三章 六海の龍神

三章 六海の龍神 1

 雨混じりの潮風にかき乱れる髪をかさねは押さえた。後ろでひとつにくくった髪には唯一といってよい装飾品――濃緋と銀糸を編んだ組み紐が結ばれている。莵道を出るとき、乳母の亜子が持たせてくれた守り紐だ。

 六海の海は今日も荒れていた。傘を差しているが、気を抜くと風に吹き飛ばされてしまいそうだ。

「かさね嬢」

 肩に乗った狐姿の朧に促され、うむ、とかさねは衿元から懐紙に包んだ端切れを取り出す。

「それではよろしく頼む」

 鼻先に端切れを差し出すと、朧はかさねの腕を伝って降り、地面を嗅ぐようにした。精緻な刺繍がほどこされた端切れは、消息を絶ったアルキ巫女が使っていた手巾だ。地神たる朧は、アルキ巫女の持つ特殊な気を追って、足取りをたどることができるらしい。朧曰く、かさねの居場所もかさね特有の気のにおいとやらを追ってきたのだとか。しばらく地面のあちこちに鼻を向けていた朧は、やがて何かを見つけた様子で銀灰色の尻尾を翻した。

「どうだ? アルキ巫女の気は見つかったか」

「だいぶ薄らいでいるが、おそらく。海下から木道を使い、海岸へ降りたようですね」

 今、かさねと朧がいるのは、六海の玄関口にあたる海下だ。ちなみに上善の屋敷は六海の中央・海中ウミナカと海下の境にある。ふんふんと鼻をひくつかせながら、朧は迷いない足取りで海岸に続く坂を下る。

「さすがそなた、たいしたものよのう」

 かさねもただびとに比べれば「あちら側」の感覚が鋭いようだが、ひとの気配の痕跡などはさっぱりわからない。感心して呟くと、「いえいえ、それほどでは」と朧は前脚で器用に顔を洗う仕草をした。落ち着かないのか、膨らんだ尻尾がぱたんぱたんと揺れる。

「そういえば、今日はあの乱暴ものの薄汚い小癪な金目はいずこに」

「それはええと、イチのことか」

「そう、その下賤なもののことです」

 あくまで名を口にするのは嫌らしい。道にできた水たまりをよけて走りながら、朧がうなずいた。

「あなたをお守りする役目を放り出して、あの怠け者め」

「イチは屋敷の書庫で、龍神にまつわる記録を調べておる。そなたが来た以上、分かれて事に当たったほうが早かろう?」

「かさね嬢がそう仰るなら、よいが」

 ふむん、と唸って、朧は顎を引いた。

 イチと再会する前は、かさねの旅に時折朧がついてきて力を貸してくれた。かつては喰うか喰われぬかの関係であったのに、近頃は親しい友にも似た情を抱きつつあるのが不思議だ。雨に濡れて艶やかに光る銀の毛並みを見やり、かさねはここずっと胸中で凝っていたものを打ち明けてみることにした。

「実はイチとな……。喧嘩をしてしもうた」

「なんと。あの身の程知らず、私がくびり殺して差し上げようか」

「それはよい。よいが、どうにも難しゅうてなあ。ほら、かさねってばこのとおり、わりと完璧な美少女であろ?」

「それはもうむしゃぶりつきたくなるほどに」

 今しがた友人だと思ったはずの狐から、身の危険を感じたのは気のせいか。それとなく狐から距離をあけつつ、かさねは話を続けた。

「再会したイチがかさねについてきてくれると言うたとき、これはもう、こやつがかさねに骨抜きになるのは時間の問題だな……と結構確信しておった。かさねがさねになるが、かさねときたらば、美少女であるうえ、性格までよいし」

「それはもう」

「だが、近頃かさねの自信はだだ下がりもよいところだ! あやつはかさねのことなど本当にどうでもよいのかもしれぬ。たまたま来いと言うたのがかさねだから、ついてきただけなのかも。そのうち、またふいといなくなってしまうのかも。とかな」

 押し込めていたはずの弱音が朧を相手にすると、ぽろぽろととめどなくこぼれてしまう。次第に声が消え入って俯いたかさねに、朧は叡知を宿した双眸を向けた。少し考えこむようにしてから、濡れた鼻をかさねの足首に押し付けてくる。

