第二十二話 流星光底(後)  【完結】

 霧に覆われた深夜の妻女さいじょ山――九月九日、の刻。海津城から二手に分かれて動きはじめていた武田軍は、炊飯の煙をあげていない。仮にあげていたとしても、この夜霧の中では妻女山から見ることは不可能だったろう。

 しかし、謙信は突如として、宇佐美定満たち重臣を集め、

「これよりただちに妻女山を下山し、千曲川を渡河。川中島へと行軍する」

 と告げていた。

 戦の天才・謙信は神将である。謙信が遂行する無私の義戦に疑問と不満を抱く者はいても、その軍略と采配に疑問を抱く者は越後の勇将たちの中には一人もいない。だが、さすがの越後の男たちが、この時ばかりはどよめいた。なぜ妻女山を捨てて川中島の平地に全軍をさらさねばならないのか。いったいどういう意図なのか、謙信の突然の「ひらめき」の本意をみかねた。

「霧に乗じて海津城に夜襲をかけるのではなく、川中島へ、だと!? 妻女山を捨てて、無人の川中島へ向かうとはいったいどういうことだ? 越軍の二倍近い兵力で籠城している要害・海津城を力押しで攻め取ることなどできんぞ。まさかこの霧を奇貨として夜逃げするつもりになるような貴様ではあるまい。説明しろ!」

 越後の男たちを代表して、長尾政景が「理屈を述べてもらわねば諸将も兵たちも不安に駆られる」と謙信に迫った。が、謙信自身にも、「理屈」を語ることはできなかった。なにかに魅入られたかのように赤い瞳をきらめかせながら、

毘沙門天びしゃもんてんからの声を聞いた。川中島へ来い。八幡原へ来い、と。いや、毘沙門天ではないのかもしれない、武田信玄が、わたしを呼んでいるのかもしれない。必ず、川中島に、信玄は来る。わたしを、待っている」

 と、幾たびか理屈にならない理屈を繰り返した。だがその謙信の目は、毘沙門天の化身であると唱えている時の神がかりの目、ではなかった。まるで、人間に恋する女神のような……政景には、わかった。謙信と信玄の間には何人たりとも割ってはいることは叶わぬのだと。

 柿崎景家が「たとえ理屈で説明できずとも、謙信さまが閃かれた軍略に誤りなどない! 武田信玄との決着の時、来たれり! 謙信さまとともに死ね! 越後の勇者どもよ! 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ!」と立ち上がり、北条高広が「武田信玄がこれほど謙信さまに肉薄し決着を迫る機会はまたとありません。ここで戦わずして退けば、今後、越軍は都へも関東へも一歩も進めません。武田軍との命のやりとりは大赤字となりましょうが、参りましょう」とうなずいた時、政景もついに、

「……謙信の魂は、武田信玄にかれている。どうやら武田信玄がこの地にある限り、この世に生きる限り、俺には謙信を手に入れることはできんらしい。わかった。行こう。この俺が、武田信玄を葬り去る」

 と、謙信が命じた人智では説明のつかない異様な渡河作戦を、承諾した。

「ただし謙信よ。敵はあの武田信玄。遭遇しても、いつものような一騎駆けは許さぬ。越軍の将兵すべてが、貴様を守り武田軍を粉砕するための『盾』となる。貴様が毘沙門堂で考案した例の『禁じ手』を用いよ」

「……わたしは常に、一騎駆けを己に課してきた。越軍の将兵の命を守りながら戦うことを、第一に考えてきた。北条や三好松永が相手ならば、決して用いてはならない『禁じ手』だ。しかし、あの天下最強の軍団を率いる武田信玄と決着を付けるためならば、わが道理を曲げてでも越軍の軍紀を変えること、やむを得まい……ただしこの『禁じ手』を実戦で用いるのはこれが最初で最後だ、政景」

 謙信よ、ついに天の高みから駆け下りて大地に立つか、武田信玄はそれほどの敵か、あるいは友か、と政景は問うた。謙信は、どちらを選ぶこともできず、にわかには返答できなかった。

 軍師・宇佐美定満は、(謙信は……景虎は、なにを感じ取っているんだ。オレにもわからねえ。まるで、謙信と信玄の命が、互いを強烈に惹き寄せ合い、衝突してともに消滅しようとしているかのような……妻女山を下りれば、そこは謙信にとっての、「死地」だ。行かせたくはない)と戸惑いながらも、「謙信の軍師」として最後の最後まで己の役目を果たし抜くことを決断していた。

「全軍、馬の口を覆い、鳴き声を封じろ。馬に鞭を入れるな。千曲川を渡河していることを決して武田に知られてはならねえ。そして、もうひとつ。妻女山に、留守を守る決死隊を残していかねばならない――越軍が川中島へ出れば、武田は必ずや兵の一部を割いて妻女山を塞ごうとするだろう。全軍玉砕してくれる奴らはいないか? いないのなら、オレが妻女山に残るが……」

「信濃衆に任せてくれ、宇佐美どの。この村上義清が百人の決死隊とともに妻女山に踏みとどまり、越軍の軍旗をかざし続ける。しかし武田軍はすでに、この妻女山に向かっているのかもしれんな……ご主君と信玄とは、どこかで、魂がつながっておられる。それは、武将として孤高を生きる道を選択した少女同士の淡い恋などという甘いものではなく……」

 あるいは、越後と甲斐の「王」の家に生まれた時からの宿命とも言うべき縁なのかもしれん、と義清は言いかけた、が、途中で言葉を切っていた。主君の前で老いた降将が口にするには、そのような言葉は感傷的にすぎる。代わりに、

「武田軍は強い。かつてはこの俺を打ち破るために、そしてその後はわれらがご主君を倒すために、武田軍は血を流し無数の犠牲を払いながら強くなり続けた。その練度、闘気、粘り強さ、結束力、いずれも日ノ本最強だ。越後の男どもよ、信濃より亡命した男どもよ。貴様らは、これまでずっとご主君の武と慈悲によってかばわれ続けてきた。今こそ、そのご恩に報いる時であり、男として己の命をなげうって戦う時である。ご主君をお守りするために、ご主君の美しき義を戦国の地に実現するために、みな、この川中島で討ち死にせよ。卑劣にも逃げた者は、この村上義清がどこまでも追いかけて斬る。地獄の果てまでも、逃がさぬ」

 と、諸将をにらみつけていた。逃げる者など越後には一人もいませんよ、と本庄繁長が鼻を鳴らし、斎藤朝信は無言のまま立ち上がっていた。

 謙信は、「……すまない。みな……ありがとう……」と、越後と、そして信濃の男たちに頭を下げていた。感謝の涙を、流していた。もう、恐ろしいチチオヤの幻影は、どこにも見えない。宇佐美定満は、この時、謙信がいつかきっと毘沙門天のくびきから解き放たれ、人間の少女として地に降りる「時」が来ることを確信していた。しかしその「時」をもたらすためには、武田信玄との物語に決着をつけねばならない。謙信を、勝たせねばならない。守らねばならない。

 越軍もまた、動いた。

 鞭聲粛々べんせいしゅくしゅく、夜、河を過る。

 十二ヶ瀬・いぬヶ瀬・雨宮の渡しを渡河して、川中島・八幡原へ。

 妻女山に百の決死隊、千曲川沿いに押さえの九百を残し、一万二千のほぼ全軍が、霧に包まれた八幡原へと行軍した。


 翌朝――九月十日、とらの刻。

 馬場信房、高坂弾正、飯富兵部、真田幸隆ら武田軍の別働隊一万二千が海津城から山道を迂回うかいして霧の妻女山へと攻め上った時。

 彼女たちは、妻女山の山頂に、信じがたいものを見た。

 妻女山を埋め尽くしているはずの越軍の陣地は、もぬけの殻になっていた。

「……謙信が……いない……!? そんな、馬鹿な……!?」

 冷静沈着で知られる馬場信房ほどの姫武将が、絶句していた。

「待てよおい! どういうことだよ、これは? 越軍は……謙信は、どこへ消えちまったんだ!? 妻女山から善光寺へ撤退するためには、山中の間道を通るか、千曲川を押し渡って川中島を通るか、二つの道しかねえぞ? もしも山中を行軍していたのならば、あたしたちと鉢合わせていたはずだ! ってことは……!?」

 太郎と離れ離れで行軍するってのはどうも縁起が悪いぜ、と行軍中ずっと愚痴っていた飯富兵部が、かじっていたイナゴの佃煮つくだにを放り投げて怒鳴っていた。

「大変です! 軍師どのの策を、見破られたんです! 謙信は、この霧に乗じて川中島を奇襲し、信玄さまを討つつもりです! われらがこのまま妻女山に留まっていては……下山しましょう! 妻女山は放棄! 千曲川を押し渡って、八幡原へ! 信玄さま率いる武田本隊と越軍本隊とが、この霧の中で接近遭遇します!」

 このような想定外の事態を迎えた時、撤退を躊躇ちゅうちょしない高坂弾正がすかさず「即時撤収、本隊との合流」を進言する。

「佐助たち真田忍びがわが手許てもとにいれば、このような事態には。戸隠での忍び同士の決戦との同時展開が、裏目に出ましたわね。あるいはこの異様な霧は、戸隠を守ろうとしている才蔵の術によって増幅されているのかも……その霧が、期せずして御屋形さまと軍師どのを動かし、そして謙信どのを動かしたのかも……なにもかもが、御屋形さまと謙信どのとの『決着』へと収束しようとしているような……」

 真田幸隆は、今川義元が織田信奈という異形の姫武将に討たれたと知った時から、なにかを感じていた。武田信玄も、上杉謙信も、川中島という閉じられた空間にあまりにも長くこだわりすぎた。ついにはこの国の「王」にはなれないのではないか、「運命」は織田信奈の星を輝かせようとしているのではないか、と。両雄は、あたかも織田信奈に天下を掴み取らせるがために、ここで竜虎相博ってともに滅びるのではないか、と。

 妻女山の山頂近くまで攻め上り、無数の空陣を目にして動揺する武田軍別働隊の前に――老将・村上義清がわずか百騎の部隊を率いて、逆落としをかけていた。

「武田の若き姫武将たちよ。真田の母よ。八幡原へは向かわせぬ。一刻でも、半刻でも、四半刻でも、貴様らの行軍を遅らせてみせる。最後の一兵まで、われら信濃衆は戦う。もう、北信濃も善光寺平も、村上家すらも、どうでもよい。ご主君が抱く義の志を遂げるために、ご主君を川中島の輪廻りんねから解放するために、俺たちはここで土塊つちくれとなるのだ――!」

「上田原の合戦」で。「砥石といし崩れ」で。二度までも武田軍を打ち破り、板垣信方ら武田の股肱ここうの勇将たちをことごとく討ち取り、真田忍群と山本勘助の謀略によって北信濃から追い払わねば勝つことすらできなかったあの村上義清が、百倍に勝る兵力を誇る武田別働隊へとわずか百騎でいっせいに斬りこんできた。ひとたび北信濃を追われ、「土地を守る」という武士の意地を失ってからの村上義清は、一時は武田信玄に完全に乗り越えられ、再起を果たせぬまま越後で朽ちかけていた。が、今、義清は「土地を守る」という武士の意地よりも美しい志に――謙信の「義」に、突き動かされていた。もう、肉体はかつてのような力を振り絞れないまでに、衰えている。彼とともに長年武田と戦い続けてきた百騎の男たちも、そうだった。だがこの時、武将としての全盛期を越える「力」を、百騎の男たちは五体から解き放っていた。

「我に最後の力を与えよ! 信濃衆の男どもよ、みなここで俺とともに死ね! ご主君の夢を、叶え給え!」

 武田別働隊は、その多数があだとなった。霧に覆われた山中では、進退ままならない。山頂から突進してくる村上軍を避けながら千曲川まで駆け下りるには、あまりにも数が多すぎた。しかも、夜霧のためにまったく視界が利かないのだ。全軍が、混乱の極みに陥った。

「だあああああ! 畜生おおおおおお! またしても、村上義清かよおお! このおおお、死に損ないがああああ! 太郎が死んじまうじゃねーかよ! あたしが、刺し違えてでもブッ殺してやる!」

 四天王最後の生き残り・飯富兵部は、完全に頭に血を上らせていた。板垣。甘利。横田。四天王のうち三人までを、村上義清に討たれたのだ。そして今、義信が危地に陥っている――!

 武田最強の飯富兵部を制止できる者はいない。

 飯富兵部が「村上、あたしと勝負しろおおお! 出てきやがれええええ!」と咆哮ほうこうしながら山中を駆けはじめると同時に、高坂弾正は馬場信房に再度進言していた。

「馬場どの! 村上義清は飯富さまにお任せして、下山しましょう! ここは逃げましょう! 合流が遅れれば遅れるほど、信玄さまのお命が危うくなります! 上杉謙信が、降将の村上義清を敢えて決死隊として妻女山に置いていったということは、今までの義戦とはまったく異なる総力戦、殲滅せんめつ戦を開始したということ! われらの合流が遅れれば、信玄さまも、軍師どのたちも、八幡原におびき出された将兵たちはみな、確実に……」

 わかった、と馬場信房がうなずく。

「……者ども。同士討ちをしてはならない! 落ち着け……! 村上軍の矛先をかわしながら、これを迂回して川中島へと粛々と行軍する……!」

「佐助がいれば、猿飛の術を用いさせて、この事態急変を御屋形さまに伝えられますものを」

 幸隆ほどの者が、「我、生涯の過ちを犯せり」と悔いていた。

「……わたくしも、老いたようです……勘助どのも……二人の知略をもってしても、上杉謙信は、なおも……あまりにも高すぎる、壁であったようです……まるで、人の前に立ちはだかる天そのもののように……御屋形さま……」

「双子」の片割れ、幸隆の長女・真田信綱が、意を決して、幸隆に伝えていた。

「母者。『以心伝心の術』を用いて、本隊に加わっている妹にこの事態を知らせる……」

「……距離がありすぎますわ! それに、この霧が術の力を遮っています。『以心伝心の術』は二人の身体に負担をかけます。二人とも、命を落としてしまうかも。たとえ落とさずとも、そのような無謀をやれば、もはや二人の肉体は……!」

「……真田にはまだ、源五郎、源三郎、源二郎が。母者。どうか真田の庄を築く夢を……われら『双子』の妹たちと、ともに」

 母の制止を聞くつもりは、はじめからなかった。

 真田信綱は、己の力の限界を超える「気」を、解き放っていた。

「伝わってくれ。妹よ。わが心を、言葉を、受け取れ。『妻女山はもぬけの殻。上杉謙信は越軍全軍を率いて、霧の八幡原へ――』!」

 言葉を、唱え終えるとともに。

 その鼻と目から鮮血が噴き出し、信綱は失神して落馬していた。

 心の臓が、止まっていた。

 幸隆は信綱のもとに駆け下り、娘の蘇生そせいを試みた。

 もう、城を調略し国を奪うために権謀術数を駆使する「謀将」の表情ではない。

 娘の命をこの世に留めようとけんめいにあがく、母親の顔になっていた。

「信綱……! 理屈では、わが身体から『力』を捨てて分け与えれば、生き返らせることはできる。でも、『力』を酷使して限界を超えてしまったこの子には、もう、これ以上新たな『力』を分け与えることはできない。ならば、せめて、心の臓だけでも。二度と再び武将として生きることはできずとも、どうか。どうか、命だけは……信綱……! 踏みとどまって……!」

 この両軍ともにまったく視界の利かない混戦の中、村上義清はたしかに、砥石城を奪い取った宿敵・真田幸隆の姿と声を間近に感じていた。幸隆は丸腰だった。己の身を守ることすら、忘れていた。だが、義清は幸隆を討てなかった。互いの志を賭けて命を奪い合う戦場には男も女もない。ともに、等しく平等である。しかし、武将は討てても、俺には「母」は討てぬ、と義清は思った。




 九月十日早朝、の刻。

 暁に見る、千兵の大牙を擁するを。

 八千の武田本隊を率いて八幡原に布陣していた信玄に随行する「双子」の妹・真田昌輝が「……姉者から……『伝心』が……この八幡原に、越軍が!」と叫んで、馬上から転がり落ちたのとほぼ同時だった。

 武田信玄と、そして軍師・山本勘助は、見た。

 夜明けとともに白く輝きを放ちはじめていた川中島・八幡原の霧の向こうから、漆黒の軍団の「影」が忽然こつぜんと姿を現していた。

 あれほど深かった霧が、幻であったかのように、晴れていった。

「勘助。あれは。あの、『毘』と『龍』の旗は――」

「お、お、お……まさか……そんな馬鹿な!? 待ち伏せしていたのは、われら武田ではなく、上杉謙信のほうであったというのか? 『啄木鳥きつつき』を、見破ったというのか!?」

