一章 緑嶺へ 4
さらさら、さらさらと。大地の下で流れる水の音が聞こえる。それから濃い水のにおい。遠ざかっていた五感が徐々に戻ってきて、かさねは目を開いた。
「ここは……」
身を起こそうとして、少し離れた場所に横たわるイチの姿を見つけた。気を失っているのか、灰と金の双眸は今は固く閉ざされている。男の胸のあたりに触れる白い手のひらに気付いて、かさねは眉をひそめた。うすくらがりに浮かび上がるのは、白い布を面につけた女の姿だ。何かを探るように、イチの前でひらりひらりと揺らめく女の手のひらに不穏なものを感じて、かさねはこぶしをぬかるみに打ち付けた。それではじめて、白布越しに女の視線がかさねに合う。
「イチに触れるでない。そなたはなにものだ?」
「ほう、イチ。イチというのか。この天の子どものすえは」
かすれた声はうら若い乙女のようでもあり、歳のいった老婆のようでもある。女がふっと耳元に息を吹きかけると、イチはうっすら目を開いた。
「イチ!」
駆け寄ると、「どこだ、ここ」とかさね同様、今ひとつ状況をつかめていない様子でイチが呟いた。
「わからぬ。気付いたら、かさねもここにおった」
「そなたらをこちらへ呼んだのはわたしだ。はじめまして、天帝の花嫁」
ゆらりと音もなく立ち上がった女は、白布の下の唇を半月の形に歪めた。
「そしてようこそ、黄泉の国へ。ここは道の外れ、異界と呼ばれしところ。わたしはこの黄泉を総べる神。大地女神と、そなたらの世界の者は呼んでおる」
「大地女神……あなたが」
大地女神といえば、天帝と並ぶ古神でありながら、一切が謎に包まれた神だ。また、大地将軍が管理する地道の守護神でもある。しかし女神の纏う神気にはどうにも禍々しいものがある。かさねは己を奮い立たせ、女神を見据えた。
「かさねたちを招いたと言ったな。いかような用向きじゃ」
「さてはて。我々が天帝の花嫁の顔を見たいと思うのは当然のこと。ほかの神々とちがって、わたしは隔たった異界におるゆえ、そなたのほうを呼んだまで」
おもむろに腕を差し伸べ、女神はかさねの顎をつかんだ。伸びた爪が食い込み、かさねは顔をしかめる。とっくりと時間をかけてかさねを検分した女神は、やがてつまらなそうに鼻を鳴らした。
「――醜女だな」
「な、なんだと!?」
「興が失せた。そなた、もう帰ってよいぞ」
虫を払うそぶりで手を振られ、かさねは呆気にとられる。女神が自らかさねを招いたというので、もっとたいそうな何かがあるのかと身構えていたが、こうもたやすく追い返されるとは。ではな、と女神がきびすを返してしまうので、かさねは口調を取り繕うことも忘れて、紫の袖を引っ張った。
「ちょ、そなた待てい!」
「……まだ何か?」
「何か?ではない。ここからどう帰ればよいというのだ。そなたのほうから招いておいて、帰り道も教えぬとはあんまりではないか」
「醜女のうえに無知とは。呼び損をしてしもうたわ」
肩をすくめて、女神は伸びた爪でかさねの後方を指した。
「まっすぐ振り向かずに走れ。そのうち薄紅の実をつけた果樹が現れる。それを越えれば、そなたの住まう世界だ」
「おお、かたじけない」
「ただし、男は置いていけ」
澱みなく命じられ、かさねは瞬きをした。
「――は?」
「通行料さ。まさか何の見返りもなしに、わたしがわたしの国に入った人間を見逃すとでも?」
「呼んだのはそなただろう! 何故、かさねが見返りを払わねばならない?」
「一度入れば、通行料を支払うのがこの国の掟よ。そなたとて例外ではない。そなたの顔を気に入れば、まあ考えてやらないでもなかったが、醜女は気に喰わんゆえ」
「そんな」
黄泉の国、と大地女神は言った。イチをここに置いていくということは、イチの肉体の死を意味する。奥歯を噛んで呻くと、それまで黙っていたイチがつと顔を上げた。
「ひとつ聞くが」
「なんだ?」
「狐神のときのように、天帝のことほぎを渡すことで『通行料』にはならないのか」
「ならないな」
腕を組んで笑う女神は酷薄だ。
「地神たちがそなたのことほぎを欲するのは、あちらに住まうゆえのこと。あちらの力の及ばぬ黄泉におるわたしには、まるで意味のないことよ。それよりもわたしはそなたの首が欲しい。その首を転がして鞠つきでもすれば、この退屈も少しはまぎれるだろうからの」
うっとりといとおしむように女神の手のひらがイチの頬に触れる。イチはしばらく大地女神を見ていたが、やがて小さく息を吐いて目を伏せた。その横顔に見覚えがあって、かさねは気付いてしまう。かつて天都で囚われた牢の中で、あるいはあらぶる怨念と化したトウに襲われたときにイチがしていた顔だ。何かのために別の何かを諦めようとしているとき、イチはこういう顔をする。
「……思いっきり旅の途中だし、まるでしまりのない終わり方だけどまあ……」
その先を言わせてはならぬと思った。
「あほう!!!」
ぱしん!と乾いた音が鳴る。かさねの翻った手のひらが男の頬を打ったのだった。呆けたイチと女神をふんと見渡し、かさねはせいぜい偉そうに腕を組んだ。
「そなたのお気に入りの顔にもみじの痕がついてしもうたなあ? どうする、女神よ。かさねに罰を与えるか。まあ、この件ではかさねも少々腹が立ったゆえ、こやつの顔をたこ殴りにしたうえ、ふた目と見られぬものにして置いていってもよいが」