「かさね嬢は我々にはむしゃぶりつきとうなるほど可愛らしいおなごでございますよ」

「そなたのかわゆいは、食い気と結びついておるからなあ……」

「ひとのおのことて同じこと。あの愚図は幼いのです。目を開けたばかりの雛なのです。だから、さまざまわからない」

「雛とはまたえらい言い草だな」

 イチは大人で、かさねより七つも年上の男である。しかし朧は知ったことかと胸をそらした。

「私にしたら、ひとなど皆、幼い雛と同様。あの愚図は雛の中でも殻付きがいいところです」

「ふふ。さよか」

 朧の言い草がおかしくて、かさねは少し笑った。機嫌よく咽喉を鳴らすと、朧は再び坂道を下り出す。波打ち際の沿道をしばらく歩き、砂嘴の先にそびえた大岩の前で足を止める。屋敷の甍ほどの高さがある大岩である。頂には神域を示す鳥居が立てられていた。

「あれは……」

「龍神の社よ」

 すぐ後ろから声がして、かさねは肩を跳ね上げる。出会ったときと同様、傘も差さずに濡れそぼった姿で紗弓が立っていた。かさねと狐の取り合わせを面白そうに眺めて、「お散歩?」と首を傾ける。

「アルキ巫女の足取りを調べておった。龍神のほうはイチが屋敷で調べているゆえ」

「ふうん。あんたも少しは働いたりするのね」

「まあな」

 あざ笑うような言いぶりが気に喰わなかったのか、朧が歯を見せて紗弓を威嚇する。あら、と片眉を上げて、紗弓は朧のほうに目を合わせた。

「狐神ね。あんたが仕えているの?」

「ほう、そなた、見てわかるのか」

「イチほどでないけどね。私もひとにしては過ぎた目を持っているの。銀の毛並……。うつくしいお姿ね」

 朧に向けられる紗弓の眼差しは、まじりけのない畏敬の念がこめられている。ひとに対しては高慢なきらいがある少女なので、少々意外だった。六海の話を聞いていたときも感じたが、紗弓には神々を敬う気持ちが強くあるらしい。だとすれば、これほどに「花嫁」にふさわしいおなごはそうはいまい。

「龍神の社と言うたな。龍神はこの大岩へ降り立つのか」

「ええ。伝承では新月の夜、子の刻に。近頃はあまり見られないけれど……」

「龍神と話をすることは可能だろうか」

「あんたが? 話すの? 龍神と?」

 小馬鹿にするように鼻で笑われ、さすがのかさねも気分を害した。

「何がおかしい」

「ずいぶん身の程知らずのことを考えるのだと思って。まあいいわ。六海の龍神は男神ですからね、おなごのあんたなら、もしかしたら興をひかれるかもしれないわ。新月の夜、子の刻に、大岩のうちにある祠の水盤に血を一滴浮かべてごらんなさい。あんたひとりでやんなさいね。男を近づけてはだめ。龍神の怒りを買う」

 そこまでひと息に言うと、紗弓は髪を結んでいた簪を抜き放った。ぬばたまの髪がなよやかに背にかかる。ざわめく風を心地よさげに眺め、紗弓はおもむろに帯を解いた。衣を松の木にかけて、海のほうへ向かっていく。

「そなた……また海に入るのか」

 初夏とはいえ、あらぶる海は濁り、渦を巻いている。とてもひとが入れるようには思えない。尋ねたかさねに、紗弓は艶然とわらった。

「ええ」

「何ゆえ」

「会いたい方がいる」

 甘やかな声は、見る間に波音に吸い込まれた。水飛沫を上げて、白い肢体が飛び込む。そこから先は目で追うことすら困難だった。どんなあらぶる波にも捕らわれることなく、紗弓はすいすいと自在に進んでいく。

「ほんに人魚よのう」

「かさね嬢。今のおなごは?」

 朧が頭をもたげて尋ねた。

「天帝の花嫁らしい娘じゃ。託宣のとおり、その身に花のしるしを持っておる」

「ふむん、花嫁……。確かに神の血は引いておるようだが」

 朧は考えこむように「解せぬ」とぽつりと呟いた。それから砂嘴を歩いて、先ほど龍神の社だと教えられた大岩のほうへ向かっていく。岩の中は洞窟となっており、足場にも海水が入り込んでいた。あたりを見回した朧が力なく首を振る。

「アルキ巫女の気配はここで途絶えているようです」

「途絶えた?」

「すっぱりと。おそらくこの場所で消息を絶ったのでしょう。理由はわかりませんが、かさね嬢。ここはざわざわと不穏なにおいがする。先ほど紗弓とやらが言っていた神問いの儀、ゆめゆめ試そうとは思われますな」

「……かさねでは呼び出せぬ?」

「いいえ、あなたは……」

 言いさして、朧は鼻面をかさねの足首に押し当てた。

「とにかく御身が大事なら、避けるべきかと」

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