずいてから、かさねはためらいがちにひよりを見つめた。

「戻らなくても、よいのだぞ」

 さすがにまずいことを言っている自覚がかさねにもあった。案の定、かさねを見返すひよりの表情は険しい。だが、やっぱりどうしてもかさねは我慢ならないのだった。

「星和をいとしく思うておるのだろう。なのに何故心を曲げて、天帝に嫁がなくてはならない? 口琴を受け取ったらかさねは逃げる。そなたも逃げる。よいではないか、それで」

 もしここでひよりが天帝に嫁がなかった場合、この地にいかなる災いが降りかかるかはかさねにもわからない。けれどかさねにとって、もはやひよりはひよりだ。天帝の花嫁などという伝説上の乙女ではない。かさねがただの娘であるのと同じように、ひよりとてただの娘に過ぎないのだ。どうしていとしい男でないもののもとへ嫁げと言えよう。

 ……かさねだって。

 狐でも、龍でも、天帝でもなく、自分が恋した男の花嫁になりたい。

(かさねさま)

 懊悩はわずかの間だったように思う。ひよりは微笑った。困った風にわらうその姿を見たとき、かさねはひよりはもうすべて覚悟を決めてしまったあとなのだと察した。やるせなさから唇を噛んだかさねに、ひよりは届かないとわかっていながら手を伸ばした。

(ありがとう。そう言ってくれるあなたと出会えてよかった。ひよりはしあわせものです)

 ひよりの頬を伝った涙がまるく水面に落ちる。みるみるかゆらぎだした水面に、ひよりは少し慌てた様子で、かさねさま、と声を張った。

(大事なことを伝え忘れていました。天都で出されるものを決して口にしないで)

「口にせぬとは? 三日間飲まず食わずでいるのはちと……」

(星和が食料を持ってきているはずです。いいですか、ぜったいに……)

 そこでひよりの声は途切れ、泉はもとに戻った。

「さらっと最後に大事そうなことを言うでなああああい!」

 どうにかもう一度繋がらないものかとかさねは幹をゆすってみたが、青い枝葉をそよがせるばかりで大樹はうんともすんともいわない。

「ひよりさま?」

 裸のまま樹にのぼって、えいえいと小突いていたかさねに、様子を見に来たらしい碧少年が声をかける。しばらくかさねの奇行を眺めていた碧少年は、清楚に目を伏せると、「天帝がお待ちですよ」と告げた。


 *


 案内された御殿の庭には、四季の花が乱れ咲いていた。むせ返るような濃厚な花の香が押し寄せて、かさねは思わずくしゃみをする。

「お気に召されました? あなたのために作らせた庭です」

「え、ええ……まあ……」

(庭よりもそなたの顔が近いほうが気になるわ)

 清めから戻ると、「見せたいものがある」と天帝はかさねを衣ごとひょいと抱き上げて、中庭に面した釣殿に移った。高欄から臨む庭は、桃源郷もかくや、と思わせる光景だ。だいだい、うすべに、き。普通ならともに咲かないはずの花々が露をまとってきらめくさまは、美しいというよりどこか恐ろしく感じてしまう。

「天帝よ。ひよりはひとりで歩けますよ」

 言外におろしてくれと訴えると、「ええ」と天帝は眦を緩めて、ますますかさねを引き寄せた。十月前の逢瀬がどのようなものであったのか、かさねは知るよしもないが、えらくひよりを溺愛しているらしい。かさねを見つめる金の眼差しには蜜のような甘やかさがあり、名を呼ぶ声はやさしい。

「わたしの姫はほんに清らかでうつくしい」

「いやあ、それほどでも……」

 賛辞を受けるのは嫌いではないので、でれでれと頬を緩ませていると、冷たい眼差しを頭上から感じた。甍に腰掛ける人影――イチである。いつからかはわからないが、甍の上で様子をうかがっていたらしい。

(よいではないか、ちみっとくらいかさねがよい思いをしたって! どうせひよりのほうに言っている賛辞なのだし!)

 何とはなしに沸いた後ろめたさを払うように、心の中で文句を言っていると、群れ咲く花のひとつを天帝が手折った。ひときわ赤く綻んだそれをかさねの髪に挿す。

「清らかなあなたには赤がとてもよく似合う……」

 ほう、とため息を漏らして、天帝はかさねの額に口付けた。白い光がひらめく心地がして、かさねは以前、莵道をはじめて開いたときのことを思い出す。通行料だと言って、あのときも「テンテイ」はかさねの額に口付けを贈った。

(そもそもかさねにとってはあれがはじめてのちゅうとやらで)

(いや厳密にいえば、ほんとうの口付けはええと……)

