三章 天帝 2

 鏡に映った白無垢姿の己を見て、かさねは深いため息をついた。

「ついに三度目ましてよのう……。ここまで来たら、四度目も五度目もありげというか」

「縁起が悪いことを言うな」

 対するイチの返しはいつもどおりそっけない。莵道の里で織られたという花嫁衣装は白糸と銀糸で花鳥の文様が描かれ、白無垢を彩っている。いつもどおりといえば、あまりにいつもどおりのイチの反応に、かさねは口をへの字に曲げた。

「イチ。そなた、もちっと賛辞とか言いよ。この麗しい花嫁を前にして、何も感じぬのか」

 胸を突き出してとくとくと訴えるが、なかなかいつもの悪口が返ってこない。瞬きをしてかさねはイチを見上げた。何故か不自然にそらされた視線にむむっとなり、反対側に回り込んで顔をのぞこうとする。否や首根っこをつかまれ、猫の子のように放られた。

「な、なにをするのだ!」

「うるさい」

「いったいなんなのだ。そなた、最近ちとおかしいぞ……?」

 くじけず近付こうと試みるが、おでこを押しやられて叶わない。しぶしぶかさねはイチから離れた。最近なでなでしたり、ぎゅうぎゅうしたり、結構打ち解けてきた気がしていたのに。何故だか知らんが、少し前から逆戻りだ。

「かさねさま」

 星和の声がかかって、出立の準備が済んだと告げられる。表情を引き締め、天幕の外に出たかさねを見て、莵道の者たちが一様にほうと息をついた。

「まさにひよりさまだ……」

「ひよりさまにしか見えない」

「わたしたちのひよりさまだ……」

「――かさねさま」

 少しばかり気分を害した様子で、星和はあえてかさねの名を呼び、輿に乗るよう促した。星和にとって、ひよりは唯一のひとであるから、同じものだと思われるのは少々心外なのだろう。垣間見えた星和の人間くささをむしろ快く思って、かさねは微笑んだ。それで一芝居打ってやるか、という気になり、つつましやかに目を伏せてみたりなどする。

「では皆さま、よろしくお頼み申しますね」

 落ち着いた声音で紡いだのは、ひよりそのもののような言葉だ。む、と眉をひそめた星和ににやりと笑い、かさねは衣を翻した。

「――というわけじゃ。輿担ぎたちは輿をゆらゆら揺らすでないぞ!」

 ほかの者たちを見渡せば、「お任せあれ!」と屈強な担ぎ手たちが力こぶを見せた。


 *


 花嫁行列は表向きつつがなく進んだ。天からの遣い鳥は定期的に寄越されたが、ひよりさまも天帝にお目にかかりたいと思っておいでです、と星和が代筆をして文を返しておく。最初こそ旅慣れなかった莵道の者たちも、ひよりの失踪を機に自分たちでなんとかせねば、という一体感のようなものが出てきて、協力をし合いながら道を進む。ちなみに、深窓の姫よろしく輿の中にいたはずのかさねといえば。

「いやあ、山の中は空気がうまい! うらうらと照る陽も気持ちよいのう!」

 輿の中の生活が三日と続かず、結局空の輿を担がせて、星和たちとともに歩いている。機嫌よくぴょんぴょんと跳ねるかさねを見やって星和が苦笑した。

「あなたも莵道の姫君とやらなのだろう? ずいぶんと旅慣れているが」

「三年前までかさねも屋敷の外へ出ることはほとんどなかったぞ。だが、いろいろあってのう。今では自分で歩いているほうがずっと気が楽だ」

「不思議な御方だな、あなたは」

 セワの若葉から燦々と射す光が、足元の山道に落ちている。枝から転げかけた青虫をそっと葉に戻してやりつつ、星和は呟いた。

「ひよりも何がどうということではないのに、そこにいるだけで不思議とひとが従った。ひよりが凪いだ湖なら、あなたは台風の目だな、かさねさま。気付くと周りが巻き込まれてしまう」

「なんぞ星和。褒めているというより貶しているように聞こえるが」

「ありがたい、という意味だ。ひよりがいなくなって、皆動揺していた。ここまで進んでこられたのはかさねさまのおかげだ」

 かさねを見つめる星和の眼差しはやさしい。最初こそ異形の姿に驚いたものの、今ではこの男が意外に表情豊かであることや細やかな感情を持っていることがかさねにもわかりつつある。

 莵道を発って十日以上が経つ。すでに三分の二の行程まで来ていたが、未だにひよりからの音沙汰はない。

「星和。ひとつ心配をしていることがあるのだが」

「なんだ?」

「万一、このまま行列が天都にたどりついてしまったとして。かさねが天帝に会ってしまうのはさすがにまずかろう?」

 ひよりの話では、天帝とひよりは九月前に一度通じている。加えてひよりは今、天帝の子を胎に宿している。いくら姿かたちが瓜二つといえど、面と向かえばさすがにすべてが露見してしまうだろう。