 いっせいに、黒い軍団の将兵たちが、なにかを唱えはじめた。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 毘沙門天の、真言マントラだった。

 なおも勘助は、この光景を信じることができなかった。

 絶対に、破られるはずがない。

 謙信が仮に奇跡の如き閃きで妻女山奇襲を察知したとしても、全軍で八幡原に奇襲をかけてくるなど、そのようなことは決してあり得るはずがない。

「あり得ぬ! なぜじゃ。なぜ、見破られた? なぜ、気取られた? それがしが生涯を賭して築き上げ積み上げてきた軍師としての究極の秘策を……上杉、謙信……!」

「勘助。昌輝は倒れながらも、妻女山はもぬけの空だったと繰り返し伝えている。『双子』は、あたしたちを救うために限界を超えた力を用いたのだ。戸隠へ佐助たちを総動員したことが、裏目に出たか」

「御屋形さま。弁明の言葉も……ございませぬ……!」

「落ち着け。勘助。まだだ。まだ、敗れたわけではない。今頃、別働隊は必ず、八幡原に合流しようと駆けに駆けている。馬場たちが八幡原に到着すれば、越軍を挟撃できる。それまで、なんとかして保たせよ。策を繰り出せ」

「……いかぬ。いけませぬ。越軍の将兵ども全員の表情が、これまでとは異なりまする。生かして御屋形さまを甲斐へは戻さぬ、そのためならば全滅しようが悔いはない、ときゃつらは決死の覚悟でこの八幡原へ」

「だがわれらの退路はすでに越軍に断たれている。持ちこたえるのだ、勘助!」

「山本勘助! 『運命』を覆す時が来たわ! 姉上を守り抜けば、あなたの勝ちよ! どうか、情を捨てて、越軍の猛攻を防ぎきる策を……! お願い!」

 この火急の事態に直面した副将・信繁もまた、信玄と勘助のもとへと急いで馬を飛ばして合流していた。

 信繁も、そして勘助も、信玄に逃れられない「死」の運命が訪れたことを知ってしまっている。

 妻も持たず、子も持たず、すべてを「軍略」に賭してきた軍師としての生涯のすべてを否定され、上杉謙信という理を越えた異形の天才に渾身こんしんの策「啄木鳥」を完璧に破られてれてしまった勘助は、本来ならば、この時に心が折れていたはずだった。だが、信繁が「天下人」となるべき己の星をも捨ててまで姉・信玄を庇い続け守り続けてきたことを知ってしまっていた勘助には、もはや己の軍師としての矜持を奪われた、わが生涯のすべては無駄であったと悔いて泣き伏せる猶予すらなかった。

「御屋形さま。信繁さま。全軍をただちに、守りの陣形に――鶴翼かくよくの陣形に。左翼と右翼とに、飯富三郎兵衛、工藤祐長、信繁さま、義信さまら率いる各部隊を展開し、中央に位置する御屋形さまを鶴の翼の如く包み込み、われら全員が一丸となって捨て身で御屋形さまをお守りいたします! 信繁さま、よろしくお願い申す!」

「承知。必ず、馬場、飯富、高坂、真田たちが駆けつけてくれる。姉上。これから、多くの将兵が死んでいく。それでも、耐えて! 越軍の正面攻撃を受けきり、別働隊が到着するまで防ぎきれば、武田は、姉上は、天下最強よ!」

「……信繁……次郎……わかっている。上杉謙信は、このあたしを討つために妻女山から下山し、霧を抜けて川中島にやってきたのだ。あたしとの決着をつけるために、天から地へと降り立ったのだ。今こそ、武田と上杉は、あたしと謙信は対等の地に立った。しかし戸隠の『石』を地の底へと埋め尽くす地雷火の烽火のろしがあがれば、毘沙門天憑きの越軍将兵どもも、必ずや動揺する。たしかに目算は狂った。しかし勘助の策はまだ、ついえてはいない!」

 武田軍とは、もはや目と鼻の先とも言うべき至近距離にまで、毘沙門天の真言を唱えつつ静かに行軍するその異形の軍団は迫っていた――。

「毘」と、そして「懸乱龍かかりみだれりゅう」。越軍の軍旗が八幡原を埋め尽くさんばかりの勢いで翻り、そして。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 越軍が、異様な「陣形」を、取りはじめていた。

 勘助も信玄も見たことのない、きわめて奇妙な陣形だった。いつもの越軍とは違う。謙信自身が単騎突出してまっすぐに敵陣を割ろうと駆けてくる、あの陣形とはまったく違う。各部隊が「円」を描くように謙信率いる本隊の周辺を回転しながら、いっせいに武田軍へと向かってきたのだ。

「あれは、なんじゃ!? あのような陣形が……あれは、いったい? むしろ謙信を円の中心に閉じ込めて守りながら、全部隊が波のように次々と攻め寄せてくるとは?」

「勘助。武田軍が『鶴翼』の陣形で時間を稼ぎ総大将のあたしを守ろうとすることすら、どうやら謙信に読まれていたぞ! 越軍は車輪の如く回転し続ける『円の攻撃』で、総当たりの玉砕戦をやるつもりだ!」

 越軍はおよそ一万二千。武田軍は八千。しかし武田軍の統制力は、日ノ本屈指である。素早く「鶴翼」の陣形を取ることで、武田軍の防御力は一・五倍ほどとなる。それで、兵力差の不利は補えるはずだった。別働隊の到着まで耐えきれるはずだ、と勘助は素早く計算していた。が、そうはならなかった。謙信は、勘助が「鶴翼」で時間を稼ぎ信玄を守り抜く持久戦術に出ることを想定して、禁断の陣形――「車懸くるまがかり」を考案していたのだ。全将兵が、次から次へと謙信を中心に回転し、円を描き、「鶴翼」の翼をもぎ取っていく。鶴の両翼を破って丸裸にしなければ、謙信といえども不動の守りを固めた信玄のもとには到達できない。これまで、「一撃決戦」を求める謙信と、「不敗の守り」にこだわる信玄の戦いは常に膠着こうちゃくしてきた。互いに、攻め手を欠いた。二度目の川中島での対陣は、前後二百日に及んだ。今ついに勘助の「啄木鳥」を逆に好機として捕らえた謙信は、越軍将兵に犠牲を出さないという義戦の決まり手を捨ててまで、「車懸」の陣形で信玄へと至る道をこじ開けようというしている。

「啄木鳥」を破り、絶対的優位に立っているとはいえ、謙信には、時間がない。戸隠の「石」を爆破されれば。そして妻女山から武田の別働隊が到着すれば。越軍は、全滅の危機に陥る。だから謙信は信玄と勘助得意の持久戦術を、天才的な、しかし両軍に多大の犠牲を強いる新戦術で粉砕するつもりなのだ。

 村上義清が考案した「槍衾やりぶすま」に蹴散らされ敗走した時も、目を覆う激戦となった。が、もはや事態はそれどころではなかった。兵士の討ち死にを前提とした「車懸」など、正気の沙汰さたではない。他の武家では、絶対になし得ない究極の攻撃特化型陣形だった。まるで本猫寺一揆衆である。信玄の命の炎は、今や消えつつあった。

 たつの刻。

 もはや、霧は晴れた。

「南無阿弥陀仏! 我こそは、越後最狂、柿崎景家なりいいいいい! わが主・謙信さまの義を貫くべく、武田信玄のみしるしをいただく! これより修羅の道に入る! 柿崎家の勇者どもよ、我とともに散れ! 散って、謙信さまの道を切り開くのだああああ! 腕を落とされ、足を斬られようとも、這いつくばって牙をき、敵の喉笛へと食らいつけえええ! 命果てるまで武田の兵と戦い続けよおおおお! 死ね! 死ねえええ! かかれええええっ!」

「車懸」の第一波を務める柿崎景家が高らかに名乗りをあげ、そして、まだ「鶴翼」の陣形への移行を終わらせていない武田軍の先鋒せんぽう部隊へと、当たるべからざる勢いで押し寄せていた。

 両軍の先鋒同士で、激突が、はじまっていた。

 たちまちのうちに、前代未聞の、殲滅戦となった。

 勘助は「これでは両軍ともに甚大な被害が出る!」とうめいた。

 武神として崇拝してやまない謙信からはじめて「諸君の命を、この一戦に賭けてほしい。総攻撃を」と命じられた越軍の将兵たちは、あまりにも強かった。精強と統制を誇る武田兵といえども、この兵力差ではとても保たない。これでは、半刻すら「鶴翼」は保たない。こちらの翼となる部隊が猛攻を受けて傷つき疲弊していくうちにも、「車懸」の円の回転は容赦なく続く。新たな攻め手が、押し寄せてくる。

 これでは問答無用で、両の翼をもぎ取られてしまう。そしてその時こそ、上杉謙信が自ら信玄のもとへ斬りこんでくる時になるのだろう。

「北条高広、参る。戦場で柿崎どのとともに死狂うなど、それがしの趣味ではないが――こたびだけはわが全身全霊を賭けて武田信玄どのを討たせていただき、関東管領の名のもと厩橋まやばし城の城代を務めさせていただく! 北条隊よ、行くぞ。鶴の翼を、もぎ取るぞ。謙信さまの運命を切り開くのだ!」

「……続いて、斎藤朝信、参る……武田兵を、決して休ませるな」

 崩れていく。勘助が構築せんとしていた「鶴翼」が、実戦の中で鍛え上げられた武田の精鋭たちが、見るも無残なまでに一人の異形の天才が考案した「車懸」によって崩れていく。

 勘助には、「車懸」が描く円の動きが、謙信と信玄を捕らえて放さない川中島という「輪廻」そのものに見えていた。たとえ敗者となろうとも川中島より御屋形さまを逃がさねば、と思った。だが、謙信に惹かれるかのようにこの川中島の八幡原へとやってきて、そして、ついに謙信と軍を率いて「邂逅かいこう」した信玄は絶対に逃げないだろう。訴えても、無駄なことだ。訴えれば、信玄とそして信繁のこれまでの生涯のすべてを、軍師である勘助自身が否定することになる。信玄がこの「運命」から逃げれば、川中島の輪廻はさらに続く――上杉と武田の決戦はさらに繰り返される。繰り返すごとに、両軍の死傷者も、増え続ける――どれほどの犠牲を払おうとも、立ち向かわねば、ならない。

「……だが、これではまことの殲滅戦だ。慈悲の心を封じてまで……ここまでやらねば、御屋形さまには勝てぬ、と覚悟の上か。上杉謙信……!」

 姉上は、武田軍はあまりにも強くなりすぎたんだわ、と信繁が呟いていた。

「戸隠の烽火を待っている暇はないな。これでは、たとえ戸隠を落としても越軍の士気は崩れぬ。最後はやはり、人だ。人の力が必要だ。馬場たちが八幡原へ駆けつけるまで、あたしの命は保つか。保たせられるか、山本勘助!」

 諏訪法性すわほうしょうかぶとを被りながら、信玄が問うた。勘助は「必ずや保たせまする」と震えながら答えた。だが、勘助の隻眼にははっきりと見えた。信玄の宿星は、羅睺らごうの星は今、蒼天そうてんのうちに消えつつあった。

「……勘助。運命は、成就されようとしているのね」

 いかん。わが表情を信繁さまに気取られた、と勘助は気づき、震えていた。


 勘助の下知のもと、急ぎ「鶴翼」に展開しようとした武田の先鋒隊は、休む暇もなく「車懸」で攻めに攻め寄せてくる越軍の波状攻撃に完全に突き崩されつつあった。

「姉上が必ず、妻女山から救援に駆けつけてくださるのだわ! 逃げてはいけない! 踏みとどまって、御屋形さまをお守りするのよ!」

 武田姫武将のうち最小最軽量をうたわれる、飯富兵部虎昌の妹・飯富三郎兵衛も。

「霧が晴れてしまったとたんに、この工藤祐長率いる部隊に容赦なく襲いかかってくるとは……ともに全滅も辞さず、という乾坤一擲けんこんいってきの戦いなのですね、これは!」

 常日頃はその存在感のなさを逆手にとった隠密行軍を得意としている、工藤祐長も。

 容赦なく攻め立てられていた。

 飯富三郎兵衛と工藤祐長が声をあららげながら動揺する将兵を叱咤しったし、越軍の先鋒隊に反撃してこれを追いかけようとすると、その部隊は波が退いていくかのように横方向へと移動しながら去っていき、新たな敵部隊が押し寄せてくる。

 気がつけば、「鶴翼」の右翼に展開した工藤部隊も、左翼に展開した飯富三郎兵衛部隊も、「車懸」の円移動の流れに引き込まれるようにじりじりと信玄本陣から離され、越軍の中心――上杉謙信率いる越軍旗本部隊に吸い寄せられている。工藤も、飯富も、この事態に気づいた。まるで上杉謙信という「磁石」に両翼の部隊が強引に吸い寄せられ、信玄を丸裸にしてしまおうとしているかのような。激しい津波に足を取られて、否応なしに流されていくかのような。しかし、どうしようもない。命を賭して目の前の敵と戦っている部隊に「後退せよ」と下知を飛ばせば、いよいよ士気が乱れ、壊乱してしまう恐れがある。

 今や武田軍の右翼、左翼、ともに孤立しつつある。

 そしてそれは、鉄壁の守りを誇るはずだった信玄本陣への「道」を、謙信の神がかりの戦術と越兵の恐るべき戦意とが強引に切り開こうとしている、ということでもあった。

 妻女山に登った別働隊は、村上義清率いる越軍信濃衆決死隊と、千曲川の渡河点を塞いでいる越軍殿えつぐんしんがり部隊とに挟撃され翻弄されている。いまだ、川中島に姿を現さない――。


「姉上。勘助。鶴翼の陣形は崩されつつある。お味方は壊滅寸前。妻女山の別働隊が帰還するまで、保たせるためには――」

「車懸」の波状攻撃に両翼をもぎ取られ、諸隊から引き離されて孤立しつつある信玄本陣で、信繁がついに意を決していた。

「姉上。『車懸』の異様な吸引力は、越後の猛将・柿崎景家率いる部隊が放っている。わたし自身が一軍を率いて突進し、柿崎景家の動きを止める。わたしの命と引き替えにしても、柿崎景家を討つ。わたしが戦っている間、姉上は、この本陣に構えて決して動かないで。泰然自若、不動の構えを武田の将兵たちに見せて。姉上が浮き足立てば、武田軍は崩壊してしまう」

 信繁は、すでに「死」を決意していた。

 信繁が口に出さずとも、山本勘助には、信繁の「選択」が理解できた。

 信繁は、姉・信玄を天下に輝かせたい、父・信虎に愛されなかったという悲しみから信玄を解き放ちたい、その思いを貫くために自分自身の人生と信玄の人生とを「等価交換」したのだ。勘助が、信繁に「信虎さまを駿河へ追放いたします」と打ち明けたその時から――。

 天下人となるべくして生まれた才気と生命力の持ち主でありながら。

 信繁は、自分自身が戦国の世に輝く星となることよりも、姉を輝かせる道を、選んだのだ。

 しかし信繁が甲斐国主の座を姉と「交換」してもなお、信玄が背負っていた悲劇の運命は、覆せなかった。

 まもなく、この川中島で、信玄の命は、尽きる。

 鶴翼の翼がともに折れて、信玄が丸裸になった、その時。

 越後の龍は――上杉謙信は、必ず、来る。

 もはや、わたし自身の「命」と、姉上の「運命」とを、等価交換するしかない、と信繁は「最後の選択」をしたのだ。

(勘助。あとをお願い。姉上の運命を覆せる者は、わたししかいないの)

 山本勘助は、言葉を失っていた。

 家族とは。

 姉妹の情とは。

 かほどに分かちがたいものであったのか。

 それがしが、御屋形さまと信虎さまを引き裂いたその時から、この日が来ることは定まっていたのだろうか。

 それがしは、なんという浅慮なことを、と惑った。

 それでも、御意、と返答せねばならなかった。ただちに武田信繁隊を最前線へと突撃させなければ、信玄の命運は確実に尽きる。しかし、どうしてもその言葉が出てこない。

「姉上。ともに過ごせた時間、幸福でした。本来ならば、手に入れることのできなかった幸福なひとときを……姉妹二人で過ごす時を与えてくれた山本勘助にも、感謝しています。行って参ります。馬場たち別働隊が駆けつけるまで、絶対に生き延びてくださりますよう。別働隊が到着すれば、戦局は一変します。武田の、勝ちです」

