三章 六海の龍神 3
たたん、たん。たん。
その夜、六海屋敷で眠りについていたかさねは、屋根を叩く雨だれの音で目を覚ました。
「んん……」
寝返りを打とうとし、微かな呼気を間近に感じて目をこする。暗闇の中、巨大な何かが室内にひそんでいた。外の吊り灯籠の明かりに照らされたのは、ぬめりと光る青銀の鱗。
「なっ――!?」
そこにいたのは巨大な蛇。否、龍だった。青銀の鱗がびっしり生えた蛇身を横たえ、硝子に似たまなこでかさねをじっとうかがっている。呆気にとられたまま、かさねは褥から動けなくなった。
「あ、あなたは六海の……」
(……は、どこ)
「なんじゃ?」
(……す、め、は、ど、こ……)
「何を言うておる?」
龍神の声はかすれがちで、うまく聞き取れない。途中で苦しげな喘息が入るためかもしれなかった。金の双眸は苦痛に歪み、よく見れば、身体を覆う鱗も乾いて剥げかけている。
「どうした? かさねでよければ、話を聞くぞ。苦しい?」
身を起こして鱗へ手を伸ばせば、龍の姿はふっとかき消えた。高欄から外を仰ぐ。降りしきる雨にきらめく蛇身が見えた。海の方向だ。
「イチ!」
隣の部屋の襖を開けるが、中はもぬけの殻だった。イチはあのあとも龍神の記録を調べていたから、まだ書庫にいるのかもしれない。ためらっていると、海のほうからかすれがちの鳴き声が聞こえた。あの龍だ。
「――しかたあるまい!」
かさねは襦袢の上に上着だけを羽織ると、風雨の吹きすさぶ外に出た。屋敷の立つ高台から海下へ通じる坂道を駆け下りる。明かりを持ってくることを忘れたせいで、足元は暗い。泥濘に足を滑らせて何度か転びながら、ようやく海に面した浜に出る。黒い波がかさねの眼前で砕けて、頬に潮がかかった。
「六海の龍神よ。おるのか?」
紗弓が龍神の社だと言っていた大岩は、目の前にそびえている。洞窟の入り口で青銀の鱗がきらめいた気がして、かさねは大岩へ続く砂嘴を見下ろした。前に見たときは浜から道が繋がっていたのに、今は満ち潮のせいで濡れた岩肌がぽつぽつと頭を出しているだけだ。どうしようか、と一時ためらう。
(やはりイチを呼ぶべきだったのでは)
俯いたかさねに、風雨にまじって微かな鳴き声が届いた。
(だが……)
(あのものは、かさねを呼んでおる)
眉根を寄せて、深く息を吐き出す。重ったるくまとわりつくだけの上着を脱ぐと、かさねは手近な岩によじのぼった。濡れた岩肌に足を取られそうになりながら、なんとかしがみついて、少しずつ大岩に向かって進む。自分がイチのように軽やかに岩を渡れるとはさすがに思っていない。
「うう……」
時折ぶつかる大波を頭から浴びて、海水を飲み込みそうになり噎せる。ようやく半分だ。やってきた道のりを振り返り、かさねは息をついた。と、脆い岩肌が剥がれて、海に叩きこまれそうになり、慌てて端にしがみつく。擦った膝小僧が痛んだ。塩水が傷口に沁みる。
「ふえ……、」
涙がこみ上げてきたが、なんとかこらえて、最後は半ば波に追い立てられるように洞窟へ転がり込んだ。擦り剥いたおでこをさすって、かさねは天井を振り仰ぐ。
「ついたぞ! 龍神よ、おるのだろう!?」
潮気のこもった洞窟にかさねの声がこだまする。海の波に侵食された洞窟の奥には、石を積み上げて作った祠らしいものがあった。その前に置かれた石造りの水盤を見つけて、かさねは紗弓の言葉を思い起こす。
「血を一滴垂らすことで呼び出すと言うたな」
曇天のせいで、今日が新月の夜かはわからなかったが、ひとまず水盤の前に立ってみる。不思議と波紋のひとつも立たない、凪いだ水面をかさねは見下ろした。目を瞑って胸に手をあてる。
(ど、こ、)
「ここじゃ」
(……の、……す、め。ど、こ)
「ここにおる。そなたと話をしにきたのだ」
ついと水鏡の上へ腕を差し出す。わざわざ爪で傷つける必要もなく、擦り傷だらけの手から一滴の血はたやすく水盤に落ちた。たん。たたん。雨垂れにも似た微かな音がして、静寂が広がる。
(――わたしの声が聞こえるのか?)