 狐の頬をつかんで唇を交わした情景が蘇り、かさねはとりあえず今の記憶を葬り去ることにした。

「頬を染められて。ふふ、うぶな御方だ」

 うっとり微笑み、天帝はかさねの肩に顔をうずめた。

「――わたしのいとしい方」

 呼ばう声にかつて見た夢を思い出す。

 若葉のあいまからさんざめく光の中、甘えるようにかさねに身を委ねる男がいた。名前を思い出せなかったあのひとは、もしや天帝だったのだろうか。

「わたしの子どもはもうすぐ生まれますか?」

 ふわりと耳朶をかすめた吐息に、かさねは我に返った。

「も、もうすぐな……」

 苦しまぎれの嘘には気付かなかった様子で、そう、と天帝は満足げに顎を引いた。


 *


「つかれる……!」

 天帝が去ると、全身から一気に力が抜けた。高欄に寄りかかるようにして座り込み、かさねは呻く。神気にあてられたのかもしれないが、どちらかというと、あのいとおしくてたまらないという眼差しのほうが落ち着かない。無論、天帝はひよりに向けて言っているのだし、どきどきしても栓のないことなのだが、何しろ顔が顔なのだ。火照った頬に手で風を送っていると、

「なんだあのきもちのわるい神は」

 頭上からいかにも不愉快げな声が聞こえた。甍からするりと滑り降りて、廂に立ったのはイチである。

「聞いているだけで胸焼けがした」

「な、なんだ、そなた盗み聞きか!」

 動揺のあまり噛みつくと、イチは眉根を寄せて高欄に浅く腰掛けた。しまった、と思う。たぶんイチはかさねの身を案じて、甍の上からうかがっていてくれたのだ。しかし今さら礼を言うのも難しく、ごにょごにょと口を閉じたり開いたりしていると、おもむろに両頬を摘ままれた。そのまま左右に容赦なく引っ張られる。

「にゃ!? にゃにをすりゅ!」

「しまりのない顔だと思って。あんたはあれか、おだてれば誰にでもへらへらするわけか」

 冷たく吐き捨て、イチはかさねから手を離した。けれど、その言い草はかさねも我慢ならない。

「誰でもとはなんじゃ!」

「へらへらしてるじゃねえか。言っとくけど、天帝は自分の花嫁に賛辞を尽くしているだけだ。おまえにじゃない」

「そんなこと、かさねとてわかっておるわ! 第一、かさねのどこがへらへらしておると!? かさねとて、かさねとて、ひよりどのの代わりを必死こいてつとめているというに……!」

(どうして)

 イチは急にかさねをなじることばかり言うのだろう。かさねだって皆のためにひよりの代わりを務めようとがんばっているのだから、少しくらいやさしく労ってくれてもよいのに。天帝のようなやさしさや甘やかさがほんの少しでもイチにあればよいのに。目頭が熱くなってきたので、かさねはふんと腕を組み、高欄に腰掛けるイチを意地悪く見下ろしてやった。

「そなたこそ、ちっとはひとにやさしくする術を覚えたほうがよいのでは? 天帝のほんの一握りだってそなたがやさしくしてくれるなら、かさねとて、へらへらでもにやにやでもするわ。少しは爪の垢を煎じて……」

 すぐにでも返ってくると思っていた悪口が思いのほか戻らず、かさねは口を閉じた。めずらしくイチは沈黙していた。高欄に腰掛けたまま、俯きがちにどこかよそを見ている。不意にどうしてか、かさねは今目の前の男を深く傷つけたことを理解した。

「いや、せ、煎じなくたってよいがな……」

 まちがえた。と思う。

 だってイチはやさしい。とても。

 悪いのは口だけで、ちゃんとかさねにも、かさね以外のものにもやさしい。知っている。そんなことはもう口にするまでもなくわかっている。

「あー……ええと、」

 考えあぐねて、かさねはそっとイチの手を取り上げた。振り払われなかったことにひとまず安堵して、両手を繋ぐ。

「かさねを案じてくれてありがとうな」

 繋いだ両手を引き寄せて、かさねはイチを仰ぐ。

「かさねは素直に言ったぞ。そなたも言いたいことがあるなら、素直に言えい。聞くから」

 イチの考えていることはかさねにはわからないほうが多い。なので、そういうときは素直に聞いてみることにしていた。俯きがちの横顔を見つめてしばらく待っていると、足元に落ちていた視線がふとかさねのほうへ上げられた。

「……天帝の花嫁になるのか、あんたも」

「へ?」

「なりたいのか」

 苦しげに細められた灰と金の眸に、かさねはいったい何を見出せばよかったのだろう。瞬きをすると、大きな腕に身体を引き寄せられた。はずみに緩く髪に挿された赤い花が廂に落ちる。いとおしむやさしさなど少しもない抱き締め方をイチはした。

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