 それはならぬ! と、信玄が叫んでいた。

 武田信玄は、甲斐の国主であり、武田家の当主である。

 武田軍を統率する絶対的な統領なのである。

 行け、と言わねばならない。

 だが、信玄は、信繁の手を握りしめて、止めた。

 ここが戦場であることを、信玄は忘れてしまったかのようだった。

「……次郎……行ってはならない。行かないで……お願い……ここであなたを勝利と交換してしまうのならば、あたしは、いったい、なんのために……」

「姉上! 今は、勝千代として振る舞う時ではないわ! 姉上は甲斐の虎・武田信玄なのよ! 二万の将兵の命を預かる、戦国最強武田軍団の総帥なのよ!」

「……次郎」

「ここは戦場よ! 典厩てんきゅう信繁、と呼ぶのよ、姉上!」

「……信繁。それでも……どうか、行かないでほしい。この本陣に留まって、ともに越軍を防ぎきってほしい。あたしは」

「姉上……! わたしは、常に姉上の影に寄り添うことこそを無上の幸福として、生きてきました。でも、そのご命令だけは……お断りします」

「……信繁」

「姉上。今、姉上が情に流されてわたしを手許に留めれば、わたしたち姉妹はともにここで討ち死にすることになります。わたしが、必ずや姉上に勝利をもたらすための時間を稼ぎます。姉上は、もう、だいじょうぶです。わたしがいなくとも、姉上は、生きて、そして幸福を掴むことができます。誰も正面から戦うことすらできなかった上杉謙信と堂々と対峙たいじし、そして生き残ることができれば――この決戦に注目している天下万人が、姉上を戦国最強の武将と認めます。あの、父上ですらも。もう、わたしの支えは必要ありません……わたしにとって、それに勝る幸福はありません」

 信繁が信玄の言葉を拒絶し、命令を拒否するのは、これが生涯ではじめてのことであり、そして生涯最後のことだった。

「わたしに代わる副将には、工藤祐長を。日頃はまるで目立たないあの者こそ、武田の副将となるために生まれてきたかのような王佐の才の持ち主。決して道を誤らず、私情に流されず、武田の副将としての責務をまっとうすることのできる姫武将。工藤に、甲斐の名門・内藤家を継がせてくださいませ」

 この時――信繁はついに、一人立ちを、果たしていた。

 そして、信玄もまた。

「……わかった。信繁。別働隊が駆けつけるまで、『車懸』の猛攻を、防ぎ止めよ。武田家の命運を、信繁、お前に託そう」

「御意。諏訪法性の兜にかけて。御旗盾無みはたたてなし、ご照覧あれ」

「もういちど、人として生まれ変わることがあれば、信繁。また、姉妹として」

「……こんどは戦国の大名の家ではなく、ささやかな山の民として」

「次はあたしが、お前の妹に生まれてきても、いいだろうか」

「ううん。それはダメ。何度転生しても、わたしは、姉上の妹として生きたい。わたしは、幸せだったわ。ありがとう、姉上」

 信繁は馬上の人となり、そして、「典厩信繁隊、諸角豊後もろずみぶんご隊、ともに前進! 『鶴翼』の陣形を再構築!」と叫びながら本陣から去っていった。

 姉妹は、別れた。

 もう、信繁が生きて戻ってくることはあるまい。

 次に、信玄が信繁と再会する時は――。

 勘助は、無言で地に伏せていた。


「武田の副将、武田典厩信繁、参る! 柿崎和泉守、尋常に勝負!」

 信繁が「次郎」を名乗っていた頃から「守り役」として信繁を支えてきた老将・諸角豊後は、越軍のまっただ中へ突進して討ち死にすることで時間を稼ごうと決断した信繁のもとに手勢を率いてはせ参じ、

「姫。最後までお供つかまつります。上田原で散った板垣どのに比べ、この諸角、少々長生きしすぎました。そのため、姫のご最期を見届けねばならぬ不運に巡り会ったこと、後悔しております」

 と、馬にむちを入れて信繁の隣に追いすがり、男泣きに泣いた。

「まだ討ち死にすると決まったわけではないわ! 諸角! 北条高広はあなたに任せた! わたしは、柿崎景家を斬る!」

「妻女山へ登った高坂、馬場、真田たち一万二千の別働隊が戻ってくるまでに、あの二人の猛将を討ち取ることができますれば、『車懸』の刃は折れまする。円の中心に座している謙信をこそ、丸裸に」

「そうよ。謙信を守る漆黒の『刃』を折れば、姉上の勝利は、疑いなしよ! これは負け戦にあらず! 武田に、姉上に最期の勝利をもたらすための戦いなのよ!」

 信繁を「信玄さまに勝るとも劣らぬ名将」と慕う信繁隊の兵たちが「そのとおり!」「最後の一兵となっても絶対に退かぬ!」「信繁さまをお守りせよ!」「天下最強は越軍にあらず、武田であると、日ノ本すべての者に知らしめる時ぞ!」と口々に叫び、「車懸」の「円軌道」を形成し武田兵をぎ払い続けている中核部分へと、無謀、あるいは蛮勇と呼ぶしかない全軍での全速突撃を敢行していた。


 左右の鶴の翼を剥ぎ取り終えつつあった越軍に、動揺が走った。

 工藤隊、飯富三郎兵衛隊、ともに矢尽き刀折れて潰走かいそう寸前となっていたところに、武田の副将・典厩信繁隊と諸角豊後隊が死に狂いに狂って突進してきたため、謙信が掴みかけていた信玄本陣への「道」は再び遮断された。

 残り時間が、刻一刻と過ぎていく。

 武田別働隊の千曲川渡河を阻んでいる殿部隊と村上義清隊にも、限界はある。村上隊は百、殿部隊を加えてもおよそ千。対する武田別働隊は一万二千。剛将・村上義清がどれほど周到に、執拗に妨害しようとも、必ず別働隊は、まもなく千曲川を押し渡って八幡原へと殺到してくる。

 謙信に「翼、もぎ取りましてございます。信玄本陣への道、一直線に開きましたぞ」と報告しようとしていた北条高広は、諸角豊後隊が北条の首を目指して討たれても討たれても前進してくるさまを眺めながら、

「やれやれ。諸角どのはともかく、よもや武田の副将、信玄に匹敵する器量人と呼ばれる典厩どのがここで死兵となって時間稼ぎに来るとは。信じがたい。これではたとえ別働隊が到着するまで本陣を支えきれたとしても、武田家は大赤字ではないか……なんという、執念深さ。なんという、統率力。そして……なんという、非情さ。武田信玄……! これが、武田家の底力か……!」

 と歯ぎしりしながら、馬上で大太刀を振りあげていた。

「このままでは謙信さまが危うい。大損ではあるが、それがしも、命を賭さねばなるまい――諸角豊後どの。参りますぞ」

 柿崎景家隊が信繁隊に押されて後退を続けるさまを横目に、北条高広は「いかん、このままでは柿崎どのも討たれてしまう」と舌打ちし、諸角豊後の姿を乱戦の中に追い求め、「それがしは越後北条城主にして未来の厩橋城代、名門大江家の末裔、北条高広。諸角どの、一騎打ちを所望する」と叫び続けた。


 北条高広隊のすぐ近くでは、柿崎景家隊が武田信繁隊の猛撃を受けていた。

 戦場では鬼となる柿崎景家は、同時に、阿弥陀仏への信仰心深い仏の将でもある。姫武将と正面から「殺し合い」に及んだ経験がなかった。信玄の妹・信繁が「車懸」の「刃」の中に全軍で突進してきたさまを見た柿崎は、(信玄の妹ぎみ、だとおおおお!? いかん。いかん。私には、うら若き乙女は斬れーん! だ、だが、討たねば、謙信さまが討たれてしまう!)と惑った。その一瞬の躊躇が、ほころびとなった。信繁が戦場でその持てる「全力」を解き放って戦った姿を、これまで、越軍の誰も見たことがなかった。

「典厩信繁、ここに見参! 柿崎和泉守! 勝負!」

 信繁を先頭に、信繁隊の全兵が一個の鋭い「きり」となって「車懸」の外殻を強引に断ち割りつつあった。

 武田の副将だ! 諏訪法性の兜だ! と信繁に槍をつけようと打ちかかる越兵を、信繁は馬上から容赦なく次々と斬り捨てていく。

 柿崎景家は、ただちに己の甘さを悟った。

 強い!

 あまりにも強い!

 私が間違っていた! この者、ただの可憐な姫武将などではない!

 あるいは、武田信玄を超える武と才覚と器量の持ち主……!

 これが、武田の副将……そうか。武田には、はじめから「将」が二人存在したのだ! 孤高の一匹狼であった村上義清がどれほど武田を破り続けても、ついに敗れ去ったはずだ!

 戦場には男も女もない。そこに戦う者は等しく「人間」のみ。「もののふ」のみ。村上義清の口癖を、柿崎景家は唱えていた。鬼にならねば、この英傑は斬れぬ。

「南無阿弥陀仏! そして、謙信さま! 私の罪を許し給え!」

 黒馬を駆り、武田信繁のもとへと、突進していた。

「姉上の運命は、絶対にここで覆す! わたしの命とともに、その命、持っていく……!」

 信繁が槍を構え、柿崎景家と交錯しようとしたその時。


「北条どの、隙ありいいっ! お覚悟!」

憤怒ふんぬ!」

 北条高広が、一騎打ちを受けた諸角豊後が突き出した槍を自らの肩で受けると同時に、全身の筋肉を瞬時に硬直させて槍の穂先を「食って」いた。

「……ぬ、抜けぬ!? 貴様、筋肉で槍先を……なんとおおおお!?」

「やれやれ。天晴れなお腕前。ほんのわずかの差で、心の臓に食らっていたところ。勝負とはまことに紙一重。それがしが拾った運は、毘沙門天のご加護でありましょうか。いずれ冥土で再会いたしましょう、諸角どの」

 諸角豊後の槍の初速が、あまりにも速かった。北条は、諸角との一騎打ちに敗れていた。しかし槍を避けきれなかった北条高広は、咄嗟とっさに、致命傷となる心臓をかばって肩で槍を受けた。肩は破壊されたが、長尾政景に勝るとも劣らぬ規格外の筋力で槍先を「固めて」しまった。

 諸角豊後は槍を手放して太刀を抜こうとしたが、北条高広は諸角豊後と交錯するより先に、すでに大太刀を抜き終えている。

「……無念! 信繁さま! こちらに気を取られては、なりませぬうううう!」

 北条高広が大太刀を一閃し、諸角豊後の首が蒼天へ飛ぶと同時に。

 柿崎景家が「南無阿弥陀仏!」と涙声を振り絞りながら、信繁の肩から胸にかけて袈裟斬りに斬っていた。その柿崎景家の首筋からも、鮮血が飛び散っていた。信繁と柿崎景家の馬が交錯するその刹那、信繁の槍が柿崎景家の首をかすめていた。信繁の執念と技量とは、悪鬼と化した柿崎景家のさらに上を行った。喉仏に、命中するはずだった。だが、

(……諸角……!)

 諸角豊後討ち死にの衝撃が、信繁の手許をほんのわずかに、狂わせていた。

 文字通り首の皮一枚で命を繋いだ歴戦の猛将・柿崎景家は、無意識のうちに「敵将」めがけて太刀を振り下ろしていた。

 相手がまだうら若い姫武将であると、考える暇もなかった。

 剛剣。

 心臓そのものを叩き斬る、致命傷となった。

 武田信繁は、この一刀で絶命した。

(……姉、上……)

 蒼天に、羅睺の星は、見えない。

 姉上の命を、わたしの命と、等価交換できたのだろうか。

 勘助。

 あとを、お願い――。

 急激に肉体が朽ちていく中。

 わずかに残されたいくつかの想いとともに、信繁の命が、川中島八幡原に散った。

「……私は……私は……斬って、しまったのか。わが娘ほどの歳の、姫を。これが、武家の宿業というものなのか。謙信さま……あなたさまがあれほどに出家に焦がれたお気持ちを、私は、今になって……私は、あなたさまと信玄との間に、お二人の友情に結ばれた関係に、なんという遺恨を……」

 雄雄雄雄雄、と柿崎景家が咆哮ほうこうする声が、八幡原に鳴り響いた――。


 諸角豊後、討ち死に。

 武田典厩信繁、討ち死に。

 本陣の隣に陣を敷いてかろうじて耐えていた武田義信は、この急報を聞くや否や、完全に逆上した。もはや、小姓や副将たちが止めても、聞かなかった。

 馬を駆り、信繁と諸角豊後が切り崩し揺らいでいた「車懸」の陣立てをも無視して、まっしぐらに「円」の中心部分へ――上杉謙信の本陣へと突進していた。もう、生還するつもりなど、ない。この合戦の元凶を。上杉謙信を殺す。もう、飯富兵部の到着を待つつもりも、ない。俺一人で戦ってやる。姉上。兵部。そして、次郎姉さん。俺は、武田の「男」だ。俺がもっと有能な武将になっていれば、姉上が親父を追放することもなかった。姉上が当主を継いでこれほどに苦しむこともなかった。次郎姉さんが討ち死にすることもなかった。

「よくも……よくも。よくも。よくもやりやがったな……! 次郎姉さんを……殺してやる! 殺してやる! 越軍め! 上杉謙信め! てめえら、一人残らず殺してやる! 殺してやるからなあああああ!」

 全軍総掛かりでの突撃陣形である「車懸」の円の中心――上杉謙信率いる旗本隊は、わずか五十。

 しかし「車懸」に一体化した越兵は全員、死兵と化している。決して外殻の「刃」を突破されることはないはずだった。しかし、信繁がその「刃」を切り崩した。「武田信繁討ち死に」の衝撃は、敗走寸前となっていた武田軍の将兵たちを、かえって奮い立たせていた。

 信繁さまが、御屋形さまのために命を差し出された。信繁さまは姉に武田家の家督を差し出し、甲斐一国を差し出し、ついにその命まで差し出された。最後の最後まで、御屋形さまの妹ぎみとして生き、そして死んだ。

 もはや一人として、この八幡原から逃げる武田兵はいない。ここで逃げれば、もう、生きる資格がない。甲斐にも信濃にも帰れぬ。生き恥を晒すことはできぬ。

 しかも、「車懸」の主力たる柿崎景家と北条高広は深手を負っていた。柿崎景家に至っては、「南無阿弥陀仏……我を許し給え……謙信さま……」と馬上で涙を止めることができないでいる。

 武田信繁討ち死にを知った謙信自身もまた、この時、絶句し、采配を振ることができなかった。

「車懸」は、乱れた。

 謙信へと至る狭い一筋の「道」が、開いた。

 その一筋の「道」を、獣のような嗅覚で武田義信は突き進んでいた。

「俺の命をくれてやる。謙信、絶対にてめえを殺してやる。ブッ殺してやる……!」

 義信は、丸裸状態で「車懸」の中心部に孤立している謙信へと、一気に迫った。「車懸」は、主力将兵のすべてを円の軌道上に配置する異形の陣形。中心点たる謙信の周囲には、わずかな旗本衆しかついていない。孤独な陣形だった。まるで、謙信を閉じ込めている毘沙門堂そのもののような。

 見えた。

 いた。

 あいつだ。あの白い行人ぎょうにん包みを被っている姫武将が、上杉謙信!

 小さい。幼い。だが、毘沙門天の化身を名乗っている神がかりだ。武田家のなにもかもを否定し、頓挫させ、滅ぼそうとしている女だ……!

 よくも。よくも。次郎姉さんを……姉ちゃんを……よくも……!

 殺す。絶対に殺す。腕を落とされようが、足を落とされようが、絶対に殺す!