直後、下方から突き上げた振動にかさねは危うく転びかけた。
「な、なんじゃ」
あたりを見回すと、洞窟の内壁が生き物のように鳴動を始めている。天井から剥がれた岩のひとつが落ちて、うおっと身を引いた。
(崩れる)
直感的に悟って、かさねは水盤から離れようとする。だが、傾いた水盤に巻き込まれるようにして転んでしまった。天井が崩れ落ちる――
きぃぃぃぃん……
聞き覚えのある澄んだ笛音に、かさねは瞬きをした。振動が徐々におさまり、小さなつぶてがひとつふたつと落ちるだけで崩落も止まった。
「ったた」
身体にかかった細かなつぶてを払い、かさねは洞窟から出ようとする。その首根っこを横からつかまれた。ぐいと引き寄せられたとたん、頭上から降ってきた石がかさねのいた入口に落下する。
「おおう……」
瞠目して塞がった入口を見下ろしていると、「……おまえは」とかさねの衿をつかんだ男が息を吐き出した。
「馬鹿か!!!」
怒声を浴びせかけられ、思わず身体がびくっとなる。
「い、イチ……」
「ひとりで神問いを始める奴がいるか。あんたは前から阿呆だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで阿呆で馬鹿なお姫さんだと思わなかった。いったいなんなんだ。あんたの頭は溶けているのか、中身をどっかに落っことしてきたのか」
「そこまで言わんでも……」
容赦のない罵倒の嵐に、肩をすぼめる。もともと口が悪い男ではあるけれど、今は本当に、本気で腹を立てている。かさねを担いでいなかったら、このまま拳骨でも降ってきそうな勢いだ。何かがはなはだしくこの男の不興を買ったらしい。
かさねを抱えていても危なげなく岩肌を渡りきり、イチは海水の押し寄せてこない乾いた浜に降り立つ。男の首にかかった口琴を見やり、先ほどの笛音はやはりイチだったのだと察する。倒木の上に下ろしたかさねに自分の上着を放って、「龍神に会ったのか」とイチはぞんざいに訊いた。
「いや、会えんかった……。声が聞こえてな、何かをかさねに言いたげだったから、それで……。最初はイチを探したが、そなたはおらんし……」
何やら言い訳じみた言葉ばかりがこぼれて、かさねはしょんぼりと俯いた。
「……すまぬ」
同じように濡れ鼠になったイチの足元へ視線を落として、もう一度呟く。
「すまぬな」
ふわりと大きな腕に頭を引き寄せられた、気がした。ほんのひととき顔を押し付けた胸からは潮のにおいがする。そう思ったときには両肩に手を置かれていた。
「かんべんしてくれ」
イチは深く息を吐き出して、かさねの擦り傷のできたおでこのあたりを撫でた。
「こういうのはもう、かんべんしてくれ」
この男に似合わず、ほろほろと崩れ落ちそうなやわい声だった。その声を聞いたとたん、急に後悔の念がせり上がってくる。
(ちゃんと呼べばよかった)
(イチを呼べばよかった)
「とんだ神問いもあったものね」
背後から投げられた声にかさねは顔を上げた。松の木に背をもたせるようにして紗弓が立っている。海の色にも似た碧眼は大岩のほうへ向けられていた。
「異変を察して来てみれば、龍神を呼び出せないどころか、怒らせかけるなんて、あんた本当にみそっかすなのね」
「そういうあんたこそ、神問いの方法は合っていたのか」
冷ややかなイチの声に、紗弓は驚いた風に目を見開いた。
「間違った神問いを教えたなら、たいしたもんだ。天帝っていうのは、よこしまな女が好みらしい」
「言いがかりをつけないで」
ぴしゃりと言い返した紗弓の横を、かさねを肩に抱えてイチが通り過ぎる。俯いた紗弓の顔をイチの肩越しに見やり、「イチ」とかさねは男の腕を叩いた。
「下ろせ。自分で歩けるゆえ」
返事を待たずに腕から滑り降りて、紗弓のほうへ駆けていく。
「わたしの娘はどこ、と言っておった」
弾かれたように、紗弓が顔を上げる。
「心当たりは?」
「ないわ」
ゆるりとかむりを振って、紗弓は少し離れた場所でこちらを待っているらしいイチに一瞥をやる。
「あの男、しずめの業を使った。天の一族というのは嘘ではなかったのね」
「……まあな」
正確にはイチは天の一族ではなく、天の一族に仕える「陰の者」だった。とはいえ、紗弓にそこまで明かす必要はない。碧眼をきゅっと眇めた紗弓はふいにせせら笑った。
「あんたには過ぎた男に思えるわ」
「なんだと?」
「私はあの男が欲しい。あんたは要らないわ」
碧眼が金の虹彩を帯びて、らんと輝く。眉根を寄せたかさねに冷たく微笑み、紗弓は龍神が消えた曇天をまばゆげに仰いだ。なまぬるい潮風がゆっくりと吹き寄せる。
*
翌日。朝から六海屋敷は騒がしかった。しばらくお告げすら途絶えていた龍神から、明け方に巫女に託宣が降りたのだという。それは十八年ぶりの贄を六海領主に要求した。
その者がいるのは、六海屋敷。
名を莵道かさね。
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