二章 ひよりと星和 2
ひよりを乗せた輿は太陽が山をのぼるとともに、莵道の屋敷を出発した。頭巾を目深にかぶったかさねは朱の切袴をはいて、使用人たちとともに歩く。眸はともかく、かさねの髪の色は遠目から見ても目立ってしまうため、隠す必要があった。
峠を越え、村の外側に出るときに、ひよりが「莵道」を開いた。ひよりにとってこれは二度目の「莵道」になるらしい。里から天都まではだいたい二十日ほどの道のりになると聞いた。
「しかしなんというか、途中に宿も茶屋も見当たん道というのも、不思議なかんじよのう」
平坦に伸びた道は美しく整えられているものの、木道に慣れたかさねには殺風景に思える。隣を歩くイチがああ、と応じた。
「俺たちの時代のような、頻繁なひとの行き来はないみたいだな。ひよりの話だと、木道も危険が多いようだし」
「そこがようわからんのだ。かさねはなんとなく、天帝が降り立つと同時に四道が生まれたように思うていたが、そうではないらしい。天帝があらわれる前は、いったいこの世はいかなる神がどのように治めておったのだろう」
「――樹木神さ」
後ろを歩いていた星和がおもむろに話に加わった。行列の中でもひときわ長身の星和はどこにいてもよく目立つ。最初のうちはひよりの輿に寄り添っていたが、今は全体を見渡すためか、少し下がってきていた。
「樹木神……木道の守護神か」
「この地を長く治めていたのは、俺の祖――樹木神だ。天帝は樹木神の枝になった卵が三百年をかけて孵ったものだ。卵の孵化を待って、樹木神はこの地を天帝に譲り渡した」
「では、樹木神は今はどこへいらっしゃるのだ?」
「あの方の根はこの国の隅々に残っている。だからどこにでもいるとも言えるし、いないとも言える。あなたがたが『木道』と呼ぶものそれ自体があの方の身体なんだ」
「そう……だったのか」
「樹木神は天帝にこの地を譲り渡すとき、いくつかの挿し木に魂をこめた。それが俺たち樹木神の化生だ。今はもう動けないあの方に代わって、この地を守る役目がある」
星和の口調は静かでこそあるものの、揺るぎない。その声音だけで、星和が樹木神から継いだ役目に誇りを抱いていることが察せられた。
「すごいな」
気付けば、かさねは呟いていた。瞬きをした星和にもう一度、「すごい」と今度は確かな口調で言う。
「千年後の世でも、木道はかさねたちを魔のものから守ってくれているのだ。なんと大きく深い存在であろう」
素直に思ったことを口にすると、星和は不意に少年のように顔を綻ばせた。たくさんのいぼのせいで、表情が読み取りづらい男であったけれど、今はうれしそうに頬を染めている。
「ありがとう。祖のことに少しでも想いをかけてくれる方がいるのはうれしい」
風が吹き渡り、星和の砂色の髪を揺らす。林のあいまから射した落陽に目を細め、「今日はこのあたりで休もう」と星和は一向に告げた。
星和の指示で、瞬く間に野宿のための天幕が張られ、火が焚かれた。持ってきた食料に加え、近くに流れる川で採った魚を串に刺して炙る。
「ふおお、うーまそうだのう」
魚から染み出た脂が滴るさまに涎を垂らしていると、ひよりが呼んでいると侍女のひとりから言伝を受けた。袴を裁いて、ひよりの休む天幕へ向かう。中では敷物の上に坐したひよりが足を洗っていた。
「かさねさま。一日歩き通しで疲れませんでしたか」
「そなたこそ」
尋ねたひよりの顔色のほうがよほど悪いように見え、かさねは不安になった。勧められるまま敷布に腰を落ち着け、ひよりを見やる。
「平気か? 輿の移動は慣れんと疲れるからの」
かつて新月山の狐に嫁ぐとき、ぐらぐらと揺れる輿で気分を悪くした自分を思い出す。……あのときは担ぎ手のひとり――イチが慣れていなかったせいで、ひどい思いをした。
「ちがうのです。これはわたくしの身体の問題」
水の湛えられた盥を侍女に下げさせ、ひよりは淡い苦笑を浮かべた。
「そなた、何か病でも抱えているのか?」
「いいえ。ただ、わたくしの胎にはやや子がおりますゆえ」
いとおしむように下腹を撫でるひよりに、かさねは思わず絶句した。
「赤子!? だ、だがそなたは……」
ひよりは嫁入り前の乙女である。しかも嫁ぎ先は、この地の神々を総べる天帝ときた。何から突っ込むべきか、果たして突っ込んでよいのか、しどろもどろになって頬を染め、かさねは口を閉ざす。
(つまり、ええと……、要は誰の子なのだ!?)