 全身殺意の塊と化した義信は、呆然と馬上で天を見上げていた上杉謙信へと、肉薄した。

 互いの目が合った。

 雪兎のように、赤い瞳。

 泣いている。

 声を殺して、泣いている。

 小さな身体を、振るわせている。

 己を守る気が、ない。

 俺に討たれるために、俺を、待っている。

 ああ。

 これが。

 上杉、謙信。

 姉上が、惹かれてやまなかった――。

 馬鹿な俺にもわかる。

 この子を。

 誰も、斬れなかった理由が。

 だが。

 俺は――俺は。

「小僧! 謙信を斬る資格を持つ男は、この俺だけよ! 貴様の一時の感情などに巻き込ませて、謙信を死なせはせん!」

 猛然と謙信と義信の間に割って入ってきた巨漢が、いた。

 長尾政景。

「んだょ、てめええええっ!? 邪魔するなああああああっ!」

「黙れ、小僧があああ! 謙信は、この俺の……!」

 政景が繰り出す剛剣を、義信は己の剣一本で、防ぎ止めていた。

 謙信まで、あと一歩だった。しかし、いずこから長駆してきたのか、長尾政景の執念に阻まれた。

 義信隊の兵士たちと、政景隊の兵士たちが、どっと槍を繰り出して衝突していた。

 謙信の姿は、もう、見えなかった。

 やべえ。右腕が、言うことをきかねえ。

 この男は、化け物のように強い。

 もう、今さら帰還するにも、帰還する道もねえ。

 謙信も、討てねえ。

 兵部、ごめんな。

 死を、覚悟した。

 義信は、瞑目していた。


「御屋形さま。長らくお世話になり申した。信繁さまを失った今、義信さまだけは救わねばなりません。この勘助が、最後の手段を用いて義信さまを救って参ります。軍師としての、けじめをつけて参ります」

 信繁討ち死にの一報を知り、静まりかえっていた武田本陣――山本勘助は、蒼天に隠れている信玄の宿星「羅睺の星」がなおも「死の運命」に捕らえられたまま動かないでいるさまを隻眼で眺めながら、(なんたることだ。やはり「天命」は、人間には変えられぬのか。信繁さまのお命をもってしても、なお! 戸隠の烽火はまだか。「石」は壊せぬのか。別働隊も、まだ到着できぬのか! もはや、御屋形さまを修羅の道に誘ったこの山本勘助が御屋形さまの身代わりとなるしかない。それがしと信繁さまの二人をもってすれば、必ずや……たとえ、たとえ無駄なあがきであろうとも……!)と討ち死にを決断していた。むろん、一か八かの「賭け」のために無駄に死ぬつもりなどない。山本勘助は、軍師である。最後の最後まで、全身全霊、知謀を振り絞って信玄を救うために抗い続けねばならない。

「勘助。ほんとうに、お前まで行ってしまうのか」

 すでに全軍が越軍との死闘へと投入されている。あくまでも無言を貫き姉の影武者を務めている逍遙軒信廉しょうようけんのぶかどと、武田信玄、そして山本勘助の三人だけが、本陣に残っていた。「風林火山」の軍旗が、静かになびいていた。

「武田の軍師の職は、真田幸隆どのに。今にして思えばあのお方は、どうやら幼子の時代に戸隠の『石』の力を浴びて、『不老』の身体を得ておられたようでございます。不老となりながらもある程度までは歳を重ねたのは、敢えて、でございましょう。幼子のままでは、子は産めませぬからな。勘助、それ故にあのお方の『力』に今まで気づけませなんだ。それがしは、本来ならば御屋形さまにこの首を差し出さねばならぬところですが、最後のご奉公が残っておりますれば……義信さまのお命を必ずやお守りいたしまする。それがしはこれにて、おいとまいたしまする」

「……どうしても、止められぬか。お前は、ただ太郎を救おうとしているだけではあるまい。上杉謙信と相打つ最後の策を、繰り出そうとしているのだろう」

「そのとおりでございます。そして、止められませぬ。なぜならば、それがしが向かわねば、御屋形さまの運命は……」

「運命は自らの手で切り開くものだ、勘助。お前が命を捨てたとて、あたしの運命は変わらぬ。それでも、行くのか」

「……四郎勝頼さまを、武田の妹として、たいせつになさってくだされ。佐助より託されし小猿どのも、育てねばなりません。どうか、生きて、この川中島の輪廻より甲斐へとお戻りくださりませ。勘助、最後のお願いでございまする」

 信廉どの。必ずや別働隊は来る。高坂も馬場も飯富兵部も、そして幸隆どのも、まもなく八幡原に駆けつける。なんとしても御屋形さまを守れ。主命にそむこうが構わぬ、と勘助は信玄の背後に座していた逍遙軒信繁に告げると、不自由な足を引きずりながら馬へと乗っていた。

 武田信玄は、耐えた。涙を流してはならないのだ、と思った。

「さらば、わが師よ。さらば、わが友よ。お前が現れてくれたから、あたしは、生きられた。強く、なれた。あたしは、最後の最後まで、生きる。絶対に、あきらめない。生を手放さない。お前に、約束する」

「ご立派に、なられました」

 もはや悔いはない。それがしは最後のご奉公を果たすのみじゃ、と勘助は呟き、信玄のもとを去った。


 勘助が乗った馬のくらには、佐助に与えたものと同種の「地雷火じらいび」が仕込まれている。だが、薄く、小さい。敵に地雷火を搭載していることを悟らせぬよう、極限まで小型化してある。有効範囲は狭い。上杉謙信にぎりぎりまで接近し、自爆する。下策中の下策だが、もはや、この方法以外に信玄の命を救う術はなかった。信玄にも、知られてはいない。

 義信さまが長尾政景と戦っておられる間に。

 義信さまが命を落とされる前に。

 この無限に続く「円運動」の中心点へと――上杉謙信へと接近して、もろともに自爆する他はない!

 いかに謙信といえども、毘沙門天の化身といえども、軍神といえども、南蛮渡来の火薬の爆風をかわすことはできぬ!

 だが、あとわずかで謙信のもとに到達できるはずだった山本勘助の前に、ただ一騎で立ちはだかった男がいた。

「越後宇佐美流軍学継承者、琵琶島城主、宇佐美定満。お久しぶりだな、山本勘助どの。直接顔を合わせるのは、戸隠での和睦会談の時以来か。あれは、二度目の川中島合戦の時だったな……」

 宇佐美定満。

 戦乱の越後に謙信という希望を見出し、義将として育成してきた男。

「悪いが、ここは絶対に通せねえ。奥の手を隠しているのならば、ためらわずに今ここで使えよ。オレを殺すためにな。出し惜しみすれば、あんたが死ぬことになるぜ」

「あいや。宇佐美どの、そうはさせぬ。宇佐美どのを討ったところで、この戦を終わらせることはできぬ。御屋形さまの運命を切り開くには、上杉謙信どのをころしたてまつる他になし! 押し通る!」

「ならば、オレはあんたをここで討たねばならない。こいつは、謙信が……景虎が追い求めてきた『義』からは、程遠い戦いだ。それでも、オレは謙信の命を守るためならば、どんな手でも使える。忍びにも、暗殺者にもなる――」

「これ以上の言葉は無用! 御屋形さまの志が勝つか、謙信どのの義が勝つか、いずれが川中島の大地に立って生き延びるか。そなたとそれがしのどちらが、種をいてたいせつに育ててきた『花』が咲き、実が熟する瞬間を見ることができるか。どちらが正しかったのか。あるいは」

「どちらが、より、この乱世に深く憤っていたのか。オレとおっさん。どちらの信念が、より、強かったか――どちらが、より、絶望していたのか。いや。どちらがよりまぶしい希望を、見出していたのか――この勝負で、決着がつく。結論が、出る。行くぜ」

 宇佐美定満は手袋で指を守ったその指先に、見えない糸をたぐっていた。

 これは尋常の武士の技ではない。忍びの術である。鬼謀の術の使い手である。今の今まで、隠匿していたか、宇佐美定満。

 山本勘助は、(できるのか。地雷火を爆破せずに、なんとしても突破せねば。この男を――妙高の山の如き高さで、それがしと御屋形さまの前に立ちはだかるこの者を!)と歯ぎしりし、隻眼を血走らせて、馬の尻に鞭を入れた。

「宇佐美定満どの。勝負!」

 勘助は馬上で大小の二刀を両の腕で抜き放ち、高々と掲げながら宇佐美定満へと迫った。二刀流!? 宇佐美定満は必殺の糸をたぐり寄せながら、勘助の左右の腕を同時に寸断しなければならなくなった。だが、勘助の構えはあまりにも隙だらけだった。己の腕を守る気がない。

「自ら糸を食らって輪切りにされるつもりか? おっさん、死ぬ気か!? そうか! その二刀は、餌だな! あんたの五体がバラバラとなっても、その馬さえ謙信のもとへ辿たどり着けば……ならば、馬を!」

「もはや間に合わぬぞ宇佐美定満どの! 馬の脚に糸をかければ、それがしの二刀がそなたの額を叩き割る!」

「見事だ、山本勘助。ハッタリでは、誰よりも上を行くと自惚うぬぼれていたが……オレさまも、老いたな。ならば、オレはここで、あんたとともに逝こう」

 宇佐美定満は勘助が乗った馬の鞍へと、見えない糸を投げ放っていた。

「あんたの奥の手は、そいつだ! その鞍だ! 並の鞍に見せかけてあるが、わずかに太く、大きい! 糸で鞍を断ち切り、摩擦熱で着火させる! オレもあんたも死ぬが、あんたがここで着火させないということは、だ! 今爆破すれば、謙信にはぎりぎりで届かねえ!」

「宇佐美定満、それがしの最後の策を見破ったか! 無念! だが、まだだ、まだあきらめぬ! わが命尽きるまで、断じてわが魂は折れぬ! ぬっ、ぬおおおおおおお!」

 山本勘助は悪鬼の形相と化した。馬首を翻して、宇佐美定満が投げてきた糸の「罠」を避けようとした。奇跡のように、勘助を乗せた馬は突如としていななき、身体をけ反らせ、見えないはずの糸をすり抜けていた。

「なっ、なんだと!? しまった……! 謙信!?」

 わずかに、甘かった。宇佐美定満どの。謙信どのの「義」を守り貫かねばならぬというそなたの甘さが、この土壇場でこの鬼の勘助の最後の執念に敗れたのよ。

 最後の策の成功を確信した勘助を乗せた馬が、「戻れ! 戻ってこい! 急げ!」と投げた糸を再びたぐり寄せている宇佐美定満の脇を全速力で駆けていた。

 彼方に、謙信の小さな影が、見えた。

 謙信を守っていたわずかな旗本衆すら、今や全員が死兵と化して押し寄せて来た武田義信隊の猛攻を食い止めるべく、「車懸」の中心部から遠く離れた長尾政景隊に合流して乱戦を繰り広げていた。

 今、謙信は、蒼天のもとにただ一人きり。

 美しい。

 化生けしょうの者の如く、美しい。まるで天女のように。

 だが、勘助はその感動を押し殺して、武田軍軍師としての「笑顔」を無理矢理に浮かべていた。人としての自然な感情を封じてでも黒い笑みを浮かべねば、し損じてしまう。

 だから、泣きながら、笑った。

 勝った。

 御屋形さま。

 申し訳、ござりませぬ。

 あなたさまの無二の親友を、この勘助、討たせていただきまする。

 これも、御屋形さまの運命を――天運を、覆すため。

 謙信どの。

 それがしのように醜く老いさらばえた男とともに逝くのは不本意でありましょうが、お許しくだされ。

 あとわずか。

 あと数歩。

 謙信の小さな身体を確実に致死の爆風に巻き込める距離に入るまで馬体が進むまで、あと一歩か、あるいは二歩だったか。

 起爆を――と自由が利くほうの足で鞍を蹴り上げようとした勘助の五体に、まるで稲妻に打たれたかのような衝撃が走った。気がつけば、勘助は宙を舞っていた。勘助は隻眼である。見えない側から、死角から、なにか堅い棒のようなもので横殴りに殴られ、馬から振り落とされていた。もう、謙信の姿は、見えない。目に映る光景は、川中島八幡原の彼方に広がる、蒼天のみ。

「邪魔立てするな、この下郎があああああっ! 俺の『夢』を、貴様の如き甲斐のよそ者などに奪わせはせん! 謙信にはかすり傷ひとつ、つけさせんぞおおおおお!」

 この怒声は、長尾政景。なぜじゃ。なぜこの男は、修羅と化した義信さまとの攻防を打ち捨てることができた? なぜ遠く離れた謙信どののもとに戻ってこられた? なぜそれがしの最後の策に勘づいた? なぜ。なぜじゃ。なにもかも、理では、わからぬ。

 あるいは、これが――。

 これが、男が女を愛する、ということであったのかもしれぬ。

「フン。義信隊の相手は本庄繁長に委ねた! あの忠犬ならば、血だるまになってでも義信を防ぎ止め、討ち取るだろう! 山本勘助。『馬』は解き放ってやる! あいつが、貴様の最後の武器だったようだからな!」

 勘助は、最後の力を振り絞って地を這った。が、身体がほとんど動かない。全身の骨も内臓も粉々に砕け散ってしまったらしい。かろうじて無事な臓器は、心の臓くらいか。もはや、この身体では。つえなくしては、立ち上がることもならぬ。心は折れぬと誓った。だが、身体が言うことをきかぬ。この壊れた片足は、いかなる「気合い」を込めようとも、動いてはくれぬ……! それでもなお、勘助は無様にも這い続けた。ほんのわずかでも、謙信へと近づくために。すでに地雷火を失ってもなお。

「……お……御屋形さまああああっ! それがしに、力を……!」

「この期に及んで、なんという未練! 貴様も武士ならば、潔く死ね! これが、とどめよ!」

 怒りに震える長尾政景が全身から恐るべき「殺気」を解き放って、大地へ転がりもはや立つことも叶わぬ勘助の背中へと、太刀を投げつけようとした。

 だが、この時。

 の刻。

 長尾政景は。

 そして、山本勘助は。

 千曲川を渡河し、怒濤どとうの勢いで八幡原めがけて殺到してくる「風林火山」の軍旗を見た。

 妻女山へ登っていた、真紅の武田別働隊。

 その兵数は、一万二千。

 ついに、間に合ったのだ。

「村上義清から逃げ切りました! 信玄さま! 軍師どの! ただいま、参ります! 円を描いていた『車懸』の陣形は完全に崩れています! 武田は、勝てます!」

 逃げ弾正こと、高坂弾正。

「『飯富の赤備え』の速度をめんな! まくってやったぜ! 太郎、あたしを置いて勝手に討ち死にすんじゃねえぞ! 水くせえんだよ、馬鹿野郎! 死ぬ時は、一緒だ!」

 武田最強最速の「赤備え」を率いる、飯富兵部虎昌。

「山本勘助どの。死んではなりません。あなたは、武田家のために、そしてわれら山の民たちのために、生きなければならないお方。今、参ります」

 三途の川の渡り賃――六文銭の旗印を掲げる、真田幸隆。

「……全軍、左右に展開して越軍を包囲挟撃。決して犀川さいがわを渡らせるな。背水となった越軍はこれより死にもの狂いで攻めかかってくる。一歩も退くな。不動の『山』となり、信玄さまをお救いし、謙信を討ち取れ。武田の未来を切り開けるか否かは、この一戦にかかっている」

 別働隊総大将、馬場信房。乾坤一擲の「啄木鳥」が破れ武田軍がこれほどの窮地に立たされてなお、ついに冷静沈着さを失うことなく村上義清の追撃をかわしきり、別働隊全軍を八幡原まで行軍させることに成功していた。

 長尾政景にはもはや、致命の一撃を受けて立つこともできない老軍師などに構っている余裕はなかった。

 上杉謙信は、武田信玄に、敗れた!

 不敗の軍神は、毘沙門天の化身は、今、武田家に集まる人間たちの執念によって、打ち倒されようとしていた!

 謙信はこれで天から地へと落とされる。喜ぶべきことなのか。いや、そうではない。すでに武田軍は甚大な死者を出した。副将の武田信繁までが、散った。別働隊が八幡原に到着したからといって、このままこの決戦が終わるはずがない。武田軍は、全滅するつもりで、越軍に攻めかかるだろう。しかも謙信には、戦意がない。信繁が死んだ、と知った時から、己が犯した罪の重さに押し潰されたかのようにずっと馬上で泣いている。童女のように、震えている。このままでは謙信は、手負いの虎と化した武田軍に容赦なく討たれてしまう!