「ほう?」
眉をわずかにひそめた女神が不穏な気配を帯びる。足元に流れる水がざわめき、激しく湧き立ち始めた。
「それで?」
「こやつは連れて行く。別の『通行料』を支払うゆえ、何をすればよいか教えよ」
「わたしに口答えをするとはのう。礼儀を知らぬ身の程知らずめ」
咽喉を鳴らして、女神はすいとかさねの胸に手を突き入れた。心臓を握られた。まぼろしではない、まことに。氷の指先が脈動する器官をひと撫ですると、身体中に寒気が走って、かさねはへたりこんでしまった。圧倒的なそれは死の気配だった。小刻みに震え出したかさねを見下ろし、女神は哄笑した。
「黄泉の味は甘美であろう、娘」
ふっと息をついて、女神はかさねから手を差し抜いた。
「しかしこの大地女神に否やを唱えたのは面白い。ちょうど千年の退屈にも飽き飽きしていたところだ。そなたがやると言うのなら、別の『通行料』を考えてやらんこともない」
「ま、まことか?」
いまだ鳥肌の立つ腕をさすり、かさねは女神を仰いだ。そうよのう、と悩める乙女のごとく顎に指をあてて考え込み、女神はふと愉快そうに口元を綻ばせた。
「では、わたしの失くした『宝』を取り返してはくれないか、娘」
「宝?」
思ったよりも普通の頼みごとで、かさねは肩透かしを食らう。
「茜色の、花紋様の描かれた口琴だ。大切なものであったが、あちらの世界に置いてきてしまった。それを見つけて取り戻してくれたなら、そなたと男はあちらに返してやろう」
「わ、わかった。どこにあるか、心当たりはあるかの」
「ある。わたしが今から教える娘の首にかかっているはずだ。そなたはそれを盗ってくるだけでよい」
ただし、と女神はたもとから赤い塊を取り出した。ひとつの生き物のように脈動するそれにいとしげに唇を寄せる。
「失敗したそのときには、男の心臓はわたしがいただく。そなたと男がわたしのもとへ帰ってこなかったときもだ。男を連れ帰りたくば、必ず口琴を持ち帰れ」
「待て! そなた、何故イチに執心する。心臓なぞ……」
「それ以上駄々をこねるなら、この話はなしだ」
すげなく袖を振った女神に、かさねは唇を噛む。イチはかさねに巻き込まれて黄泉に落ちただけだ。それなのに、何故こんな理不尽な目に遭わなくてはならないのか。悔しさで震えていると、頭にぽんと手を乗せられた。
「いいだろう。期限は?」
「い、イチ!?」
「これ以上話を長引かせるな。女神の気が変わったら、ふたり仲良く帰れなくなる。破格の条件を出し始めたから、今のうちに乗ったほうがいい」
「だが!」
「男のほうが賢いようだな。期限は月がぐるりとひとつめぐるまで。次の新月までに、わたしに口琴を差し出せ」
「わかった。娘の居場所は?」
「今から教える」
口端を上げ、女神はかさねとイチの前に手をかざした。手のひらを中心に丸い光が広がり、視界が白む。身体を四方に引きちぎられるような気持ちの悪い浮遊感があり、息がうまくできなくなる。かつて莵道で川に投げ込まれたときに似ていた。吐き出したいくつものあぶくが暗がりをのぼり、激しい水流に押し流されそうになる。繋いだ手を引き寄せられた。水面にゆらゆらと細い光が射し、次の瞬間、かさねの身体は外に投げ出されていた。
「わ、わ、わ」
白んだ視界が精彩を取り戻す。飛び出したのは何故か宙だった。足元に綿帽子をかぶった少女が座る姿が見えて、かさねは四肢をばたつかせる。
(このままでは――)
「ぶつかる! そなた、どけえええええい!」
鏡台に向き合っていた少女がいぶかしげに首をめぐらす。正面から目が合って、かさねも少女も同時に息をのんだ。直後、右に身体を引っ張られ、考えていたより柔らかな衝撃に包まれる。どうやらすんでのところで、イチがかさねをつかんで下敷きになったらしい。
「うう……」
もぞもぞとくっつけた胸から顔を上げると、「重い。潰れる。どけ」と首根っこをつかまれ、畳に下ろされた。
「そなた! 妙齢の乙女に重いとは何事じゃ!」
「乙女を名乗りたいなら、宙で猿みたいに暴れるな。落としかけたじゃねえか」
「もし……」
「猿だと! かさねのどこをどう見たら猿になるというのか! そなたの目は節穴か!」
「もし!」
背後から袖を引かれて、かさねははたと我に返る。精緻な花鳥の刺繍のほどこされた白打掛を羽織り、帯に莵道の家紋入りの守り刀を挿した少女。細部は異なるが、かさねが狐神に嫁いだときとそっくりである。
「すまぬ。そなたは……」
娘の胸元に茜色の口琴を見つけて、かさねは言葉を失くす。何より驚いたのは少女の容姿だった。柔らかそうな白銀の髪に、柘榴に似た赤い眸。色彩だけではない、顔立ちすらも、かさねに瓜二つの娘である。
「これはいったい」
呻いたかさねを見つめ、少女もまた不思議そうに口元に手をあてる。
「わたくしは莵道ひより。こたび、恐れ多くも天帝へ嫁ぐことになった花嫁です。あなたがたはもしや、天帝の御使いさまでございましょうか?」
「天帝の花嫁だと?」
眉根を寄せて、かさねはあたりを見回す。跳ね上げた蔀戸から見える新月山の稜線は、馴染のあるものだったが、屋敷のつくりや調度はちがった。何よりも目の前の娘。
莵道ひよりとは、千年前、天帝に嫁いだ娘の名である。
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