かさねの疑問を遅れてひよりも察したらしい。目を丸くしてから、急にころころと笑い出した。
「かさねさまの案じるようなことは何もありませんよ。胎の子は九月前のおとないで、天帝がくださったものです」
「こっ、婚姻前にか? つまり、その、性こ……」
皆まで言えず、かさねは口を手で覆った。厚い婚礼衣装を重ねているせいですぐには気付けなかったが、こうしてくつろいでいる姿を見ると、ひよりの下腹には確かな膨らみがある。九月前のおとないで、という話から考えるに、臨月が近いはずだ。
「身重で二十日の旅はつらかろう。このこと、星和や皆は?」
「もちろん知っています。天帝はおとないの折、十月後に天都に輿入れをするよう仰いました。わたくしが莵道をひらいたのは、これまでに二度。みたび道をひらいたとき、天との婚姻は成るのだとあの方は言っておりましたね」
「婚姻が成る? それはいったいどういう意味じゃ?」
「天帝は多くを教えてくださらないので……」
肩をすくめ、ひよりは濡らした手巾で己の首から胸にかけてを清めていく。先ほど人払いをしたのか、ひよりを世話する侍女は中にはいなかった。手伝おう、と言って手巾を受け取る。単をくつろげると、痩せた白い背中に薄紅の痣がぽつぽつと花開いていた。それはひよりの背から肩、そして腕に向かって広がっている。
「この痣は天帝の?」
「きのうまでは鱗のようだったのですが。二度目の莵道をひらいたあと、このように。星和には、天帝の誓約のしるしなのだと言われました」
(……やはり)
知らず、かさねは己の手首を袖の上から握り締めた。ここに至れば、もはや認めざるを得ない。同じ状況、同じ痣。
(孔雀姫の言うとおり、これは『天帝の花嫁』のしるしなのだ。まことに)
「……怖くはないのか」
気付けば、絞り出すような声でかさねは目の前の少女に問うていた。ひよりは十七、今のかさねと同い年である。その身で天帝の花嫁と名指され、神の子どもを身ごもるのはいかほどのことだろう。ましてひよりには、星和という想い人がいるようなのに。かさねには想像もつかなかった。
「こわい?」
「天帝の花嫁なぞ、ひとの身には荷が重すぎる。いったい何が起こるのか、自分が自分でなくなってしまったらどうしようとか……考えぬのか」
「確かに、何故わたくしなのかと泣いた晩はありましたが」
微笑み、ひよりは衿を直した。
「ひよりの魂の在りかは星和が知っておりますので。今はもう怖くはありません」
*
セワの若木の上で、イチは星の瞬く夜空を見上げていた。火番を何人か残して、ほかの者は早々に寝入ったらしい。イチのように旅慣れた者ならばともかく、一行は村の外に出るのも初めてという連中ばかりであったから、疲れているのだろう。
「星の位置はちっとも変わらねえな。昔も」
癖で首にかかった口琴をいじりつつ、幹に頭をもたせる。珍しく、イチは迷っていた。
――どうするべきか、答えが見つからない。何が正しいのかがわからない。
こんなことは今までなかった。数多の選択肢から、効率的でより危険が少ない道を選ぶとき、イチの頭の物差しが揺らぐことはなかったから。しばらく無為に視線をさまよわせてから、火番を代わる星和の姿を視界端にみとめて、イチは大きく息をつく。そして野生の獣を思わせる身のこなしでセワの樹から滑り降りた。
音を立てないよう細心の注意を払って歩き、ひよりの休む天幕までたどりつく。夜陰にまぎれて近付くと、気付く間を与えず、護衛を昏倒させる。くずおれた男を天幕の前に座る形で置いておき、イチは中に忍び入った。
ひよりは敷布の上で、夜着に包まれて眠っている。息をひそめてひよりの前にかがむと、イチは枕元に置かれた茜色の口琴に手を伸ばした。花紋の描かれた艶やかな木膚に指が触れる――瞬間、紐を強く引かれた。
「婚姻前のおなごの寝所に忍び入るのはどうかと思いますよ、盗人さん」
さやかな声が下から聞こえて、イチは眸を眇める。口琴を胸に引き寄せたひよりが暗闇からイチをうかがっていた。
「たぬき寝入りか」
「あいにく、考え事が多くて毎晩なかなか寝付けません」
言葉のわりに邪気なくわらい、ひよりは身を起こした。本気で奪うつもりなら、ひよりに感づかれた時点で昏倒させるべきだった。反応を遅らせた自分に舌打ちして、イチは仕方なく姫君に向き直る。