「お、お……俺の夢が、川中島に散る。俺の、見果てぬ、夢が……やらせはせん。もう、越後守護の座も春日山城もなにも要らん! 宇佐美定満ううううう! 謙信を守れええええっ! 軍師ならば、策を出せええええっ! 俺の命を、使い捨てろおおおおっ!」

 もう、糸は捨てていた。まるで信玄と謙信の運命を絡め取っている『血塗られた』赤い糸のようだ、縁起でもねえ、と漏らしながら。

 宇佐美定満は馬を飛ばしながら、政景へと、そして八幡原の至るところで武田兵を相手に死闘を繰り広げていた越後の諸将たちへと、命じていた。

「あの別働隊を切り崩さねば、犀川に辿り着くのは困難だ! もういちど『車懸』の陣形を固め直して武田軍と正面から激突する以外にこの死地を脱する術はない! 武田義信は本庄の坊やに任せ、オレたちで謙信を包み込む!」

「毘沙門堂のようにか! だがもはやそのような余裕はないぞ、宇佐美! 越軍の半数近くがすでに負傷し、あるいは死んでいる! 武田別働隊はほぼ無傷だ! 恥も外聞も捨てて、わずかな手勢しか率いておらぬ村上義清から逃げ仰せるとは……これでも武士か……!」

 政景の旦那。その恥も外聞も捨てた武田の「家族」たちの「執念」に、オレたちは敗れようとしている。ここで謙信を守るために武田と戦って死ぬか、二つに割れようとしている越後を守るために琵琶島が浮かぶ湖でともに死ぬか、いずれにしてもどうやらオレと旦那とはそういう腐れ縁だったらしい、と宇佐美は破竹の勢いで進軍してくる「風林火山」の軍旗を眺めながら呟いていた。


 薄れゆく意識の中で、山本勘助は、たしかに無数の「風林火山」の軍旗が八幡原に翻る光景を、見た。馬場信房も。高坂弾正も。ほんとうに、成長してくれた。よくぞ、村上義清の決死の追撃を振り切って脇目も振らずに八幡原へと駆けつけてくれた。よくぞ、間に合ってくれた。

(かけがえのない犠牲を払いながら、「啄木鳥」は、成った。信繁さま。ご覧くだされ。あの「風林火山」の旗を。武田が誇る赤備えの騎馬隊を。すでに武田本隊を相手に死闘を繰り広げて消耗しきった越軍は袋のねずみ。お味方の――御屋形さまの、勝利でございますぞ)

 勘助はもう、目を開いていられなかった。眠い。意識が、消えようとしている。だがまだ耳の機能は生きていた。

 戸隠の方角から、大轟音だいごうおんが鳴り響いていた。

 佐助たちがやってくれた。戸隠の「石」を洞窟ごと塞いだのだ、と知った。しかし、相手は魔人・加藤段蔵率いる戸隠忍群。あるいは、佐助も、逝ったのやもしれぬ……あの、天真爛漫てんしんらんまんな佐助が。人の心の業やけがれというものをすべて置き忘れて生まれてきたかのような娘が。あるいは、この信濃の山にまことに「神」がいるとしたら。

 これでよかったのだろうか。これほどの犠牲を払って上杉謙信を討ち取ることが、ほんとうに、御屋形さまの幸福に繋がるのだろうか。

 だが、御屋形さまの「運命」を覆すには、他に道はなかった。これしか、なかったのだ。羅睺の星が見えぬことだけが無念じゃ、と勘助は思った。

(幸隆どの。どうか、武田を、御屋形さまを、お頼み申す。御屋形さまに、勝利の次は、「幸福」を――)

 そこで勘助の意識は途切れた。

 赤と黒の甲冑かっちゅうに身を包んだ武田軍と越軍の激戦の最中、老いた隻眼の軍師の亡骸なきがらに気づくものは、誰もいない。そのような余裕は、この猫の額のように狭い八幡原で両軍合わせて三万を越える大軍が密集し闘志を剥き出しにして激突する前代未聞の殲滅戦の中では、誰にもなかった。ただ一人を除いて。



 武田信玄と上杉謙信とがともに夜霧に紛れて八幡原へ行軍していたその頃、「霧」の風上である戸隠の山にも、真田忍群が突入していた。夜が明け、風下の八幡原では霧が晴れた後もなお、標高の高い戸隠の山中には白い霧が立ちこめていた。八幡原で甲越両軍が激突し、兵士たちが倒れていくのと軌を一にして――視界を塞がれた真田忍群の忍びが、数に劣る戸隠忍群の忍びが、互いの秘術を尽くして相打ちとなり、一人、また一人と倒れていく。

 八幡原の戦況を窺う余裕は、誰にもない。ただ言えることは、ついに「決戦」がはじまった以上、あと数刻は越軍も武田軍もこの戸隠には来られないということだった。戸隠の真のご神体である「石」と「九頭竜」の両神をまつる「奥の院」と「九頭竜社」は、「龍窟」とも称される洞窟に隣接している。加藤段蔵はこの龍窟に結跏趺坐けっかふざし、猿飛佐助の襲来を待った。佐助は必ず「地雷也」とともに来る。洞窟を「地雷火」で吹き飛ばし、「石」を埋めてしまおうとしている。「石」を地下へと葬り去れば、戸隠忍びは二度と生まれない。北信濃は、人間の国となる。それが、毘沙門天の化身を名乗る上杉謙信を打ち倒すべく、武田信玄が成さねばならないと定めた「道」なのだ。

「石」を守ろうとする者たちと、「石」を葬り去ろうとする者たち。互いに、「力」を持っている。凄惨な暗闘が、霧の中で続いた。なるべく互いに犠牲者を出さずに穏便に「仕事」を進めようとしてきた今までの真田忍群とは、まるで違った。一人一殺とも言うべき覚悟で、道を切り開いていく。戸隠山の要所に配置された砦――宝光社、中社、火之御子社は真田忍群の手でことごとく火を放たれて陥落し、残る砦は天照大神が籠もっていた天岩戸を開いた剛力の神・天手力雄命を祀る「奥の院」と、天津神よりも国津神よりも古き戸隠の地主神・九頭龍大神を祀る「九頭竜社」だけとなった。城にたとえれば、この二つの社が、本丸に当たる最終拠点である。

「この洞窟の奥に、信玄が目指す『石』が――ご神体がある。地雷火で洞窟を埋めたところで、『石』は砕け散らん。九頭竜が目覚めることはない。だが、戸隠山の『霊山』としての歴史は、終わる。俺は俺の魂を戸隠に縛り付けてきた『石』を憎み続けてきたが、武田信玄に『石』を、戸隠を奪わせるわけにはいかん。『石』は、俺たち戸隠忍群のものだ。武田のものではない!」

 真言を唱え続ける加藤段蔵が籠もる洞窟の入り口に、霧隠才蔵は立っていた。

 もう、何時間になるだろうか。

 寝食も忘れ、五感のすべてを断ち切って、「霧隠の術」を放ち続けていた。戸隠山から飯縄山にかけての山々のことごとくを、霧で覆い隠すために。少しでも気を抜けば、「力」が暴発して才蔵の五体は飛び散ってしまう。鼻からは、多量の血が溢れていた。才蔵は深夜から、本来の限界を超えた規模で「力」を用いている。それでも彼女が生きていられるのは、洞窟に籠もる加藤段蔵が唱える真言が才蔵の「力」を増幅しているからである。

「……だが、わが霧隠の術も、そろそろ限界だ。あと半刻、保つかどうか……どうしても、失いたくはなかった。異端を信仰する異教徒としてわが一族は狩られ続け焼かれ続けてきた。ジパングを侵食しようとしているバチカンの宣教師どもに、一神教に取りつかれたあの狭量な未開人どもに、『神はキリシタンの神だけではない。ジパングの山々に、異なる神はおわす。人間の頭が生みだした観念の神ではなく、自然神そのものが』と、どうしても知らしめたい。私はそのためならば、ここで倒れても構わん!」

 もはや限界が近づいていた。太股ががくがく震える。立っていられない。「五感断ち」を貫く集中力すら、薄らいでいた。

 白い霧の彼方に、影が見えた。

「才蔵どの。ここは南蛮でも仏蘭西ふらんすでもござらん。日ノ本にござる。この山々と大地と海とに神がおわすことは、日ノ本の人間ならばみな身体で感じて知っているでござるよ。才蔵どののようなめんこいお方が――人間が、『石』のために死ぬなど、無駄でござる」

 その少女の声に、才蔵は聞き覚えがあった。ともに戸隠で出会い、「石」の力を浴び、術に目覚め、修行し、そして人里に下りるか否かで対立してたもとを分かってしまった、妹のような存在だった。

「佐助」

「中社の三本杉を焼き払わずに結界を突破するのに、少々、骨が折れたでござるよ才蔵どの。謙信どのと信玄どのの二人にとっては、思い出深いご神木でござるからな。拙者と才蔵どのにとっても。うきゅきゅ」

 佐助以外にも、人の気配があった。霧に覆われて、顔は見えない。真田忍群の最後の切り札――地雷也か、と気づいた。

「地雷也どの。『石』は、奥の院の社と九頭竜社に連なる洞窟に鎮座しているでござるよ。才蔵どのと仲直りしたら、すぐに案内するでござる。下がっているでござる」

 甘い南国の匂い。佐助はどうやらバナナをほおばっているらしい。相変わらず人を食っている、と才蔵は思った。

「佐助。闘気も殺意も持たずに、私の前に現れたことを後悔するがいい。断じて、洞窟には立ち入らせぬ。お前を斬ってでも、『石』は、守る」

「才蔵どの。もう、霧に隠れて引きこもるのはやめるでござる。拙者とともに、真田の庄で人間として暮らすでござる。『石』で九頭竜を封じ続けて、それで朽ち果ててしまっては、なんのために生まれてきたのかわからぬでござるよ。才蔵どのは――それほどに『神』が見たいのならば、九頭竜が駆けるさまを、その目で見てみたくは、ないでござるか」

「それが武田の考え方なのだ、佐助。みだりに封印から九頭竜を解き放てば、信濃は滅ぶ。下手をすれば日ノ本そのものが……戸隠の『石』に力を与えられたものは、『石』を守り、九頭竜よりこの国を守護せねばならない。われらが与えられた力は、祝福であり、同時に、呪詛じゅそだ。この大地そのものを、自然そのものを、人間は止められはせぬ。そのようなこと、人にできるはずがない」

「たしかに、人の力だけでは無理でも……でももしかしたら、あの二人ならば止められるかもしれぬでござるよ。賭けてみるでござる」

「……私をどうしても戸隠から連れ出すつもりか、佐助! もう、やめてくれ……! 私は人間の世界になど、もう、戻りたくはないのだ! 英仏百年戦争でわが始祖が異端としてルーアンで火刑に処されて以来、わが一族がどれほど長きにわたって教会に異端として弾圧され、拷問され、犯され、殺されてきたか、お前は知らない! 『石』のもとこそが、私にとって最初で最後の安住の地だ! ジパングで、ようやく見つけたのだ……! 私を罰さぬ神、私を犯さぬ神を、だ! 邪魔をするな。私の心を乱すな……!」

「真田の庄には、南蛮人も異端もキリシタンも山の民も猿人もないでござるよ。すべての人間は、等しく、人間として生きられるでござる。しかも、人々を束ねながら同時に魂を縛り付ける『神』に頼ることもなく。幸隆どのは、そのような公界を築くために、『人間の王』たる信玄さまに賭けたでござる。信玄さまが――御屋形さまが毘沙門堂より謙信どのをどうしても引っ張り出して連れ出したいお気持ち、佐助にもわかるようになったでござる」

 才蔵は、佐助の影へと向けて、十字手裏剣を放っていた。が、当たらない。心が、乱れている。「石」から解放されたい、という言葉にならない叫びが、才蔵の手裏剣術の精度を狂わせていた。佐助の影が、「猿飛の術」を用いて、まったく読めない軌道から接近してくる。右へ。左へ。上へ。下へ。速い。猿飛佐助が「本気」を出して飛ぶ姿を、才蔵は、この時はじめて見た。いや、肉眼で見ることはできない。肌でその気の流れを感じるので、精一杯だった。来る。才蔵は飛んだ。しかし白い霧の中に、ついに佐助にその身体を捕らえられていた。

「とうとう、つかまえたでござる。鬼ごっこは、これでおしまいでござる。拙者とともに、真田の庄へ参るでござるよ。『石』から自由になってしまえば、もう忍びなど、引退しても構わぬでござる。また、姉妹として暮らすでござる――戸隠ではじめて出会った時のように」

「……佐助。私は」

 才蔵が、佐助に返事をしようとしたその時。

 才蔵を抱き留めるために宙で静止していた佐助の胸を、加藤段蔵が投擲とうてきした棒手裏剣が貫いていた。

 才蔵の「霧隠の術」が途切れたことに気づいた加藤は、「ここで結界が破られては戸隠が滅ぶ!」と鬼の形相で洞窟の奥から入り口まで「とびノ術」を用いて瞬時に飛んだ。白い霧の中に、才蔵と佐助らしき影を見た。なにを語り合っているのかまでは、聞こえなかった。「霧」が、邪魔をした。才蔵は身じろぎひとつせず、すでに「力」を放っていない。ついに結界を突破した佐助が「猿飛の術」を用いて跳躍し、力を使い果たした才蔵を刺したのだと、追い詰められていた段蔵は誤解した。思考している猶予など、なかった。忍びとしての本能が、瞬時に、棒手裏剣を投擲させていた。無駄だ、佐助に当たるはずもない、と段蔵は思った。が、その思考よりも速く、腕が動いていた。その一投が、宙に静止していた佐助の胸に、致命の一撃を与えていた。

「佐助!?」

「……ほんの一瞬。才蔵どのに、どうやら、心を奪われてしまったでござる……山猿の拙者としたことが……うっかり、人間の乙女になってしまったでござる。いやはや、命取りでしたなあ。にん、にん、でござるな」

「待て。佐助。行こう。真田の庄へ、行こう。ともに、人として生きよう! 私は……」

「……『姉者』……小猿を……よろしくね……うきゅきゅ」

まぶたを閉じるな! 佐助!」

 この瞬間。

 猿飛佐助の命は、戸隠に散った。


 霧が、晴れはじめていた。

 加藤段蔵には、なにが起きたか、しばし理解できなかった。

 佐助ほどの術者が、あのような挨拶代わりの手裏剣をむざむざ急所に受けて、絶命しているとは。

 しかも才蔵は、佐助に空中で捕らえられていたにもかかわらず、傷ひとつ負っていなかった。

 息絶えた佐助の身体を背負いながら、加藤段蔵の前へと、才蔵は舞い降りていた。

「……俺はいったい、なにをしたのだ。才蔵。俺はもしかして、うぬと佐助とが和解を果たしたその瞬間に……」

「カトー。悔いても、仕方のないことだ。忍びは、敵を殺すために術を磨くもの。だが、願わくば、佐助ではなく私の心臓を貫いてほしかった……佐助に抱き留められたその時、私は貴様を裏切り、戸隠を裏切っていた。私はすでに、抜け忍、だ……」

 私を殺すか、と才蔵は問うた。人の世を捨てて戸隠に籠もってきた自分を人間の世界へと連れ出すために戦い続けてきた妹分の亡骸を、背負いながら。なぜ物言わぬ「石」などのために佐助を失わねばならなかったのだ、私はジパングまで流れてきていったいなにをしていたのだ、と言いしれぬ悲しみに打ちひしがれながら。

「いや。去る者は追わず、それが俺の主義だ。貴様こそ、俺を殺さぬのか。俺は、佐助を殺したのだぞ」

「……そのようなことをして喜ぶ佐助ではない。戸隠最強の術を誇る忍びと忍びとが、この最終決戦の場で、『石』を守る洞窟の入り口で、遭遇した。言葉でなにかを考えるよりも速く身体が攻撃を繰り出すのは、当然だ。獣が、食べ物を狩るのと同じに。そのように、カトー、お前は己の心身を鍛え上げてきた。忍びの世界に生きた者の宿命だ……ただ……私が、白い霧で己を覆い隠してなければ、佐助は、死ななかった」

 そうか。ならば詫びる暇はない、俺は俺の「世界」へと戻る、と加藤段蔵は呟き、才蔵に背を向けていた。

「霧は晴れた。しかし、もう一人の忍び……地雷也の気配が消えている。洞窟へと乗り込み、『石』に迫っている。だが、洞窟の内側は暗黒の迷路だ。佐助抜きでは到達できまい。俺は、ただちに『石』のもとへと再び飛ぶ」

「地雷也を討つのか。最後まで『石』を守り、『石』に殉ずるのか、カトー」

「すぐにわかる。才蔵よ。この失態は、必ず埋め合わせる。貴様への借りは返す。今すぐにな。行け。ここはもう、お前の住むべき『世界』ではない。人に、戻れ」

 白眼のほとんどない「目」で、加藤段蔵は暗黒の洞窟内部を見通していた。白い霧の中では、視界が塞がれる。だが、闇は、加藤段蔵の世界である。自在に駆けることができる――。

 加藤段蔵がなにを成そうとしているのかわからずに立ち尽くす才蔵を置いて、加藤は、飛んでいた。

 地雷也は、いた。

 真田忍群がその正体を秘匿し続けてきた、真田最強の忍び。

 南蛮渡来の爆弾「地雷火」を操り、九頭竜を封じていた砥石城に地震を起こして、ついに武田信玄が二度までも敗れた村上義清を倒した、伝説の忍者。

 だが、その地雷也は、暗黒の洞窟の迷路の中を倒れ、「地雷火」を片腕で抱えながら惨めに這いずっていた。

 見えないのだ。その忍びは、盲いていた。佐助の道案内がなければ、この、蝙蝠こうもりでさえ自在に飛ぶことも叶わぬ迷宮の中を歩いて進むことすらできないのだ。この洞窟内では、銅鐸どうたくに遮蔽されながらも「石」が放つ力が、わずかに漏れている。その力が、蝙蝠の感覚すらを狂わせる。盲目の少女が、まっすぐに進めるはずがなかった。

