二章 ひよりと星和
二章 ひよりと星和 1
「それでは、そなたらは千年後の金烏国からこの地へ参ったと?」
かさねが訳を話すと、莵道ひよりは眉をひそめた。大地女神によって飛ばされたのは、千年前の莵道で間違いないらしい。かさねも初めこそまさか、と思ったが、外の様相は莵道でまちがいないのに、屋敷に知る顔はいなかった。試しに、ひよりに今の年号を聞いてみると、かさねがまるで知らないものを答えた。極めつけは、ひよりの口から語られた天帝への輿入れである。
「けれど、いったい何のために?」
「……それなのだが」
「――かさね」
どう説明したものか、と考えあぐねたかさねに、イチがぴしゃりと制止をかける。冷ややかな眼差しは、余計なことは言うなとでも言いたげだ。いつもなら食ってかかるところであるものの、こたびばかりはイチの命がかかった一件である。ためらった末、かさねは一度口を閉ざす。そのとき、「ひより」と部屋の外から低い男の声がかかった。
「
半蔀をくぐって現れたのは、びっくりするほど長身の男だった。青の衣で隠してはいるが、顔や手首に木肌にも似たいぼが見える。異形めいた男の登場に、かさねは身を固くする。しかし男に向けるひよりの眼差しはやさしい。星和はかさねたちへ一瞥を寄越すと、ひよりのかたわらにかがんだ。
「この者たちは?」
「ひよりの客人です。何やら訳ありのようですから、この部屋にひとを近づけぬようにしてください」
「それは構わんが。いったいどこから入り込んだ? それにやたらに……臭い」
かさねにちらと視線をやって、星和は迷惑そうに鼻をつまんだ。
(臭い……!? 乙女に臭いとはいかに!?)
袖に鼻を押し当ててすんすんとにおいを嗅いでみていると、「一度黄泉に落ちたせいだろ」とイチが小声で言って、顔を歪めた。つまり、イチとかさねは今、黄泉の瘴気まみれのひどい状態であるらしい。よもや初対面の男に臭いと呟かれるとは思わず、しょんぼりと肩を落としていると、「星和」とたしなめるようにひよりが言った。
「訳ありのようだと言ったでしょう。ここはひよりに任せて」
「しかしひよりの御身が……」
「星和」
再度の呼びかけに、星和は息を吐き出した。
「わかった。清めの香を用意しておく。何かあったら呼べ」
存外あっさりと身を引くと、かさねとイチとを順々に見てから部屋を出る。「驚かれたでしょう」と襖が閉まったのを見届けて、ひよりが苦笑した。
「セワの大樹より生まれし化生なのです。見た目はあのようですが、心根はやさしいものだから、恐れないで」
「うむ……。しかしそなた、こうもやすやすひと払いなどしてよかったのか?」
何しろ天井から突然落ちてきたうえ、千年前からやってきた、などとのたもうているかさねとイチである。武術の心得も持たなそうな普通の姫であったが、怖くないのか。尋ねたかさねに、ひよりはゆるりと首を振った。
「邪心があるものとそうでないものは、すぐにわかります。そなたらは本当に困っているようであったから、力になりたい。そう思ったまでのこと」
「さようか」
曇りのない眼差しに、かさねの腹も据わった。イチをうかがうと、好きにしろ、とでもいうように嘆息される。
「何のために、と聞かれたな。かさねとこやつは大地女神に乞われて、かの女神の『宝』を探しに参ったのだ。女神はどうやら、そなたの首にかかっている口琴が欲しいらしい」
「大地、女神……ですか」
「まだ今の世にはあらわれていないのかもしれんな。地下の国――黄泉を総べる女神じゃ」
「黄泉にはまだ総べる神はいなかったはず。天帝があらわれ、各地へ神の鎮座が始まっていますが、まだ空白の土地は多いのですよ」
「空白……、まさか木道や地道もないのか?」
「樹木神の加護を受けた道ならば、ありますが。それ以外は」
思い当たらない、というように、ひよりは首を振った。改めて時の隔たった場所に来てしまったのだという気持ちを強くする。千年前のこの時代は、かさねの生きている世には当たり前にあった四道すらまだ存在していないらしい。
「ただ、木道にも守りの綻びは多い。ともすれば、異界に引きずり込まれる危険が隣り合わせなのです。天都への道中を案じて、天帝は莵道をひらいてくださったのですよ」
そこまで話してから、「口琴のお話でしたね」とひよりは首にかかった茜色のそれを引き寄せた。指先ほどの木片でつくられた口琴は、外から射すうららかな春陽に淡く光った。一度掲げ見せたそれを、しかしひよりは己の手のひらで固く包み込んだ。
「心苦しい限りですが、今、あなたがたに口琴を渡すことはできません」
「――っ」
言葉を発することもできずに、かさねは唇を噛む。乞えば差し出してもらえるのでは、と虫のいいことを考え始めていた自分を鈍器で殴られた気分になった。当たり前だ。ものにはそれにまつわる想いがある。イチだとて、いきなり現れた見ず知らずの相手に、壱烏の口琴は渡さないだろう。
「ですが」
萎れかけたかさねに、ひよりは言葉を継いだ。
「もしも、ひとつ月がめぐるまで待っていただけるというのなら、お渡ししましょう。この口琴は、ひよりにとってもとても大事な品。代わりを作るにも、月がひとめぐりするまで時がかかるのです」
「ま、まことか……! 月がめぐるまで待てば、いただくことができる?」