「それは心配ない」

 しかし、こたえる星和は力強かった。

「天帝とかさねさまが会うことがないよう、ぎりぎりまで時間を稼ぐ。花嫁行列が近付いていることは遣い鳥を通して知っているだろうから、天帝も文句は言うまい」

「そうか」

 ほっと胸を撫で下ろし、かさねはうなずいた。ところどころ若木の張り出した道を星和と並んで歩く。春の野山は若葉が萌え、芽吹きかけの淡い緑が美しい。浅瀬に映った新緑に目を細め、かさねは山道に沿って細く伸びた行列を見渡した。前方で激しく羽ばたく鳥の羽音が打ち鳴ったのはそのときだ。星和の表情にぴりりと緊張が走る。

「星和! 左だ」

 後方の守りを受け持っていたイチが声を張る。うららかに春の陽に照らされていた左方の道が不意にかゆらぐ。襞が一枚めくれるようにそこに暗い影が忍び込んだ。急激にあたりの温度が凍てついていく。

「皆、そこから離れろ!」

 腰に佩いた刀を抜いて、星和が前へ飛び出る。大きく膨らんだ影の一端が前方で櫃を担いでいた男たちのほうへ伸びた。ひっと悲鳴を上げた男たちがあとずさると、影に触れた櫃が砂城のごとく霧散する。

「境界が揺らいでいる! のみこまれるぞ!」

 星和が逃げ惑う男たちの背を押して、影とは反対の方向へ誘導する。おそらくかさねたちの世でいう「道を外れる」と似た現象が起きている。道に生まれた綻びから、異界のものが入り込んだのだ。櫃をのみこんだ影は先ほど見たときよりも確かな輪郭をもって、星和に襲い掛かる。刀で受けるが、触れたそばから刀も消失した。

「星和!」

 思いつくことがあって、かさねはさっと袖をまくった。時を隔てた世ゆえ、できるかはわからないが、かさねが今莵道をひらき直せば、異界のものを追い出すことができるのではないか。ためらいは一瞬だった。ぐっと唇を引き結んで、天に腕を掲げようとする。それを後ろから伸びた手がつかんで止めた。

「ひらくな」

 制止をかけるイチの眼差しは鋭かった。

「だが!」

「次ひらいたらどうなるかわからない。孔雀姫に言われたことを忘れたのか。それでもひらく気なら、この腕はへし折る」

 かさねの腕をつかんだ手は固く、緩むことはない。火花の散るような視線の応酬があった。けれど、力ではかさねは到底イチにかなわない。悔しさから歯軋りして、手を下ろした。

「おまえはここで待ってろ。俺がどうにかする」

 かさねを護衛たちのほうへ預け、イチは刀を抜いた。斜面を滑り降りて、ひとり残った星和のもとへ向かう。鞭がしなるように星和へ伸びた影をめがけて、イチは刀を投擲した。すぐに影に飲み込まれるが、それでイチの存在に気付いたらしい。星和のほうへ伸ばしていた手をするすると縮め、ちょうど地面に降り立ったイチを見下ろす。そのときにはイチは口琴を咥えていた。しずめの笛の音が鳴る――。

 きあああああああ……

 正確には、その一瞬前だった。

 大きく膨らんだ影が咆哮を吐き出してかき消える。突如、天上から落ちた雷が影を貫いたのだった。吹きかけの口琴を咥えたまま、イチは空から落ちてきた人影を見つめる。それは男だった。あるいは男のかたちをした何ものかだった。黒の衣をひらりと翻して地に降りた男は物珍しげにあたりを見回す。金の眼差しが一点、かさねの前で止まった。

「見つけた。――わたしのいとしい花嫁」

 玲瓏たる声が囁かれ、気付けば、かさねは男に抱きすくめられていた。頬を擦り寄せ、それでもまだ足りないとばかりに背中をきつくかき抱かれる。

「よくいらした。あなたが道中、危険な目に遭われているのを見つけて、ついここまで飛んできてしまいました」

「そ、それはかたじけない。かたじけないが、そなたはどこの誰だ……?」

 現れるなり熱烈な歓迎を振りまく男に若干腰が引けて、かさねはぐいぐいとくっついてくる胸を両手で押した。それでやっと男の顔を正面から見上げる。

「な……」

 ぽかんと口を開いたまま、かさねは声を失した。

 黒髪に金の双眸、恐ろしく整った顔立ち。これはあまりに見覚えがある――。瞬きを繰り返すばかりのかさねに、男は可憐に微笑みかけた。

「お忘れになられてしまった? わたしはテンテイ。天よりわたしの花嫁を迎えに来たのですよ」

 壱烏……。

 呻くイチの声が背後でこぼれて消えた。

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