 加藤段蔵は、「うぬが地雷也だったのか……!?」と声を失っていた。

「武田信虎と村上義清が攻め滅ぼした、かつての望月家の姫か……望月千代女か!? 。家も家族も領地もなにもかもを失いながら、信玄のもとで零落しながらも生きながらえ、盲目の歩き巫女になっていたのか?」

 望月千代女。信濃に暮らす誰もが憧れてやまなかった美しい姫だった。ちらりと彼女の姿を見かけたにすぎない段蔵ですら、心を焦がしたことがあった。今もその美しさは変わってはいない。望月家が滅び去るとともに、その消息は途絶えていた。しかし、千代女は生きていた。かつて望月家の分家筋にすぎなかった真田家に仕える忍びにまで、身を落としていたのだ。

「貴様ほどの名門の姫が。なぜおめおめと生きながらえ、盲目の忍びなどになった!? なぜだ!? 答えよ、望月千代女!」

「死にたく。死にたくなかったのです。人として生まれてきた以上は、なにかを成し遂げるまでは、生きたかった……! でも……もっと。もっと洞窟の奥まで進まなければ、『石』にもっと近づかなければ、『石』を遮蔽している銅鐸を取り去らねば、地雷火は効かないのです。もう……佐助どのがいない今……私自身が『石』に辿り着く以外に、使命を遂行する道は……」

「そうか。うぬは『石』の光を浴びて、視力を失ったのか!? 真田の『双子』は肌の色を失い、俺は白眼を失った。うぬは、瞳を壊されたか。その視力と『力』とを、等価交換したのか……!」

 光を浴びた瞬間に死ぬ者もいる。力に適応して、かつ、なにも欠損しない者もいる。猿飛佐助や霧隠才蔵は、そうだった。だが、力を取り込む代わりになにかを失う者もいる。段蔵自身がそうだった。眼球のうち、黒い瞳のみが肥大し、人ならざる面相となった。しかし望月千代女は、視力を完全に失っていたのだ。

「……人として、か……戸隠の『石』を葬るために地雷火を運んで死ぬ、それがうぬの『生きた証し』だとでも言うのか。死ぬために、生きてきたか。これほどに苦しみながら、恥を忍んでまで。憐れな女よ」

「……幸隆さまは、そして信玄さまは、零落してしかも盲いた私を迎え入れて、生き場所を与えてくださいました。この使命を成し遂げて、死にます!」

「止まれ。止まらねば、このまま頭を踏み潰す」

「……お断りします」

 段蔵は、なおも這って洞窟の先へと進もうとあがく千代女の後頭部を容赦なく踏みつけていた。うっ、と悲鳴が漏れた。顔面を岩の上に押しつけられた時に、脳を揺らされたらしい。

「鼻から血が溢れているぞ。顔が血まみれになったな。しかし、それでもなお、うぬは美しい」

「う、う、う……」

「うぬの『地雷火』ごときでは、あの『石』は爆破しきれぬ。落盤を起こし、洞窟を塞ぎ、『石』を地中に埋めることしかできぬ。それでは意味がない。火薬の量が、足りぬ。うぬは、道化だ。たとえ使命を遂行できたとしても……それはどこまでも、無意味で、無駄な死だ」

「……それは……『石』が封じている九頭竜を、地龍を、完全に目覚めさせぬためです」

「それが無意味だと言っている。武田信玄よ。貴様は、用心深すぎる。猿飛佐助や地雷也を、その程度の使命のために死地へ送るなど、俺は認めん。『神』を乗り越えてみせるというのならば、『神』を目覚めさせてみせよ! 上杉謙信を毘沙門天の高みから引きずり下ろすというのならば、堂々と地龍を駆り立ててみせよ!」

「……まさか。あなたは」

「地雷也。いや、望月千代女。望月家の麗しき姫よ。うぬには、『石』を完全には破壊できぬ。地雷火は、俺がいただく。うぬは、才蔵とともにね。うぬらは知らなかっただろうが――『鳶ノ術』には、このような使い方もある。こんな無茶をすれば、ただちに俺の身体に限界が来るがな」

 加藤段蔵は千代女が抱えていた地雷火を容赦なく奪い取ると同時に、千代女の身体をもう一方の長い腕で高々と掲げていた。そして、てのひらで突いた。触れずして、千代女の身体を、洞窟の入り口へと向けて飛ばしていた。

「行け。そして、生きよ。才蔵が、うぬの身体を拾い上げるだろう」

 ついに黒一色となった目から、血が溢れていた。

 その血が赤いのか黒いのかすら、闇の中では、わからない。

 段蔵は千代女と真逆の方向へ――洞窟の最奥部へと、飛んでいた。

 そこは、「石」を守っている神域。

 巨大な銅鐸が、「石」を遮蔽している。

 段蔵はその銅鐸を、手刀で両断していた。

 いにしえの時代に天から飛来せし、星の欠片かけら

「石」が顕わになり、青白い「光」が段蔵の全身を貫いていた。

 体内で、全神経を集中させて制御していた「力」が暴走しはじめていた。

 全身の血が、沸騰するかのように熱くなっていく。

 加藤段蔵に、死が、迫っていた。

「フハ。フハハハハ! 望月の姫よ。この地雷火にうぬが着火せずともよいのだ。わが『鳶ノ術』が破れた時、俺が放つ『力』が限界を突破した時、俺の五体ははじける。俺は、俺が抱く地雷火とともに爆ぜる。地雷火の火力にわが五体がぜる力が加われば、この巨大な『石』そのものを、粉々に破壊できよう――」

 俺は今、「石」の呪縛から解き放たれる、と段蔵は思った。

「上杉謙信よ。そして武田信玄よ。俺は今、わが命と引き替えに戸隠の『石』の封印を壊し、地龍を――九頭竜を駆る。荒れ狂う九頭竜を止められるか。止められねば、信濃も日ノ本もことごとく滅び去るだろう――天と地の狭間で戦う、気高く美しき姫たちよ。女たちよ。止めてみせよ。戸隠に魂を縛られてきたまつろわぬ者どもの怨霊と、そしてこの俺の怨念とともに、九頭竜を鎮めてみせよ!」


 加藤段蔵の肉体が地雷火とともに地の底で爆発四散し、戸隠に「終焉しゅうえん」が訪れたその時、霧隠才蔵は、

「待て、カトー! 由利鎌之助は、謙信を倒しに川中島へ向かったのだぞ! 飯綱の術は、誰にも破れぬ! 数えきれぬほどの飯綱を操って狙った人間を襲わせ絶命させる、最悪最凶の呪術だ! たとえ謙信といえども無数の飯綱には勝てない。一瞬のうちに骨だけにされてしまうぞ!」

 と段蔵を追いかけようと洞窟へ飛び込んでいたが、望月千代女の身体を段蔵が「鳶ノ術」を用いて飛ばして来たために、千代女を抱き留めねばならなかった。間に合わなかった! と才蔵は歯ぎしりした。

「カトーは、上杉謙信があの由利鎌之助に勝てると信じていたのか!? たとえ飯綱の術をかいくぐることができたとして、どうやって九頭竜を鎮めることができるというのか!?」

 しかし才蔵は、千代女を生かして戸隠から出さねばならなかった。もう、加藤段蔵はことを「成した」。手遅れなのだ。せめて、千代女だけでも。この、戦国乱世に翻弄されて盲目の歩き巫女にまで零落した姫だけでも。

「さらばだ佐助。お前を、真田の庄へ運んで葬ってやりたかったが……山猿は山に還るだけでござるよ、と笑っているのだろうな、お前は」

 洞窟の入り口に寝かせた佐助の亡骸に別れを告げ、崩れ落ちはじめた山々の狭間を跳躍しながら、才蔵は見た。

 九頭竜の、目覚めを。

 キリストの神とは異なる、自然の神。大地の神。

 山脈を揺らし、大地を飛び跳ねさせ、川を溢れさせながら、巨大な龍が縦横に駆ける姿を。

「……そうか。われらが生きるこの世界そのものが、巨大なひとつの命であり、神そのものなのだ。大地は、荒ぶる神の背中なのだ……!」

 才蔵に抱きかかえられた千代女が、「……目覚めて、しまいました。誰かが九頭竜を鎮めねば、川中島で戦う甲越両軍の人々は、みな死んでしまいます……!」と涙混じりの声をあげていた。



 戸隠の地底を震源とした甚大な規模の地揺れ――破局的な地震が北信濃一帯を襲ったのは、山本勘助が戸隠から押し寄せる「爆音」を感知して武田軍の勝利を確信し、息を引き取った直後のことだった。「戸隠の『石』を地雷火で封ずる」という作戦を立てた武田信玄はもちろん。山本勘助も。真田幸隆も。猿飛佐助ですらも。誰も想定していなかった事態が、起きた。己の命と引き替えに信濃の九頭竜を解放せんとした加藤段蔵の怨念か。あるいは己の魂を戸隠から解放したいと願った加藤段蔵の「救済」を求める叫びか。戸隠の「石」と諏訪の「御柱」とに急所を封じられ、長い長い時間眠り続けていた九頭竜は――日ノ本の大地を糸魚川から駿河湾へかけて南北に縦断している龍は、目覚めた。

 上社・下社両社の御柱をもって九頭竜を鎮めるべき諏訪家は、武田家に組み込まれ、戸隠の洞窟に鎮座していた「石」は今、加藤段蔵の肉体とともに砕けてすでに散った。

 善光寺平にも。

 そして、越軍と武田軍が早朝から壮絶な死闘を繰り広げていた川中島・八幡原にも。

 龍は、はしった。

 死の間際、もやは視力を失っていた山本勘助は、まだ武田信玄の宿星――羅睺の星の運命が変転していないことを見ることなく、逝ったのだ。

 八幡原の大地は、龍が息吹くかのごとき勢いで飛び跳ね、上下に揺れ、恐怖に嘶く馬の背中から次々と武士たちを振り落としていた。

 長槍を構えた足軽たちももはや大地に立ち続けることは叶わず、そのことごとくが転がるように崩れ落ち、倒れ込んでいた。

 さらには。

 川中島を挟んでいる二本の河が。

 犀川が。

 そして千曲川が。

 激流となって溢れかえり、八幡原の戦場へと流れ込んできた。

「じっ……地震だ……!」

「川が。犀川が、まるで、龍の如く……!」

「われらを、飲み込もうとしている!」

「これは神か。神の怒りか!?」

「信濃の神々が、われらを滅ぼそうとしているのか!?」

 武田家と上杉家。運命に引き寄せられるかのように、互いに一歩も譲らぬ覚悟で正面から激突した前代未聞の総力戦。果てしなく続く消耗戦。殲滅戦の末に、全軍の八割近い将兵が負傷し、疲弊しきっていた。討ち死にした者の数はすでに、数千を超えていた。あるいは、万に及んでいるかもしれなかった。

 越軍も。

 武田軍も。

 人馬ともに、この激震する大地と氾濫する川を前には、進むことも退くこともできず。

 もはや人々は誰も、合戦を継続することができなかった――。

「目覚めやがった……! 龍を、駆りやがった! オレたち人間の命など、この日ノ本の大地そのものから比べれば、虫けらのようなものだ……! だが! 越軍を撤退させたくとも、馬が言うことをきかねえ! てめえの足で大地に立ち、進むこともできねえ! その上、今や漆黒の濁流と化した犀川は地獄への三途の川だ! 善光寺に待たせてあった直江の旦那も、これじゃ謙信を迎えに来れねえ!」

 宇佐美定満も。

「邪魔をするなああああっ! 武田信玄の首までは、あとわずかなのだあああっ! 馬よ、進めっ! 進まぬかあああっ! たとえ信濃の神であろうとも、謙信の志の邪魔はさせんっ! 俺の夢を……地揺れごときが……鉄砲水ごときが……鎮まれ、鎮まれええええっ!」

 長尾政景も。

「……これは……軍師どのが予定していた作戦の結末とは、違う……なぜ? 『石』そのものが破壊されてしまったというのか……?」

 馬場信房も。

「逃げましょう! ああっでも、もう、一歩たりとも動くことができません! みな疲弊し、傷つき、その上にこの激震では立ち続けることすら……!」

 高坂弾正も。

 馬上で兵を率いる将兵たちはみな狂乱して踊り続ける馬の手綱を引き絞り、振り落とされぬように踏ん張るだけで精一杯だった。

 自らの足で大地に立っていた足軽たちはことごとく、崩れた。地に倒れ伏していた。

 ほんの一瞬のうちに、八幡原に展開していた「鶴翼」も「車懸」も、ともに事実上消滅していた。

 主君の未来を切り開くために。四度にわたる川中島での輪廻とも言うべき因縁を断ち切るために。彼らは、自らの命を投げ出して戦ってきた。討ち死にを遂げるために、戦ってきた。その合戦に決着をつけることもできず、勝敗を明らかにすることもならず、このようなかたちで濁流に――われら人間の意志を超越した「自然」にことごとく飲み込まれて死ぬのは無念である、と誰もが歯ぎしりし、血涙を流した。あたかも、甲越の両軍が遺恨を抱いて信念と信念をぶつけ合うために激突したこの戦いなど、悠久の時を黙って見てきた大地にとってはまるで「無意味」にすぎない、と告げられたかのようだった。

 すでにすべての旗本衆を最前線へ放って本陣内で影武者・逍遙軒信廉と二人きりとなっていた武田信玄は、この時、泰然自若として床几しょうぎの上に腰を下ろし、「次郎。勘助。山は動かぬ」と唇をんでいた。

「鎮まれ。信濃の神よ。龍よ。鎮まれ。何人たりとも、あたしと謙信との戦いの邪魔はさせん。この一戦に、うぬが口を挟む資格などない! 人間の世が来たことを、必ずや知らしめてみせる――!」

 その信玄の声に、呼応したかのように。

 崩壊して「円」の陣形を完全に喪失しつつあった越軍の中央に一人きりとなっていた上杉謙信は、自らまたがっていた愛馬「放生月毛」の首をそっと抱いて、囁いていた。

「恐れないで。武田信玄へと至る細い道が、今、開けた。わたしとともに、信玄のもとへ。決着を、つける時が来た」

 武田信玄が父親を甲斐から追放したと聞いて「あの女を誅する」と遺恨を抱いて以来十年、謙信は「義将」として一剣を磨いてきた――いや、十年は長すぎる。あるいは七年か、八年くらいだったろうか。

 毘沙門天の化身として生きてきた、わたしが倒れるか。

 人間の王として生き抜いてきた、信玄が倒れるか。

 決着を、つける。

 その「瞬間」は、今、唐突に訪れた。

 誰も予期していなかった、激震によって。

 この機会を逃せば、二度と、訪れない。

 あるいは――わたしが信玄に倒されたその瞬間に、九頭竜は鎮まるのかもしれない。神は、人間の少女に乗り越えられるのかもしれない。それでいい。それでもいい。わたしは、信玄を倒すために戦い続けてきた。しかしほんとうは、人ならざる者として生きねばならなかったわたしは、人間に打ち倒されることをこそ心の底で望んでいたのかもしれない。信玄と戦い、一騎打ちに及び、そして倒されることをこそ――あるいはこれが、恋という感情に限りなく近いものなのかもしれない、と謙信は思った。

 謙信は、頭を撫でられて鎮まった放生月毛とともに、龍の背中の如く揺れ続ける八幡原の大地の上を、駆けた。倒れ伏している甲越両軍の兵たちを避けながら、翼が生えているかのように、戦場を自在に駆けた。無人の野を行くが如く。

 誰もが、目を疑った。

「嘘だろう? なぜ、駆けられるんだ!?」

 赤備えの騎馬隊を率いて義信のもとに駆けつけていた飯富兵部も、そして突然川中島を襲ったこの激震のおかげで九死に一生を得た義信も、自分を乗せた馬の首を抱えて押さえ込むのに必死で、前進などできるはずもない。飯富兵部には、どうしても信じられなかった。白い行人包で顔を覆い隠した姫武将がただ一騎で、この揺れる大地を蹴りながら駆け続けている姿を、呆然と凝視することしかできなかった。