「ええ。お約束します」
女神が示した期限もまた、月がひとめぐりするまでだ。ぎりぎりだが、何とか間に合う。全身からほっと力が抜けて、かさねはその場にへたりこんでしまった。かたじけない、と泣き出しそうな思いで、ひよりの手を取る。
「その口琴を持って帰らねば、ほんに……ほんに大変だったのじゃ。そなたはかさねの恩人じゃ」
「礼には及びません。その御姿、そなたは莵道のすえにあたる方のようですし。これも何かの縁。ひよりにできることなら、喜んで力になりましょう」
半べそをかいたかさねの眦に懐紙をあて、ひよりは微笑んだ。
星和、と外に控えていた樹木の化生を呼ぶ。
「至急、ふたりぶんの旅の支度を。それから、こたびの花嫁行列に、わたくしの側付きをふたり加える由、父上に伝えなさい」
「……いいのか?」
幾分警戒をこめた目つきでかさねとイチを見やり、星和はひよりに問うた。
「ひよりを信じなさい」
少し背伸びをして、ひよりがいぼのできた星和の頬に触れる。手をあてられると、緑褐色の眸が心地よさげに細まった。それで、ふたりの間では問答は終わったらしい。星和は顎を引いて、襖を開いた。
「ひよりどの。側付きとは?」
「口琴ができあがるまで、ここでお待ちいただければよかったのですが。あいにくひよりはこれから天帝へ嫁ぐ身。ゆえ、天都への花嫁道中に、あなたがたにもついてきてほしいのです」
「なるほど」
ひよりが纏った花嫁衣裳の意味を悟って、かさねはうなずいた。
「あいわかった。――そなたもそれでよいな? イチ」
「……ああ」
珍しく反論をせず、イチは星和のほうへ向けていた視線を戻した。
旅支度を整えてもらうため、かさねとイチは一度、星和に連れられてひよりの部屋を出た。内廊を行き交う使用人たちが時折、見慣れない旅装の二人組にいぶかしげな視線をやったが、前に星和が歩いていることに気付くと、声をかけずに目礼だけを寄越す。樹木の化生と聞いたが、星和はこの莵道屋敷で確かな信頼を寄せられているらしい。
「星和どの、」
「星和でいい」
「星和はひよりどのとはどういう……」
まだ少しのやり取りを見ただけだが、ひよりと星和の間には確かな絆が築かれているようだった。ともすれば恋人とみまごうほどの。さすがにはばかりなく聞くことはできずに口ごもったかさねに、星和は緑褐色の眸を弓なりに細めた。いぼだらけの異形ゆえ、恐ろしさが先だったが、眼差しは思いのほかやさしい。
「ひよりは枯れかけていた俺を救ってくれた恩人だ。ひよりが三つのときから、ずっとそばにいる」
「ひよりどのは今、おいくつなのだ?」
「十七になる。天帝から妻乞いのおとないがあったのが九月前。この国を総べる神に選ばれたとあって、莵道ではずっと祭りのにぎわいだ」
「そなたも……祝福しておる?」
「ひよりがしあわせになれるなら、俺もうれしい」
少しさみしそうに微笑むと、星和は下働きの娘に言って、旅用の新しい衣や草鞋を用意させた。衣の支給は正直、ありがたかった。黄泉に落ちるまでの道中、山越えをしたせいで、イチもかさねも泥まみれになっていたのだ。
「外に井戸があるから、好きに使うといい。ほかに必要なものはこちらで用意しておく」
「わかった。ありがとう」
「あとはこれを」
ふたりぶんの衣の上に、清めの香を乗せられる。やはり臭いのか……とうなだれつつ、かさねはすべてありがたく受け取っておくことにした。出立前であるためか、屋敷はどことなく慌ただしい。別の使用人に呼ばれた星和を見送り、かさねは隣に立つイチを見上げた。
「なんだよ」
「いや、そなたにしては珍しく口のひとつも挟まなかったなあと思うて」
「挟んだところでおまえはおまえの我を通すじゃねえか。六海でそれはもう諦めた」
それに、とイチはかさねの腕からふたりぶんの衣を取り上げ、空の白み始めた莵道を見渡す。なだらかな新月山の稜線は千年前もまるで変わらない。イチの頬を照らす陽のまばゆさもまた。
「ひよりの話が本当なら、俺たちは天帝への輿入れに立ち会えるってことになる。書物をあたるより、樹木老神に聞くよりずっとてっとり早い。天帝の花嫁となる娘のさだめがわかるはずだ」
言われてはじめて、もともとはそれを求めて旅に出たのだということを思い出す。大地女神の邪魔が入ってしまったが、確かにイチの言うとおり、今の状況は利用すべきものなのだろう。
(これからひよりどのに起こることは、すなわちかさねに起こることなのだ)
考えたとたん、大地女神に心臓を握られたときのような、底無しの暗闇が目の前に落ちた。そうだな、と言葉少なにうなずくと、ふいにイチがかさねのほうを振り返った。
「……やっぱり、俺がひよりから口琴を盗んできてやろうか」
「は?」
「帰るか。さっさと」
そっと吐き出された言葉に、かさねは目を丸くする。
「めずらしい」
いつも筋が通ったことを言うイチにしては、惑うような、気遣うような、感情が見え隠れする言いぶりだったのだ。なんだよ、と頬を歪めた男を見上げ、かさねは首を振った。
「真実を探そう、イチ。そのためにかさねはそなたと旅立ったのだから」
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