四章 婚礼と贄と

四章 婚礼と贄と 1

「将軍。大地将軍」

 梅雨明けの地都の空は、蒼く澄み渡っている。屋敷の濡れ縁で、女の膝に頭を載せてまどろんでいた燐圭リンケイは、無粋者の侵入に不愉快そうに鼻を鳴らした。

「なんだ。私は今さゆこと久方ぶりの休息を楽しんでいたところなのに」

「お返事でございます。例の方から」

 耳打ちされた名前に燐圭は片眉を上げる。左腕だけで器用に身を起こし、庭にひれ伏した下男から文箱を受け取る。六海の印が入った文箱の中には一通の書状が入っていた。一読して、ふむ、と唸る。うちわで風を送るさゆこが「よい報せですか」と尋ねた。

「悪くはない。むしろよいほうだな。が、少々残念でもある」

「何故です?」

「そなたの膝枕がまたしばらく遠のきそうだと思うてな」

 女のまるい額に口付けを贈り、大地将軍・燐圭は衣を裁いて立ち上がった。

 地都の西、六海の地にて乙女あり――。

 天帝の花嫁たる乙女の夢告げを、燐圭もまた独自の情報網から聞き知っていた。夢告げだけではいかんともしがたいので、しばらく泳がせていたところ、思わぬところから「魚」が連れた。加えてその「魚」は燐圭が六海へ兵を率いて向かう口実まで与えてくれたのだから、感謝をするほかない。

「地都を発つ。六海へ向かうぞ」

 カムラの差し出した太刀を佩き、燐圭は西方の空を見据えた。

 

 *


「どういうことだ」

 龍神からの託宣の内容を聞いたイチは冷たく目を眇めた。十八年ぶりの贄の要求。六海屋敷にいる、名前は莵道かさね。かさねにしても、まったく寝耳に水の事態だ。隣に座して上善を向き合うイチは不快さを隠そうともしない。

「こいつはこの土地の者じゃない。それなのに、贄に名指しされるなんておかしいだろう」

「龍神の御心は私たち人間には推し量れやしないわ」

 上善の代わりにこたえたのは紗弓である。波紋の藍打掛を羽織った紗弓は、上善のかたわらに腰を下ろすと、訳知り顔で顎を引いた。

「でももしかしたら、あんたの血が気に入ったのかもね。水盤に血を落とすあれは、昔は贄の選別法だったそうよ」

「もしかして、あんたわかってて教えたのか?」

「イチはつくづく私を悪者にしたいみたい。ちがうわよ。あんなこと、六海の子どもたちなら、誰でも知っている。もちろん、嘘か本当かもわからない伝承としてね。あれはあなたのお世話係さんをからかってやっただけ」

 悪びれずに紗弓は肩をすくめた。

「どうだろうな」

「何よ」

「あんたは龍の鱗をその身に持って生まれた。あれは龍神の花嫁……、次の贄を意味していたんじゃないのか」

「それで私がその子を身代わりに立てたというの? ふざけないで!」

 かっと頬を染め、紗弓は畳んだ扇でイチの横っ面をひっぱたいた。怒りにたぎる碧眼は金の虹彩があらわれ、イチを射抜かんばかりである。

「あの方の贄になれるなら、私がなっている」

「――イチ」

 深く息を吐き出して、かさねはまだ何かを言いたげな男の袖を引っ張った。当惑気味に場を見守る六海領主のほうへ向き直り、膝を進める。

「話はあいわかった。贄の件、この莵道かさねが引き受けよう」

「かさね」

 イチの声が剣を帯びる。お人好しもいい加減にしろ、とその目は言いたげだった。とはいえ、かさねもひとのよさで自らの命を賭けるほど阿呆ではない。言い募ろうとするイチを腕で制して口を開く。

「上善どの。龍神に贄を捧げるのはいつになる?」

「次の新月……三日後の子の刻だ」

「つまり深夜か。場所は?」

「大岩の祠だ。贄を供するときは婚姻のかたちを取る。新月の夜、龍神は花嫁のもとに降り立ち、その身を食らうと伝えられているためだ」

「すがすがしいほど身に覚えのあるはなしよの……」

 ひとりごちて、「ようわかった」とかさねはうなずいた。

「龍神には、かさねが承諾をした旨を告げよ。三日後、大岩にて待っていると」

「かさねどの」

 上善の面に苦悩が浮かんだ。五十がらみの男はこの十日ほどの間にぐんと老け込んでしまったように見える。

「すまぬ。六海のために尽くしていたあなたをこのような」

「よい。かさねはどうもそういう縁があるようじゃ。その代わりといってはなんだが、上善どの」

 一度言葉を切って、かさねは上善を見据えた。

「龍神の怒りをしずめることができたら、紗弓どのは天都へ連れて行く。それでよいな?」

「……ああ」

 上善の目にひとときうすぐらい光がよぎる。どこかかつてのいざりの兄さまに似た……。微かな違和を感じたものの、このときのかさねには六海領主の胸のうちにある思惑までは見通せなかった。

「嫁入りに関わる仕度は我ら六海の者がさせていただく。かさねどのとイチどのは今までどおり屋敷に滞在なされよ」

「うむ。頼んだぞ」

 上善と紗弓が部屋を出て行ってしまうと、残ったイチとふたりきりになる。ちらりとうかがえば、思ったとおりイチの機嫌がはなはだしく損なわれているらしいのが見て取れた。

「待てい!」

 このあたりはさすがのかさねも学んできた。悪口が飛び出す前にすかさず手を突き出し、説明を始める。

「また頭の中身を落っことしてきただの言われてはたまらんからな。贄の件を引き受けたのは、かさねにも考えあってのことじゃ」

「へえ。考え?」

 対するイチの口ぶりは冷たい。

 へ、へこたれぬ……と言い聞かせてかさねは顔を上げた。

「昨夜の一件で感じたのだが、六海の龍神はおそらくあらぶってはおらぬ」

「……どういうことだ?」

「あらぶる神々はかさねとて幾度も見てきた。あやつらにひとの言葉は通じぬ。聞く耳を持とうとしないのだ。だが、六海の龍神はかさねの言葉を理解した。ほんの少しであったが、会話も通じたのじゃ。だから……」