「月がひとめぐりするまで待って、と言いました。わたくしの言葉を信じられませんでしたか?」
「こっちもいろいろ切羽詰まってるんだ。あんたに途中で気が変わられると困る」
話しながら、けれどこの女は気を変えたりしない、とイチは不思議と確信していた。刻限まで待てば、必ず約束どおり口琴をかさねに渡してくれるだろう。それでもイチは迷っていた。花嫁行列に付き合うということは、ひよりの嫁入りを見届けることにほかならない。最初はイチもそうすべきだと思った。ひよりの身に起きることを知れば、この先かさねに降りかかる事態にも予想がつくからだ。けれど、途中で迷いが生じた。
(――……もし)
ひよりが五体満足で、つつがなく一生を終えられたのならかまわない。
けれど。
(もしこれから、ひよりに起きるのがあまりに凄惨な末路だったら)
それを目の当たりにしたかさねは己のさだめに絶望する。淡い懸念は、イチに思いのほか強い焦燥を抱かせた。
(……みたくない)
(あいつが泣くのはもう、)
(見たくない)
こうすべき、でも、こうあるべき、でもない唐突に降ってわいた私情は、イチをひどくかき乱した。だから、こんなわけがわからない、短絡的な行動を取っている。
「わたくしは最初、あの娘がそなたのために口琴を欲しているように見えたのですけれど。本当はなんだか少し、ちがうようですね」
「……あいつは天帝の花嫁なんだ。千年後の」
苦しまぎれにイチは吐き出した。
「俺たちは花嫁のさだめを知るために旅に出た。本当に知らないのか、婚姻のこと。天帝に嫁いだとき、あんたの身に何が起きるのか、聞かされていないのか」
「……あなたは……」
何かを言いかけて、ひよりは一度口を閉ざした。
「残念ながらわたくしもまた、己のさだめを模索しているさなかなのです。天帝をこの地に産み落とした樹木神にまみえればもしやと思いましたが、未だかの神への道はひらかぬまま。月がひとめぐりするまでには、必ず会えるはずなのですが……」
話に聞き入るイチに目を移し、近う、とひよりは手招きをした。少し考えてから膝を進めると、頭の上に娘の手のひらが乗る。イチがひとに触れられるのを許すことは珍しい。自分でも意外なくらいにたやすく、ひよりは水のような柔さで、イチの内側へ踏み入ってきたのだった。
「そなたはあの娘を好いているのですね」
「……好く?」
はじめて聞く言葉を耳にしたみたいに、イチは眉根を寄せた。
「ちがうのですか?」
いまひとつ反応の鈍いイチにじれた様子で、ひよりは苦笑する。
「いやだわ、そなたは星和以上の朴念仁なのかも」
「どういう意味だよ」
「この様子では、かさねさまは大変ですこと。――ほら、もうすぐ夜番が星和と代わります。気付かれないうちに外へ出て」
月の位置を確認して、ひよりは天幕から去るようイチの肩を押した。離れ際に、少し悪戯めいた顔をしたひよりが、指先でそっとイチの唇に触れる。
「今晩のことはわたくしとそなただけの秘密です。星和が妬くから」
「……あんたと星和って」
「野暮なことを聞かないで」
ささめくような笑い声がして、天幕が閉じられる。結局ひよりに押し切られてしまった気もしつつ、イチは暗い道をひとり歩く。
「好き、か」
あの口ぶりからすると、ひよりと星和はどうやら好き合った者同士らしい。ひよりが重いさだめに屈せずにいられるのは、星和がそばにいるからだろうか。
草を鳴らして人気のない草原に立ち、イチは星空を仰いだ。イチの「好き」は長い間ずっと壱烏ひとりに向けられていた。というか、壱烏以外、愛したことがない。そういう絶対に代替の効かない「唯一」がイチにとっての壱烏で、確かに、壱烏の隣にいた頃はこんな風に自分で自分のことがわからないなんて不安はなかったように思う。
(けど、今は?)
泣かれそうになると無性に落ち着かなくなって、できれば笑っていてほしいと願うのに、その術がイチにはまるでわからない。そういう安心とは真逆の――。そこまで考えて、ふいに別のことに思い至り、イチは目を伏せた。ああ、でも、そうか。
(あいつが天帝の花嫁だというなら)
(……一生俺の手には入らない)
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