三章 六海の龍神 2
「それでは、かさね嬢」
ゆるやかな波紋を描く水面にとぷんと身を沈ませると、朧は神道を開いた。黄金の光の粒が雨にまじって舞い上がる。
「私は今の旨、孔雀姫に報告してまいります。天帝の花嫁のこともともに」
「うむ、かたじけないのう」
「まことにそう思うておるなら、かさね嬢」
水面から銀灰色の頭だけをのぞかせて、朧はねだるような目をした。長い付き合いであるので、その意味するところがわからぬかさねではない。むう、と唸ったのち、池のふちにしゃがんで目を瞑った。器用に水かきをする音がして、濡れた鼻が頬を擦り、唇を噛まれる。滴った血を朧はうまそうに舐めた。
「ああ、美味。甘露のごときお味がします」
「変態じみたことを言うでない、狐め」
「お代はこれで頂戴しましたよ」
今一度ぺろりと口端を舐めて、朧は水に沈む。金の粒がぱらぱらとこぼれ、次の瞬間には銀灰色の身体はどこにもなくなっていた。神である朧は神道を使い、天都と六海を自由に行き来できるのだ。
「あいつは帰ったのか」
頭上にかざされた傘に気付いて、かさねはしずまった池から顔を上げた。
「イチ」
「あんたもわからない奴だな。喰われかけた狐とよく顔を合わせる気になる」
「今はもう喰わんと言うておるもの」
廂にめぐらされた高欄に浅く腰掛けたまま、イチは傘を差し出している。それを受け取って、かさねは軒下へ入った。龍神を調べていたらしいイチの手には古い書物がある。
「調べ物はどうだった?」
高欄越しにのぞきこもうとすると、おもむろにイチの手のひらがかさねのほうへ伸びた。頬に触れてから、指先が口端をなぞる。生乾きの傷にあてられた指先には、子どものようなもどかしげな何かがあった。
「……い、いち?」
瞬きをして見上げると、口端に触れていた指先がはたと止まった。イチは何かを考えこむようにしてから、かさねの頬を横に引っ張った。
「な、なにをするのじゃ!」
「……べつに」
「わけがわからん奴よのう」
ぺいと手を叩き落として、かさねはきざはしをのぼる。
(目)
背中のあたりがそわそわして、なんとなく目を合わせていられなくなる。
(きんいろの、けものの、目)
それは狐がときどき物欲しげにするときの目の色と似ていた。
「りゅ、龍神の件はそれでどうだった?」
隣に座ると、「あんたのほうこそ、アルキ巫女の足取りはわかったのか?」とイチが訊き返した。朧と探し当てた社やそこで途絶えた足取りの話をする。書物に目を落としながら話を聞くイチの眼差しは、かさねがよく知る静かな金色に戻っていた。
「――……で、……だろ」
「ほえ?」
「あんた、ひとの話聞いてんのか」
「いや、ええと、ううん? ……すまん、聞いてなかった」
素直に白状すると、イチは深々息をついて、「これ」と手にしていた書物をかさねのほうへ差し出す。
「龍神に差し出された乙女について書いた記録だ。ここ数百年のものはきちんと残っている」
「最初の記録は……五百年前か」
大切に保管をされていたもののようで、虫食いのたぐいも少ない。五百年前、龍神に差し出された最初の娘は六海の領主筋の姫であったようだ。
「次は四百年前、三百年前、二百年前、百五十年前、百年前、八十年前、六十年前、四十年前からは数年おき。意味がわかるか?」
「贄を求める間隔が狭まっておるな」
「ああ。そして十八年前。失踪した娘を最後に龍神からの贄の要求はなくなった。海はあらぶり、空は暗雲に包まれた」
半年前から晴れ間を見せないという雨空を仰ぎ、イチが目を眇める。「そもそも」とかさねは気にかかっていたことを口にしてみた。
「神々は何故贄を求めるのだろう。朧などは最初はかさねを欲しがっていたが、今は血をやるくらいで満足しておる」
「それは単にあんたと個人的な取引をしているに過ぎないからだ」
肩をすくめ、イチはあぐらをかいた足に頬杖をついた。
「あんたは生きるためにものを食うだろ」
「う、うむ?」
「神々もおんなじだ。力をふるうためには、何かをうちに取り込む必要がある。ひとがひとを捧げるのは、見返りに自分たちへの恩恵を得るため。ちょうどあんたの里で贄と引き換えに豊穣がもたらされてきたように」
「……では、幾度も贄を求めるというのは」
「龍神の力が弱まっている。おそらくは」
ぱしん、と音を立ててイチは書物を閉じた。
「もしかしたら、放っておいてもそのうち斃れる神なのかもしれないな」
「紗弓どのから頼まれたのは、龍神の怒りをしずめることじゃ。かの神の状態がどうであれ、むやみに傷つけるでないぞ」
低い声でかさねが告げると、イチは呆れた顔をした。
「あんたは何故そうもあちら側のものたちに肩入れする。自分も喰われかけたくせに」
「喰われかけた『ゆえ』じゃ」
高欄に背をくっつけ、かさねは膝を抱えた。瞼裏に蘇るのは、舌なめずりして襲いかかる銀灰色の狐や、血に飢えた目をする山犬たち。そしてそれらを斬り捨てる大地将軍の太刀の残影だ。
「あのような怖い思いはもうしとうない。三年前、イチとの旅で、ひとに斬られる神も、神に喰われるひとも見た。どちらも怖くて……とても胸糞が悪かった。そういう思いはもうしとうないゆえ、かさねはひとと神との仲立ちをすると決めたのだ」
朧に弱音を吐き出せたからだろうか、今日は不思議といつもより素直に話せている気がする。ほっとしてかさねは隣に座ったイチを見上げた。
「そなたが強い男であるのは知っておる。だが、かさねの前ではできるだけ、その刀を抜かないでいてほしい。そなたが何かを斬ったり斬られたりするのを見るのは、かさねが嫌なのだ」
「……あんたの言ってることが俺にはよくわからない」
金の眸を伏せて、イチは息を吐いた。確かにそうだろう。イチが生きてきたのは、かさねが生まれ育ったような平穏な里ではない。生き方がちがい、ゆえに価値観がちがった。うんとうなずき、かさねは所在なく床に置かれたイチの手に手を重ねた。
「わからなくてよい。ゆえ、そのぶん話をしよう、イチ」
手を繋ぎ合わせてみてから、かさねはもじもじと唇を尖らせた。
「とりあえず……あれな。そのう、そなたをあほんだらと言ったのはかさねが悪かった」
「なんであのとき泣いてたんだ?」
「そ、それは乙女の秘めごとというやつじゃ! そなたも少しは自分で考えい」
しかめ面をして視線をよそに向けると、かさねを見つめる男の眸がふわりとまろんだ。あ、わらった、と思う。ときどき不意打ちでこぼれる、この男自体も気付いていないうたかたのような笑みがかさねは気に喰わない。胸がくしゅくしゅと締め付けられて、たぶんこういう顔をされるとかさねはなんでもゆるしてしまうんだろうとわかるから。
「その龍神とやらの社に明日行ってみるか」
宵の暗がりに沈み始めた空を見やって、イチが手を差し出した。何を求められているかを察して、かさねはずっと首にかけていた口琴をたぐり寄せる。艶やかな常磐色の口琴はイチの手の中に戻ると、しっくりと元の色を取り戻したかのように見えた。
「龍神をしずめて、あの面倒くさい女をさっさと天都に運ぶぞ」
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