「兵部!? なぜ走れるんだ、この立つことすらできねえ川中島八幡原の大地の上を、あいつはなぜ、走れるんだ……!?」

「太郎、あり得ねえ! こんなことが、あるはずがねえ! この、世界の終わりが来たかのような地獄みてえな地揺れの中であんな真似ができる者は、もはや、人間じゃねえ……! あいつは、神だ……!」

 義信隊との激戦中に、地震という「水入り」を食らって馬から放りだされ倒れていた本庄繁長の目には、まるで、謙信が自ら人柱となって龍を鎮めるために駆けているように、見えた。

 行かないでください! もう、毘沙門天として生きなくてもいいんです! 謙信さま! あなたはボクの……! と本庄繁長は、泣いた。この激震にどうしても逆らうことができず、いくらあがいても立ち上がれぬ己の力の至らなさを恥じながら。

「揺れている。戸隠の山が、妙高の山が、暴れている。信濃の山脈は天の龍であり、山々より削り取りし砂を積み上げて川中島を築き上げた千曲川と犀川は地の龍であり、そして――そして、ご主君こそが人中の龍であったのだ。信濃を人間の国に造り替えようと戦い続けてきた武田信玄が倒すべき最後の龍であったのだ。だが」

 逃げに逃げ続けた高坂弾正を追撃してついに千曲川を渡河し、修羅地獄と化していた八幡原を進軍中にこの地震に遭遇した村上義清もまた、立ち往生する馬の背中を太股で締め付けたまま、一歩も進めない。

「だが、ご主君。あなたは、人間だ。人間の娘だ。龍として死んではならない。あなたは、武田信玄に、人間の王にただ打ち倒されるために生まれてきたはずがない……!」


 誰も謙信に近づくことすらできない騒乱の中で、ただ一人。

 その「人中の龍」と化した上杉謙信を阻む者が、いた。

 由利鎌之助。

 加藤段蔵ですら手出しすることができなかった、最凶の飯綱使い。

 彼女は男でもなければ、女でもない。もはや、己が何者であったかを、忘れている。

 加藤段蔵が戸隠の「石」に縛られ続けたのと同様に、由利鎌之助は己が体得した飯綱の術に呪縛され続けていた。飯綱の術は、禁断の「管狐くだぎつね」を用いて人を食い殺させる呪詛の技。忍びにすら白眼視される、凶悪異端の技である。

「……忍び……!? その、獣の群れは」

 片膝をついて激震をいなしている由利鎌之助の周囲には、数万匹もの「飯綱」が、ひしめいていた。

 これほどの数の飯綱を率いた経験は、鎌之助にもない。おそらくは、飯綱の術の伝承者の誰も、これほどの「呪」を集めたものはいない。すべては、「石」を破壊した加藤段蔵の執念を奇貨として成したわざだったと言える。

「上杉謙信。さすがだ。きみはこの九頭竜と、一体化している。九頭竜を敵と思っていない。だから、九頭竜が目覚めたこの八幡原を、自在に駆けることができる――でも、加藤段蔵の思い通りにはならない。ボクが、きみをここで打ち倒してあげよう。妙高の山々から、飯綱のことごとくがこの地揺れを察知して降りてきた。ボクとともに。きみを倒すには、今しかない」

「飯綱の術。忍びの世界からも修験道の世界からも、そして密教の世界からも追放され禁じられた『外道の法』か。そなたはなぜ、そのような力を手に入れた」

「生きるために、己の命とそして心を守るために、弱き者はいかなる力にも手を伸ばす。戸隠で『石』の光を浴びる幼子たちが後を絶たなかったのと同じに、きみが毘沙門天の『声』を聞いて神の化身になったのと同じに……絶対的な力を手に入れたボクが今もなおこうして男装していることから察してくれればいい。きみも、毘沙門天の化身となってからもずっと処女を貫いているのだろう?」

「……それでは、そなたは」

「もうボクの過去を詮索している時間はきみにはない。数え切れない飯綱が、瞬時にきみの五体を食いちぎり、骨だけにするからね。飯綱たちはこの地揺れの中だって駆けられる。絶対に逃げることは、できない」

「なぜ、わたしを殺そうとする」

「きみが武田信玄と戦おうとしているのと、同じ理由かな。最強の敵を、探し求めてきた。だが段蔵が信濃の山々のすべてから飯綱を追い払ってしまったがために、ボクの手駒を圧倒的に増やしてしまったがために、この一騎打ち、期せずしてボクの勝ちとなってしまったようだ。人間の娘に還るがいい、上杉謙信。ボクが、解き放ってあげよう」

 行っておいで、と囁きながら由利鎌之助が竹筒の蓋を開け、「管狐」を放っていた。

 謙信の喉笛を目指して管狐が大地を駆けると同時に、由利鎌之助を守っていた数万匹の飯綱が、いっせいに謙信へと襲いかかっていく。

 多数の小動物を用いて人間を呪詛し、襲撃させ、絶命に至らしめる――山の民ですら恐れる、忌まわしい呪術である。

 だが謙信にとっては、飯綱たちも、鎌之助から「呪詛」を与えられ続けた管狐も、己を脅かす存在ではなかった。憎むべき「敵」ではなかった。愛すべき、山の生き物たちだった。

 由利鎌之助の呪詛に操られ、足下から登ってくる無数の飯綱たちの、なんと愛らしいことだろう、と謙信は思った。生き物は無垢だ。春日山で何度も遭遇した熊たちが、無垢であったのと同じに。彼らは生きるために生きている。子を成すために生きている。死ぬべき時が来れば泣き言を漏らすこともなく黙って死んでいく。宇佐美定満がわたしに与え続けてくれた物言わぬ兎の縫いぐるみも、愛しかった。だが、ほんとうに愛しきものは、生きた兎であり、生きた熊であり、生きた飯綱たちなのだ――ああ。宇佐美定満は、春日山に閉じこもっていたわたしを教え導きながら、ずっと、このような目でわたしを見守っていてくれたのだ。

 謙信は、身を守ることも飯綱たちを倒すことも忘れた。

 人間はなぜ、この子たちのように、自然のままに生きられないのだろう、と思った。

「怯えないで。あなたたち山の生き物はみな、生まれながらに祝福された存在。『人間』の言葉を、呪詛を継がなくてもいい。それでも――わたしを食い殺したいのならば、山の巣から追われてお腹がすいているのならば、わたしの肉を、お食べ。この戦を起こした者は、わたしなのだから」

 飯綱たちの群れの中に埋もれて消え去るはずだった謙信は、そしてその謙信を守るように背中に乗せている放生月毛は、消えなかった。

 飯綱たちがいっせいに、謙信の身体からおずおずと離れ、そして、謙信の四方を取り巻いて、揺れる大地の上にひれ伏していた――。

 まるで、自然を、神を敬い、崇拝するかのように。

 管狐が飯綱を動かしていた「呪詛」の力は、跡形もなく消えていた。

 管狐は、謙信の肩の上に乗っている。

 大地に膝をついて己の「力」をぎりぎりまで振り絞っていた由利鎌之助は、そんな謙信を、呆然と見上げていた。

 謙信の身体には、傷ひとつついていない。

 全身の震えが、止まらなくなっていた。敗北の恐怖でも屈辱でもない。法悦の震えだった。飯綱の術の呪縛から、鎌之助は今、解放されていた。

 飯綱の術は破れた。殺せ。と鎌之助はかろうじて言葉を振り絞っていた。

 しかし謙信は、力尽きて倒れていく鎌之助を庇うかのように、彼女の身体を避けながら再び「前」へと駆けはじめていた。


「忍びよ。わたしを倒すものは、人間でなければならない」


 もう、信玄を目指す謙信を止める者は、誰もいない。

 なおも震撼しんかんし続ける八幡原の大地を、謙信は、突き進んだ。

 ついに、武田信玄を、視界に捕らえた。

「行くぞ。信玄の本陣が、見えてきた。決着の時だ、放生月毛。ここまでわたしを運んできてくれて、ありがとう――」

 信玄は、逃げようとしない。

 床几の上に不動の姿勢で腰を下ろし、謙信を待ち構えていた。

 目映い日光が、その信玄の全身を照らしだしている。

 眩しくて、はっきりとは見えない。


 来た。

 上杉謙信が、ただ一騎で、九頭竜の背中をまっすぐに駆けてきた。

 速い。

 まるで、光の如く。

 はじめて出会った時よりも、はるかに美しい。あの白装束を剥ぎ取れば、そこに、乙女として成長し成熟した謙信の素顔が、ある。

 武田信玄は、背後に控えている逍遙軒信廉に、

「お前には今までほんとうに助けられてきた、孫六。感謝してもしきれない。しかし、謙信とあたしとの宿命は、一対一で、決着を付けねばならない。絶対に謙信に手を出してはならない。もしも手を出せば、最後に残されたただ一人の実妹であろうとも、斬る」

 と静かに告げていた。

「もう……武田家も、長尾家も、上杉家もない。あたしと、謙信と、いずれが正しかったか。いずれの志が、勝ち残るのか。すべては、今、この時のために」

 信廉もまた、この果てしなく続く揺れの中では立っていることも床几に座っていることもできず、信玄の背後で膝をついてじっと伏していたが、

「……ずっとずっと待っていた相手が、白馬に乗って迎えに来てくれたのサ。姉上の、好きにするサネ」

 戦場で影武者を務めている時は無言という決まり事を破って、己の想いを信玄に伝えていた。

「次郎信繁のためにも、勘助のためにも、あたしは勝つ。必ず、謙信を打ち倒し、乗り越えてみせる……!」

 上田原であの村上義清に本陣を襲撃された時、信玄は恐怖で身体がすくんで軍配を取ることができなかった。

 今、もはや目と鼻の先まで迫っている龍は――上杉謙信の「武」は、その村上義清をもはるかに凌駕りょうがしている。上杉謙信は、妙高の山々の如く、人間として武将が到達できる武の限界を超えた高みにいる。今、この八幡原に展開している者は誰ひとり、二人のもとへはせ参じることすらできない。ただ一人、武田信玄だけが不動の姿勢で床几に座り、そして上杉謙信だけが馬を駆り太刀を抜いて信玄が待つ本陣へと突進していた。「風林火山」の軍旗が、倒れた。謙信を乗せた放生月毛が、踏み倒していたのだ。信玄が予測したよりもはるかに速く、放生月毛は謙信を信玄のもとへと到達させていた。まるで、九頭竜の背中に乗って滑り落ちてきたかのような信じがたい加速度だった。

「――武田信玄! これ以上八幡原に両軍が留まっていれば、みなことごく濁流に飲み込まれて死ぬ!」

「……この戦は、最後まで川中島に留まった者の勝ちだ、謙信。あたしは、骸になろうとも絶対に退かぬ」

「ならばこの戦、ここで終わらせる! そなたの命か! わたしの命か! いずれを九頭竜が持っていくかは――」

 馬上で謙信が、「小豆長光」を抜き放っていた。

「謙信! それは、われらが決めること!」

「もはやわれら二人の戦いに『不殺』はないぞ、信玄!」

 見えない。謙信の剣さばきが、見えない。

(これが、謙信の「本気」の一撃か!?)

 信玄は、驚愕していた。

 謙信に一騎打ちで勝つには、謙信が放つ最初の「一撃」を命がけで受け止めて、「後の先」を取るしかない。考えに考えた末、その結論を信玄は出していた。しかし、謙信の「一撃」は、あまりにも速すぎた。

 信玄は、軍配を手に握りしめると、咄嗟に己の顔を、そして首を庇った。一度、そして二度と、電撃的な速度で謙信の太刀が打ち込まれてきた。一突きめは眉間を、二突きめは喉を、まっすぐに貫こうと襲っていた。その太刀筋は信玄をもってしてもまったく見えない。二度の突きをかろうじて受けきった時、鉄製の軍配には無数の傷痕がついていた。見えない。防ぎきれたことが、奇跡だった。信繁が。勘助が。守って、くれたのか。そうとしか、思えなかった。到底、反撃など。

 もう、言葉を叫ぶ余裕は、信玄にも謙信にもない。

 謙信が大上段から振り下ろしてきた三度目の太刀を信玄が軍配でかろうじて受けた時、ついに、軍配は砕け散っていた。

 砕けるはずのない鉄の軍配が。

 星の、欠片のように。

 信玄は、己の宿星の運命を、知った。

 山本勘助が、武田信繁が、なにに抗い、なんのために自らの命をこの八幡原に捨てたのかを、悟った。

 瞬間、激痛。

 小豆長光の切っ先が、信玄の肩と首の狭間へと、食い込んでいた――。

 信玄の首筋から生命の力とともに真っ赤な鮮血が飛び散り、謙信が被る白い行人包を真紅に染めていった。

 この時、信玄には――。

 己が、武田家当主・武田信玄であることすら、もはや、わからなかった。

 意識が、遠のいていく。

 ただ。

 太刀も、槍も、手にしないままに。

 謙信の白い顔を覆い隠している行人包に、己の手を、伸ばしていた。

 行人包に、信玄の指が届いた。謙信は、馬上にいる。届くはずがない。しかし、届いていた。一瞬の激しい攻防の中、それほどに謙信と信玄の顔と顔とは、接近していた。

 謙信の素顔を、信玄は、間近に見ていた。はじめてのことだった。

「……つかまえた……」

 ああ。美しい。

 あたしが思い描いてきたよりもずっと。

 この世の誰よりも美しく、誰よりも強く、高潔で、そして、誰よりも孤高。

 謙信は、信玄の首に食い込ませた太刀をそれ以上押し込むことができず、時が止まったかのように静止していた。

 その真っ白い顔を、信玄の赤い血が覆っていく。

 謙信は――毘沙門天の少女は、親友をあやめようと太刀を振るい、そして今、親友の血を――人間の血を、浴びた。

「……しん、けん……ちゃん」

 赤い瞳が、濡れている。泣いているのか、けんしん。なぜ泣く。戦いは、あなたの勝ちだ。だが――。

 信玄は、薄れ行く意識の中で、訴えようとした。

 あなたは、神ではない。

 毘沙門天ではない。

 あなたは、あたしと同じ、人間の少女だ――ただ、父親の愛情を求めて泣き叫びながら必死で生き続けてきた、人間の少女だ……。

 あなたは、この天と地のもとに、一人ではない……。

 あたしが、いる。

 謙信の太刀が信玄の首を捕らえ、信玄の震える指が謙信の行人包を剥ぎ取ったこの時。

 謙信が信玄の返り血を浴びて(わたしはいったいなにをやっていたのだ。わたしは、たった一人のお友達を、この手で殺そうと……)と自らが毘沙門天の化身であるという物語から脱したかのように震えはじめ、涙を流した、この時。

 大地の振動が、まるで幻だったかのように、静止していた。

 千曲川と犀川の氾濫も、ぴたりと止まった。

 あれほどに暴れ狂っていた九頭竜が、二人の姫武将が流した血と涙に呼応したかのように、鎮まっていた。

 しかし――九頭竜が、神が止まると同時に。

 越軍兵と、武田兵が。

 人々が。

 再び、槍を握りしめて立ち上がろうとしていた。

 上杉謙信は――毘沙門天は、今、武田信玄の本陣にいる。二人は、一騎打ちに及んでいる。そして信玄は今や、謙信に首をはね飛ばされようとしている。あとほんのわずか、謙信が太刀を握る手に力を込めれば、それで。

「行けえええええ! 典厩さまに続いて御屋形さまを討ち死にさせるなああ!」

「全軍玉砕してでも、御屋形さまを救えええええ!」

「姉上ええええええ! 絶対に、やらせるかあああああ!」

「謙信さまが武田軍に包囲される! 者ども、謙信さまをお守りせよおおおお!」

「なぜ斬らぬ! あと一押しだというのに、謙信……! 越後を、関東を、放り投げるつもりか!」

「……謙信、お前。敵本陣のまっただ中で……虎千代に、戻って……これでよかったのかもしれない。だが、このままでは……!」

 謙信は、斬れなかった。信玄の首を、飛ばせなかった。

 そして信玄もまた、ずっと憧れ続けてきた謙信の素顔を間近に見つめながら、震えていた。無防備なまま謙信が自分の懐に飛び込んでいるというのに、武器を取ろうとは、しなかった。

