四章 女神眠る地

四章 女神眠る地 1

 黒髪金眸。かさねのよく知る青年にそっくりの顔立ち。

 突如天から降り立った若者は、神々を総べる男神の名――天帝を名乗った。

「十月ぶりですね、ひより。いとしいそなたが輿入れる日が待ち遠しくてならなかった」

 ふわりと花が綻ぶように微笑むと、天帝はいまだ状況についていけずにいるかさねを抱き上げた。艶やかな黒袖が振られ、まばゆく輝く道が現れる。天帝の加護を受けた、おそらくは天道だろう。

「いらっしゃい。このまま天都へ連れていってあげましょう」

「い、いや、しかし、かさ……ひよりは花嫁行列をだな……」

 本来は三分の一ほど残っていた行程を一息に飛ばされそうになり、かさねはうろたえた。よもや天帝が自らひよりを迎えに来るとは思わなかった。今はまだかさねをひよりと思い込んでいるようだが、ぼろが出るとまずい。何しろかさねたちは天帝を欺いているのだ。

「それに、ひよりの従者たちもおりますし」

「ならば、一緒に運べばよいでしょう?」

 当惑気味の星和たちをよそに、かさねを抱えた天帝は天道のほうへ踏み出す。

「ちょっ、ひよりはまだ!」

「静かに」

 人差し指を口元にあてると、天帝は左腕をさっと翼に変えた。風が吹きすさび、見る間に景色が後方に過ぎ去る。天道や神道では時の流れが常とは異なる。再び目を開いたときには、かさねはきらびやかな御殿の前に天帝に抱えられて立っていた。白い花びらがどこからともなく舞う御殿では、鳥の姿をした采女や武官がせわしなく行き交っている。軒には花弁を模した釣灯籠が並び、天青の垂れ絹が翻ってはさらさらと涼しげな音を立てる。かさねはほうと息をのんだ。

「なんとうつくしい……」

「あなたをお迎えするために造らせた御殿です。お気に召しましたか?」

「とっても!」

 思わず素でうなずいてしまい、しまった、とかさねは顔をしかめる。ひよりはこのような手放しの感情表現はしなかったはずだ。

「いや、えー……、とてもすてきな御殿ですね」

 にこ、としとやかさを心がけて微笑むと、天帝はうれしそうに破顔した。

(この顔がどうにも居心地がわるい)

 何しろ天帝はイチ――イチの言では「壱烏」のほうに瓜二つなのだ。天の一族は天帝と莵道の娘が為した子を祖としているので道理ではあるのだが、イチそっくりの顔で普段のイチが絶対に見せないような表情をされるのは落ち着かない。まだ生まれたばかりの神であるためか、天帝は感情表現が素直で、そのくせ物腰は貴公子さながらの気品に満ちている。

「おいで、ひより。そなたの部屋はこちらです」

 一緒に呼び寄せた星和たちには目もくれず、天帝はかさねのこめかみに唇を寄せた。声にならない声を上げて、かさねは後ろに飛びのきかける。

(唇が触れっ……イチの!? いやイチではない!)

 混乱したまま、おおおう……と呻き、みるみる染まった両頬に手をあてる。目を瞬かせた天帝はくすりと微笑み、「かわいらしい方だ」と囁いた。普段、俵担ぎに甘んじている身としては、天変地異が起こった並みの刺激である。

(こやつをどうにかしてくれ!)

 ちょうど目の合ったイチに視線で訴えかけるが、あろうことか、ふいっと顔をそらされた。本当に関わりたくもないという顔だった。

(あの薄情者が……っ!)

 急にむかむかとしてきて、かさねは歯噛みする。

「ひより?」

「い、いえ、」

 そのとき、御殿のほうから白い鳥が飛んできて、天帝の前に舞い降りた。白い翼が水浅葱の狩衣に転じ、澄み切った美貌の少年が現れる。天帝、と呼びかけるその姿を見て、かさねは目を瞠らせる。

「小鳥! 小鳥ではないか」

「は?」

 両耳の上でみずらを結った少年はかさねを見ると、怪訝そうに眉をひそめた。

「このものは鳥の化生で、ヘキというのですよ。確かに見た目は『小鳥』そのものですけど」

「失礼な。これでもあなたのお世話係として十分働いております」

 つんと顔をそむけた少年は、孔雀姫の侍従にそっくりで、別人だとわかっていても、頬が緩んでしまう。鳥の一族は古くから天帝に仕えていたというから、たぶんこの碧というのが小鳥少年の祖なのだろう。

「碧。まずはひよりを清めておあげ。かように薄汚れてしまって、かわいそうだ」

「仰せのままに。ほかの人間たちはどうしますか」

「どうとでも、そのあたりに転がしておきなさい。――ああ」

 ふと何かに気付いた様子で、天帝が星和たちを振り返った。困惑する莵道の者たちの中のひとりに、迷いなく手を伸ばす。

「そなた」

 無造作に顎をつかまれたイチは、不快そうに目を眇めた。

「その金の目。わたしのことほぎの色ですね。そなたに与えた記憶はないのですけれど……」

 記憶を遡るように首を傾げた天帝は、やがてゆったりと苦笑した。

「困ったものです。ときどき、わたしの意志を介さずぽろぽろとあちこちに落としてしまう。この身体のぬしのように」

「それはそなたの身体ではないのか?」

 尋ねたかさねに、天帝は首を振った。

「わたしはあまねくこの地に通じるもの。すべてはわたしであり、わたしではない。けれどひよりはひとであるから、そなたの前ではひとの身体に降りているだけですよ」

「そういうもの……なのか」

「ただし、わたしがことほぎを与えたものでないと、わたしの力に耐えかねてすぐに器が壊れてしまう。この身体はよくもったけれど、やはりそろそろ使えなくなってしまいそうですね」