「龍神があらぶってはいないとして。なら、この荒れた海と曇天はなんなんだ」

「わからぬ。ゆえ、龍神に聞いてみようと思う。贄として赴けば、龍神はかさねの前に必ず降りる。もってこいだと思うてな」

 どうじゃ?、と目を輝かせてイチをうかがう。かさねとしては珍しく熟慮を重ねて出した結論だったのだが、イチの反応は芳しくない。難しげな顔で腕を組んだまま、イチは息を吐き出した。

「話が通じなかったらどうするんだ?」

「うん?」

「あるいは、話してもわかりあえなかったら? あんたは龍神に喰われるぞ」

 突き放すような言い方をしているのに、どうしてかイチの表情は苦しげだ。その横顔を見て、おもむろに理解する。かさねが無茶をするたび、イチが何故苛立った顔をするのか。腹立たしげにかさねを罵倒するのか。

(しんぱい)

 してくれているのか、と思ったとたん、胸がきゅうと切なくなった。

「おおう……」

 呻いて、頬に両手をあてる。

「なんだよ」

「いや、なんというか、急にそなたをかわいらしゅう思うてしもうてな」

「あんた、やっぱり頭がおかしかったのか?」

「やっぱりとはなんじゃ」

 半眼を寄越すが、思い直してかさねは一度姿勢を正した。

「のう、イチ」

 正面から男と向き合う。それから、前に話をしようと言ったときと同じように、イチの手を取って自分の手を繋いでみせた。

「かさねはそなたを信じておる。まことじゃ。おなじように、そなたもかさねを少しは信じてくれないか」

「……信じる?」

「だーいじょうぶじゃ、かさねは。わりとしぶといし、機転も利くし、なによりこの美少女ぶりよ。古今東西、神でもひとでも、美少女には弱いゆえな。まあつまり、何が言いたいのかというと、少しはかさねに任せよ、ということだ。な?」

 手を伸ばして、男の黒髪を指で撫ぜる。固いと思った髪は思いのほか柔らかかった。指先から伝わる感触の心地よさに悦の表情をして、なでなでと続ける。

(……むむ?)

(意外と嫌がらぬ)

 ほのかに感銘めいたものを抱いていると、足元から妙な視線を感じた。はて、と首を傾げてそちらへ目を落とす。畳からのっぺりと頭だけを出した青年と目が合った。

「く、くせも、曲もの……っ」

「お待ちあれ、かさね嬢。おまち――」

 ずぼっ。

 狐神の切実な訴えは、イチには届かなかったようだ。畳から出ていた頭をもぐらを叩く要領で内側に沈められる。悲鳴を上げて消えた朧は、しかし次の瞬間、天井から狐の姿に転じて舞い降りた。かさねの腕におさまると、鼻面だけを出してきいきい呻く。

「この野蛮な! 下賤な! あらくれものめ! かさね嬢。ご覧になりましたか。この男ときたらば、私の頭をずぼっと畳に沈めたのでございますよ」

「落ち着け、朧よ。今のはそなたの参上の仕方がちと悪かった」

「なんたること。かさね嬢とこの愚図が乳繰り合っているのを鼻息荒く見守っていた私であるのに。あんまりです」

「あんまりじゃ……というのは、かさねのほうが言いたい」

 静かに撫でられているイチなんて、年に一度見られるかわからない希少なものだったのに。なまぬるい笑みを浮かべ、かさねは抱き上げた子狐ほどの姿の朧を茵の上に下ろした。

「それで、どうした? 孔雀姫には先の伝言を伝えてくれたのか?」

「ええ、もちろんですとも。姫はかさね嬢の身をたいそう案じておられました」

「さよか。それはまずいな……」

 かさねが龍神の贄として名指しされたことを伝えると、「なんたることか!」と案の定、朧は銀灰色の毛を逆立てて憤慨した。

「私とて、かさね嬢の血一滴で我慢をしているというのに、なんと貪欲な神であることか! これは獲物の横取りというやつではありませんか」

「かさねはそなたの獲物になった覚えはないのだが。まあよい。無論、かさねとておめおめ龍神の贄になるつもりはない。承諾したのは、あくまで龍神と話をするためじゃ。龍神の怒りをしずめねば、紗弓どのは天都へ向かわんと言うしのう」

「そのことですが、かさね嬢」

 内緒話を始めるように、朧はかさねの耳元に濡れた鼻を寄せた。

「大地将軍が兵を率いて地都を発ったそうです。行き先は告げておりませんが、六海をめざしているのは明らか」

「なんだと?」

「六海は長く大地将軍の支配を拒んできた土地ゆえ、たやすく侵入を許すとは思えんが。ともあれ急がれませ、かさね嬢。孔雀姫の見立てでは、大地将軍もまた天帝の花嫁を狙っている様子」

「あいわかった」

 うなずき、かさねはかつて出会った大地将軍の姿を思い浮かべる。あのあらぶる神がひとがたを取ったような男。

(何か起きる前に、はよう龍神と話ができればよいが)

 どうにも胸が騒いでならなかった。

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