 互いの主君の命を救うべく、両軍の将兵たちが四方からいっせいに武田本陣へと向かってくる。

 越軍の兵たちも。武田軍の兵たちも。もはや、我を忘れていた。目の前で、散ろうとしている。二つの巨星が、落ちようとしている。風林火山の旗も。毘の旗も。守らねばならない。戦わねばならない。ついに大地の揺れが止まった今、全軍の将兵たちの戦意は己の生死の意味すら忘れ、涅槃ねはんを越えていた。泣き止むことなく馬上で嗚咽おえつしている謙信も、その謙信になにごとかを伝えようと失血しながらうわごとを呟いて指を伸ばし、謙信の血にまみれた頬を撫でようとしている信玄も、この乱戦の中で、ともにここで死ぬだろう。それが、二人の運命だったのだ。殺し合うために。ともに滅びるために。神の化身と、人間の王。戸隠を守護する毘沙門天と、諏訪の血筋を飲み込んだ不動明王。覚醒した九頭竜を鎮める「にえ」となるために。二人は、この地上で出会ったのだ。

 だが。

 その運命に、断固として抗った者がいた。

 信玄と謙信の一騎打ちをじっと見守っていた逍遙軒信廉が、万感の思いを込めて叫んでいた。

「姉上! 謙信公! ご免!」

 信廉は即座に槍を掴み、謙信が乗る放生月毛の尻を槍先で突いていた。

 放生月毛は一声嘶くと、信玄のもとから反転して武田本陣を飛びだし、謙信の身体とそして命とを守るかのように逆方向へと駆けていた。

 宇佐美定満が、長尾政景が、柿崎景家が、ただ一騎で犀川を目指して駆けていた放生月毛の背後へと追いすがり、かろうじて生き残っていた漆黒の越後軍団全員が、放生月毛を先頭に一個の巨大な蜂矢の龍の如く、八幡原を疾走した。誰もが、戦いの果てに疲弊していた。身体に傷を負っていないものは、ほとんどいない。大勢の兵の命が、すでに八幡原に散っていた。真紅の武田軍団が、越軍の犀川渡河を阻止せんと「壁」を成して守り抜こうとしたが、すでに彼ら武田軍団の将兵たちもほぼ全員が負傷し、消耗していた。武田軍の死者の数は、もはやどれほどになったか誰にもわからない。乱戦の最中、濁流となった水に呑まれた者もいた。八幡原の至るところに、越軍の兵と、武田軍の兵とが、折り重なるように倒れている。矢折れ刀尽きて散っていった兵の数は、両軍合わせて五千か。七千か。あるいは一万か。負傷者は、総兵の八割にも及んでいるだろう。

「……わたしは……わたしは……なんという、愚かな戦をしてしまったのだ……どれほどの命が、わたしと信玄との鬼ごっこのために……この川中島に、消えてしまったのか……」

 溢れる涙を抑えることができず、放生月毛に揺られながら駆けていく上杉謙信を、武田兵の誰も止めることができなかった。謙信の背後に、龍の背中の如く少女を守る越軍の男たちが、必死の形相で追いすがっていたからだった。

 越後の男たちは、謙信を毘沙門天として崇めるためではなく、ただ謙信という少女を越後へと生還させるために、毘沙門天の真言を唱えながら血の行軍を続けた。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ。

 漆黒の越軍はまるで長蛇の如き縦陣型を形作りながら、真紅の武田軍団を中央から真っ二つに割って、そして犀川を渡りきっていた――。

 開戦直前に善光寺で喀血かっけつして倒れていた直江大和が、無表情を崩さぬままに犀川北岸へと兵を進め、越軍を、そして謙信を出迎えていた。直江大和が謙信にいつものように憎まれ口を叩いたのか、それとも「生きて戻ってきてくださったこと、感謝いたします。お嬢さま」と落涙したのかは、誰にもわからない。


 生き延びたほぼ全員が負傷し、かつ三千の兵士を失った越軍は、直江大和から戸隠の「石」が完全に破壊されたことを知らされると、「善光寺の秘仏も戸隠の『石』も失われた。もはや北信濃にご主君が踏みとどまる理由は、大義は消滅した――もう、川中島で戦わなくてよいのだ。ご主君は、川中島の輪廻から解き放たれた」との村上義清の進言を入れて善光寺平を去り、全軍で越後へと帰還した。

 四千の死者を合わせると一万五千を越える死傷者を出し、副将・武田信繁や軍師・山本勘助ら甚大な犠牲を払った川中島・八幡原に最後まで踏みとどまった武田軍は、申の刻に至り、勝ちどきをあげた――。

 しかし、その勝ちどきの儀式の場には、信玄を支え続けてきた武田信繁も山本勘助も、そして真田幸隆もいなかった。幸隆もまた、乱戦の中で消息を絶っていたのである。

 戸隠と飯綱の両山から越軍が撤退したことで、北信濃に残されたもうひとつの霊山である飯山も、ほぼ自動的に武田方の勢力下に入った。霧隠才蔵の投降によって。

 望月千代女を戸隠から救い出して飯山に撤退していた霧隠才蔵から、猿飛佐助の死を告げられた時、「われらは最後まで八幡原に留まった。最後に立っていた者の勝ちなのだ。この戦、武田の勝ちだ」と生き延びた将兵たちに、そして川中島に散っていった将兵たちのために繰り返していた信玄は、ついに耐えきれなくなって落涙した。

 その夜――高坂弾正が、敵味方の別なく両軍の死者を弔うために塚を設け、諸将とともに鎮魂の儀式をはじめていた頃。

 第三次川中島の合戦の折、謙信が打倒信玄を誓って飯山に奉納した「願文」が信玄のもとへと渡っていた。「願文」には、武田信玄の悪行が書き連ねられていた。飯縄、戸隠、小菅の北信濃三大霊山を襲い奪おうとしていること。太原雪斎の斡旋によって結んだ和睦を一方的に破ったこと。善光寺の権威を冒し信濃の神仏ことごとくを奪い取ろうとしていること。一方的に隣国の信濃を侵掠し続けていること。父・武田信虎を甲斐から追放して国を奪い取ったことなど。どれもみな、日ノ本の人間ならば誰もが知っていることであった。武田信玄ほど諸国の大名たちにその知謀と強さを恐れられた姫武将はおらず、同時に信玄ほど同時代の人々に「我欲で生きる野望の姫武将」と非難されたものもいなかった。

「いちいち、誰もが知っていることを執拗に書き連ねているな。合戦の最中にわざわざ飯山に参拝してまで残していくべき願文だろうか。生真面目な謙信らしい。筆まめで、まったくもって、くどい」

 信廉たちを下がらせ、夜の八幡原の本陣内で一人きりで謙信の願文を読んでいた信玄は、ふと気づいた。願文の紙が妙に分厚いことに。謙信直筆の願文は、二重に張り合わされていたのだ。

 誤って破ってしまってはならない。信玄がその二重になっていた願文の紙をおそるおそる引きはがしてみると、格式ばった表の願文とはまるで違う少女らしい柔らかな文体で書かれた、「隠し願文」が現れていた。すべて、ひらがなで書かれていた。この「隠し願文」は「武将」ではなく、「姫」として書かれたものだ、と信玄はすぐに気づいた。幼い文章だった。上杉謙信は武将としては無敵の軍神であろうとも、姫としては、ほんとうに幼く、そして純真なのだ。


 しんけんちゃんは、えちごにひとりしかいないひめぶしょうとしてこどくにいきてきたわたしの、ただひとりのおともだちです。

 はじめてであうまで、わたしは、しんけんちゃんをとてもわるいおんなのこだとおもいこんでいました。

 でも、それはまちがいでした。

 しんけんちゃんが、おちちうえをにくんでついほうしたのではないことを、いまのわたしはしっています。

 ほんとうは、とてもやさしいひとなのです。

 しんけんちゃんは、おちちうえに、あいされたかったのです。

 だから、たけだのいえをひきいて、たたかわねばならなかったのです。

 おちちうえをすくうために、びしゃもんてんにならねばならなかった、わたしと、おなじなのです。

 でも。

 いつかきっと。

 かわなかじまでのおわらないたたかいのゆめが、おわったときに。

 わたしと、しんけんちゃんとが、てをとりあって。

 いっしょに、いきていけるような。

 そんなひがくることを、わたしは、いつもねがっています。

 とがくしのかみさま。いいづなのかみさま。いいやまのかみさま。

 わたしはそのひがくるのならば、いかなるかなしみにも、たえます。

 ですから。

 どうか、このゆめをかなえてください。

 いつか、しんけんちゃんに、わたしのおもいが、つたわりますように。


 この願文を読み終えた時。

 ああ。あたしが心惹かれ、こよなく愛してやまなかった諏訪法性の兜の「髪」の色は、謙信の髪の色にそっくりなのだ、と信玄ははじめて理解していた。そして、自分の隣でその兜をともに被っていた信繁はもういないということに気づき、果てしのない寂寥せきりょうの中、両手で顔を覆っていた。

 夜が明けるまで、泣き続けた。



「前半戦は、越軍の勝利。後半戦は、武田軍の勝利。ですが、公平に見てこの合戦は、引き分けです。両軍、痛み分けです。八幡原は、死屍累々ししるいるいではないですか……古今最強の両雄が、ハカのいかぬ戦をしたものです。これでは、武田上洛の夢も、関東管領復興の志も……なにもかもが……」

 旭山の中腹に登り、この合戦の一部始終を見聞していた美濃浪人・明智十兵衛光秀は、甲越両軍のこの前代未聞とも言える凄まじい殲滅戦を震えながらその目に焼き付けていた。そして、武田信玄の上洛も、上杉謙信の再上洛も、ともに限りなく困難なものになったと知り、(将軍足利義輝さまの命運は尽きるかもしれません)と胸を痛めた。

 明智光秀は幼い頃より美濃国主・斎藤道三に「わが才と志を継ぐ者」と見込まれて小姓を務めてきたが、その斎藤道三はすでに息子の義龍に追われて尾張の織田信奈のもとへ亡命している。道三に与した明智家も没落し、光秀は道三から「いずれ信奈どのの片腕となるべく、武者修行をしてほしい」と命令を受け、老いた母を連れて天下を見聞するべく浪々の旅に出ていた――。

 その母を堺に留め、単身で遠く信濃まで足を延ばし、「戦国最強」と名高い武田と上杉の決戦を自らの目で見ようとしたのは、後学のためでもあり、「天下人にもっとも近い武将」と呼ばれた今川義元が天下盗り争いから脱落して以来混沌としている日ノ本の情勢を読むためでもあった。

 だが、今の光秀にはもう、そのような知恵を働かせている余裕はなかった。ただ、八幡原に散っていった大勢の死傷者のために――未来永劫、日ノ本に語り継がれる伝説となった合戦に殉じていったもののふたちのために、しばし合掌していた。その若々しい頬に、途切れることなく涙が伝う。

「桶狭間の合戦」から誘爆されるかの如く勃発した二つの大戦――「上杉謙信の関東遠征」と「第四次川中島の合戦」。真の勝者は、一人もいない。はじめから関東より動くつもりがない北条はもちろん、関東管領職を継いでしまった上杉謙信も、むろん川中島で副将や軍師を次々と失い大打撃を受けた武田信玄も、これで容易に京には出られなくなった。

 これほどの犠牲を払ってもなお上杉を倒せなかった武田は、三国同盟を破棄して駿河へ侵攻する他はなくなった。必然的に、旧今川領を巡って北条と武田との合戦になる。そして上杉謙信は、律儀に関東遠征を続けるのだろう。一寸の領土も切り取ろうとせず、愚直に「義」を関東に知らしめるために、決して対決しようとしない北条氏康とのいたちごっこを続けることになるのだろう。北信濃に派遣していた風魔衆から「第四次川中島の合戦」の顛末てんまつを知らされて震え上がるだろう北条氏康はもう絶対に、上杉謙信と決戦に及んだりはしない。武田信玄が実妹と軍師を犠牲にしてまでなお勝てなかった謙信を相手に戦うなど。氏康は、謙信が越後へ帰った留守を狙って、関東に再侵攻する。謙信が関東へ出兵すれば、逃げる。氏康は己の生涯のすべてを、撤退戦術の繰り返しに捧げるかもしれない。しかも謙信の祖父の代から越後を悩ませてきた越中一揆が、謙信の関東鎮護の夢を阻むだろう。上杉憲政うえすぎのりまさとともに関東になおも粘っている近衛前久このえさきひさはまもなく、都へ帰還する他はなくなるだろう。

 南近江の六角承禎ろっかくしょうていも、従属していた六角家からの再度の独立を目論んで立ち上がった若き北近江の戦国大名・浅井長政に敗れていた。三好松永勢と足利義輝との戦いは、圧倒的に足利義輝不利となった。今川義元を倒したことで「天下人候補」として名乗りをあげた織田信奈が美濃を切り取るまで、幕府はもたない。天下の奇才・斎藤道三が築き上げた稲葉山城は、容易には落ちない。信奈の父・信秀が何度攻めかかっても、そよとも揺るがなかった名城なのだ。

 及ばずながらこの十兵衛が足利義輝さまにお仕えして、幕府を、将軍を守らなければならないですと誓いながら、光秀は(都へ戻る前に。高坂弾正どのが建てられた鎮魂の首塚に、桔梗の花を)と決めていた。



 深夜――千曲川の沿岸。

 真田幸隆は、隻眼を見開いて息絶えていた勘助の遺骸をついに発見すると、その頭を膝の上に載せて、そして囁いていた。

「勘助どの。わたくしが戸隠の『石』から得た力は――『不老の力』。幼き頃。真田の庄に公界を作る、身分も出自もかかわりない楽園を作るというわたくしの夢のために、『石』に挑戦したのですわ。けれども、長きにわたって生き続けてきたわたくしは、ようやく悟りました。人間の命には、『終わり』があるからこそ、人は美しいのだ、人生には価値があるのだ、と。結果や成果にではなく……見果てぬ夢を目指して運命に抗い続けるその道程こそが、『生きる』ということなのだと」

 ですから、わたくしの「力」はここで、終わりにします、と幸隆は微笑み、自らの手首を切って勘助の乾いた唇へ溢れる血を垂らしていた。

「わたくしの『血』を勘助どのに飲ませることで、わが『力』は、勘助どののもとへと移譲されます。あなたの心の臓は再び動きはじめ、あなたご自身に与えられた『天命』が定めた命を、まっとうすることができましょう。わたくしは老い、そしてただの人間としてひっそりと死にます。わたくしとあなたと、いずれが先に逝くかは、わかりませんが……急激に老いるわたくしはもはや武将としては働けますまい。御屋形さまを。武田家を。真田の娘たちを。お守りください。勘助どののお志を……命ある限り、最後まで……」

 幸隆が己の「命」そのものを用いてもなお、勘助の蘇生は容易ではなかった。勘助が息を吹き返して再び信玄のもとへ復帰することが可能になるまで、一年か、あるいは二年か。それまでの間、幸隆は勘助につきっきりでいなければならない。力の限界を超えて身体を壊し、倒れてしまった「双子」が、心配だった。幸隆同様に、「双子」ももう、最前線には戻れないだろう。だが、幸隆にはなおも三人の娘がいた。源五郎、源三郎、そして源二郎。

 真田家の行く末よりも、武田家をこそ、幸隆は案じていた。ついに、上杉謙信を倒して越後直江津へ侵攻するという北進の道は断たれた。駿河攻めがはじまる。柱石・信繁を失った武田家は、駿河攻めを巡って二つに分裂する。信玄と義信。実の姉弟が骨肉の争いを繰り広げることになる。武田家の悲劇を阻止できる者は、勘助どのしかいない。


 勘助の心の臓が、再び、鼓動を打っていた。

 今ひとたびの命を、山本勘助は、与えられていた――真田の母の命を、彼は受け継いでいたのだった。

 やがて、ゆっくりと勘助はその隻眼を開いていた。赤子の頃。母の胎内よりこの世に生まれ落ちた時の感覚を、勘助はもうろうとした意識の中でおぼろげながらに感じていた。今の勘助の知能は、生まれたての赤子に等しい。脳に、著しい損傷を受けている。心が、人格が、記憶が元のように蘇るまでには、なおも日数が必要だろう。愛情を注いだ介護が、必要だろう。今の彼は自分の名前すら、思い出せなかった。自分の頭を膝に乗せて微笑んでいる老婆の顔にすら、見覚えがなかった。

 ただ、勘助は八幡原の大地を照らしだすかのように眩しく輝く満天の星の中に、羅睺の星を見た。隻眼から、訳もなく涙が溢れた。

「……御屋形さまは、生きて、おられる。運命は、覆った……!」

 そう呟こうとしたが、彼にはその言葉の意味すら理解できず、唇もまた自由に動かず、赤子のような泣き声をあげることしかできなかった。

 真田幸隆は、そんな勘助の頭をそっと撫でながら、ともに妙高の山の彼方まで連なる星空を仰いでいた。


(了)


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天と地と姫と 織田信奈の野望 外伝/春日みかげ ファンタジア文庫 @fantasia

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