 蒼白く透き通った指を無為になぞって、天帝はイチを見た。

「半分のことほぎでは長く使えそうにないですが。ちょうどいい。次はそなたに降りてやってもよいですよ」

 まるでちょっと宿を貸してもらうくらいの気軽さで言う。天帝の理屈でいうなら、この地に生きとし生けるものはすべて天帝の一部であるので、好きに降りて構わないということかもしれない。しかし、器を壊されるほうはたまったものではない。

「待て、天て――」

「断る」

 金と灰の眸を冷たく眇めて、イチは吐き捨てた。

「……今、なんと?」

「断ると言った。俺の身体は俺のものだし、その前だって少なくともおまえのものじゃない。俺を自分のものだと言っていいのは、ひとりだけだ」

「それがわたしではないと?」

 ざわざわと天帝を取り巻く気が不穏な色を帯びる。あらぶる金の粒子は、春の嵐を思わせた。若くしなやかで、他方、暴力的で気まぐれだ。

「ちょっと待てい!」

 その場にみなぎる緊張が弾ける前に、かさねは両者の間に分け入った。

「そなたは見境なく喧嘩を売る癖をやめよと前にも言うたであろ!」

 すかさずイチの頭をはたいて己の背に押しやり、天帝を見上げる。

「すまぬ。この者はすでにひよりのものなのだ」

「ひよりの?」

(ちがう。ほんとうは壱烏のものであったのだ)

「そう、ひよりの。恋しいあなたに似たこの者を、そばに置くひよりの女心をわかっておくれ。な?」

(それがイチの誇りなのだ。誰にも踏み躙られたくない)

「この世にあるあまねくすべてのものは、あなたのものであると言うたな。ひよりはそなたの花嫁となるもの。ゆえ、祝いにひとつくらいは、ひよりにくださってもよかろう?」

 熱心に説き伏せると、天帝は考えこむように首をめぐらせてから、やがて微笑んだ。

「わかりました。あなたが望むなら、その人間はあなたにあげます。あなたはわたしのいとしい花嫁だから」

「ありがとう」

「碧」

 話を終えた天帝の興味はほかに移ったらしい。未練もなくイチから目を離すと、足元に控えていた鳥の少年を呼んだ。

「ひよりを清めの泉に」


 *


 案内された泉は、青々と清冽な気に包まれていた。中央に大きな樹木があり、網目状に張った根が水面越しに見て取れる。替えの衣を枝にかけて、碧少年がしずしずとかさねの前にかしずいた。

「お手伝いしましょう」

「いやいや、お、おきづかい、なく……!」

 このまま衣を剥きかねない少年に、かさねは慌てて手を振った。さすがに裸になれば腹の膨らみがないことがばれる。そも、ひとの目から見れば、かさねが妊娠していないことなどすぐにわかったが、天の者たちにはそういった細かい機微が見通せないらしい。星和曰く、かさねたちが蟻の顔のちがいがわからぬように、神の眼というのはそういうものらしい。

「この泉で身体を洗えばよいのだな?」

「はい。地上で生まれたひよりさまには、これより三日、身を清めていただく必要があります」

「つまり、婚姻は三日後か」

「ええ。潔斎したのち、ひよりさまには莵道をひらいていただきます」

「莵道を?」

 碧少年の話だと、天帝に嫁ぐことと莵道をひらくことは同義であるらしい。「それはどういう……」とかさねは首を捻ったが、碧少年の姿はすでにその場になかった。

「淡泊なところは、昔も今も変わらんのう」

 ひとりごちて、かさねは解いた帯と衣を樹にかけた。泉にそろりと爪先を浸す。水の冷たさに鳥肌が立ったが、ええい、とひと息に飛び込んでしまった。

「さむううううう! 心臓が縮むわ!」

 水面から勢いよく顔を出して悪態をつく。すると、木陰からくすくすとさざめくような笑い声が聞こえた。

「だ、だれじゃ……?」

 驚いてあたりを見回すが、人影らしきものはない。

(ここだ)

「どこじゃ」

(ここだ。あなたのすぐそば)

「見えぬ……」

 口をへの字に曲げて水面に目を落とすと、緩やかに風を受ける大樹の姿が映った。もしやと思って、かさねは泉の中心に立つ大樹を仰ぐ。ほのかな銀色の光をまとい、大樹はうなずくようにさざめいた。

「樹木神か? 星和の祖の……」

(ほう。わたしの挿し木の名だね、それは)

(かさねさま)

 樹木神とは異なる、鈴を転がしたような声が隣からした。声のぬしに思い当たって、かさねは目を瞠らせる。水面に映った大樹から現れたのは、失踪したはずのひよりだった。

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