二章 ひよりと星和 3
川のせせらぎにさらしていた襦袢をぱんと伸ばして、水気を切る。早朝、川で自分のぶんの洗濯を済ませたかさねは、枝と枝との間に張った蔓に洗った衣をかけた。旅のさなかにこうした水場は貴重だ。
(水浴びもそうだが、下着の洗濯とかな……)
乙女にとっては重要な悩みなのである。
星和が言っていた出立まで、まだ時間がある。襦袢や腰巻を蔓にかけ終えて、ひとりうなずいていると、背後の茂みをかき分けるひとの気配がした。両腕に水筒を抱えて現れた男をみとめ、かさねはしばし絶句する。
「なっ、なにゆえ、そなた、」
「ああ、もう起きてたのか。あんた」
風にはためく白襦袢たちをいぶかしげに見やってから、イチは川辺にかがんで空の水筒に水を足していく。きゅっと栓を閉める音で、ようやく硬直が解けた。
「そなた! せめてやってくるならかさねが水浴びしているときとかにせいよ!」
「はあ?」
何ゆえ朝から下着の大見世をやらなくてはならんのか……とぼやきつつ、今さら隠すのも癪だったので、かさねはイチの隣にかがんだ。一緒に水筒に水を入れながら、あくびをしている男を見上げる。
「なんだ。そなた、眠れておらんのか」
「べつに」
「ほおう?」
ちら、と横からのぞくと、わずらわしげに視線をそらされたので、逆側からのぞきこむ。イチは盛大なため息をついた。
「遊んでるのかあんたは」
「べえっつにいー? そなたはたいてい何も言わんから、かさねが案じてやっているだけよ」
満杯にした水筒に栓をして、かさねはそれを横に置いた。手ですくった水を飲んでいるイチは、どことなく気だるげにも見える。
「大地女神が妙なことしていたではないか。そなた、ほんに大事ないのか?」
「べつに」
「『べつに』は飽きたわ! 心臓は一度返してもらっておるのだろうな? ちゃんと心音はするか?」
男の衿を引っ張って、左胸のあたりに耳をあてる。注意深く耳を澄ませていると、とくとくと清流のような微かな鼓動が聞こえてきて、ほっと息をついた。それは思いのほか心が安らかになるやさしい音だった。
「んん? 何やらちまっと音がはやく……」
直後、ぺいっと首根っこをつかんで放られた。野良猫にでもするような、容赦のない放りようである。さすがに転びはしなかったが、軽く尻もちをつき、かさねは顔を振り上げる。
「いっ、いきなり何をするか、そなた!」
「うるさい。俺の許可なく俺に勝手にひっつくな」
「はああ?」
いったいいつからこの男に触るのは許可制になったのだろう。むぅ、としかめ面をしたかさねをよそに、イチは水を入れ終えた水筒を抱えて立ち上がった。尻もちをついたまま、ぶつぶつ文句を言っていると、いちおう手を差し出してきたので、少し機嫌を直してつかむ。梢の間から射す朝陽がまばゆい。逆光になってしまった男の顔をうかがおうとすると、火急を知らせる銅鑼が突如響き渡った。
「何かあったのか?」
「――戻るぞ」
こういうときのイチは本当にすばやい。ひょいと肩に担がれそうになり、「ま、待て、こしまきが……じゅばんが……」とかさねは微妙に恥じらう乙女のそぶりを見せた。しかし、かさねの恥じらいはイチのほうにはさっぱり届かなかったらしい。
「あとにしろ」
「あああああ、かさねのこしまき! 莵道家の恥じゃあああああ」
燦々と降り注ぐ朝日を浴びてはためく下着たちを置き去りに、天幕へ戻る。銅鑼の音に気付いたのだろう、莵道の者たちも皆起き出して集まっていた。しかし肝心のひよりの姿が見当たらない。ひよりの休んでいた天幕では、紙を握り締める星和がひとりたたずむばかりだ。
「星和。どうしたのだ? ひよりどのは……?」
「――ひよりはいない。いなくなった」
力なく首を振って、星和は手にしていた文をかさねにも差し出す。すでに周りの者たちは話を聞かされたあとらしい。これからどうすればよいのだ……と嘆く声が口々に聞こえる。文には端正な水茎で、短い文章が綴られていた。
『樹木神への道がひらきました。
月がひとつめぐるまでには必ず戻ります。
花嫁行列は続けて』
「――なんだこれは? まるで意味がわからぬぞ」
「ああ」
眉根を寄せたかさねに、星和は複雑そうな表情でうなずく。中をのぞくと、ひよりが着ていた花嫁衣裳が抜け殻のように残され、調度や夜具のたぐいもそのままにしてあった。だが、ひよりの首にかかっていた茜色の口琴が見当たらない。
「見張りは? ひよりどのの天幕の前には夜番がいたはずでは」
「朝方、俺が代わろうとしたときには気を失っていた。ひよりに呼ばれて、この文を託された……そのあとのことは覚えていないらしい」
星和の隣で申し訳なさそうに俯くのが、どうやら夜番をしていた男らしい。そんな、と呻き、かさねはほかの者たちと同様、花嫁を失った天幕で立ち尽くす。
「これは少し遅かったようだな」
場違いにのんびりした声がかかったのはそのときだった。かすれがちな、艶めいた声には聞き覚えがある。しかし、まさか――。信じられない思いで振り返ったかさねの前で、大ぶりの太刀が地面に下ろされた。衝撃で細かな草の葉があたりに舞う。
「口琴がここにあると聞いて来たのだが。かさねどの。イチ。よもやかような場所でそなたらと再会するとはな」
「……大地将軍・
低く呟いたかさねに、「よくよくそなたとは縁があるようだ」と燐圭は肩をすくめた。
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