15 物語は終わらない

「母さんが、一応見張っといてって」


 ユウキは素早く本を手にし、胸に抱きしめる。


「きっとこの本を探しに来るだろうからって。病院で母さんが見張るって言ってたけど、俺もちょっと心配だった。姉ちゃん、むちゃするタイプだし」


 タクヤは悲しげに首を振ると手に持っていた紙を目の高さに掲げた。

 それはユウキの残した置き手紙だった。


『本の中に行ってきます』


 あの時は、本当にすぐに戻ってくるつもりでそう書いた。クリスに、待たないでと告げたらすぐに。

 だが、そう告げて終わったはずなのに、ユウキの心はあの世界に置き去りになってしまっている。

 取りに行かなければならないのだ。どうしても。

 彼が待っていないかを確認しようと思っていただけだと言うのに、ユウキの心はひどく逸っている。

 ユウキは忙しくページをめくる。結末を探す。


「それ、姉ちゃんが書いたのか?」


 タクヤがぽつり、呟いた。表紙にあったユウキの名前を見たのだろう。


「クリスって誰だ? そいつのところに行こうとしてる? そいつのせいで、姉ちゃん怪我したんだろ? なのに、そいつが困ってるからって、また行くんだ?」

「え、クリスって……読んだ!?」


 ユウキは愕然として顔を上げる。そして、前回、《御伽噺奇譚》を読んだ時、自分の体験したことがそのまま綴られていたことを思い出して頭が真っ白になる。

 クリスとのあんなことやこんなことがユウキの視点で書いてあるのだ。それを、母と弟に読まれた。


(うわあああ、恥ずかしすぎる!)


 パニックに陥るユウキだったが、ふと今のタクヤの言葉が引っかかり、冷静さを取り戻す。


「困ってる……って」


 すっと背筋が冷えた。慌ててユウキは《御伽噺奇譚》の最後のページを探そうとして、途中、ふと手を止める。そこは白雪姫のラストシーン。ユウキの登場で書き換わっているはずが、未だに王子は白雪姫の目覚めを待っていると書かれたままだったのだ。


「え? どういうこと? まだ、お話が終わってない……?」


 さらにページをめくると、人魚姫のラストシーンへとようやくたどり着いた。

 するとそこには『王子様は海に落ちた人魚姫を探し続けている』と書いてある。

 愕然とするユウキの前で、タクヤは目を釣り上げた。


「これを読んで、姉ちゃんを飲み込むまで、物語は終わらないって母さん言ってた。だから――こんな本、こうしてやる!」

「ちょっと何して――」


 タクヤが本を奪い、両手で左右に引っ張った。破ろうとしているのだ。慌ててユウキは飛びつこうとするが、身長が頭一つ違うせいで、頭上に持ち上げられると届かない。

 しかし、タクヤが――野球部で鍛えているはずの弟がいくら力を入れても本は破れなかった。

 気味が悪そうにタクヤは本を見る。


「……やっぱり駄目なのか」

「やっぱりって?」


 タクヤは顔をしかめた。


「この本、一度捨てたんだ。だけどすぐにポストに入れられてて。気味悪がって母さんが、燃やしてしまおうって火をつけたけど……燃えなかった。焦げさえつけられなかったんだ。切り刻もうとして分解しようとしたけど、紐が硬すぎて解けないし……どうなってんだ」

「え?」


 前回紐を引っ張ったらあっさりと解けたというのに。何かに守られているのだろうか。

 燃えてしまわなかったことに心底ホッとしながらも、


(え――でも、紐が解けなかったら、あちらに行けないんじゃあ)


 にわかにユウキは焦った。


(確かめないと!)


 タクヤに飛びつく。本を奪おうとしたが、タクヤは「だめだ! 姉ちゃん、行かせないからな!」と本を離さなかった。


「お願い、邪魔をしないで。わたし、にやり残したことがある。どうしても行かないと」

「あんな怪我しておいて、また行くつもりなのかよ。やめろよ。これ以上心配させんな」


 有無を言わせない迫力があった。こんなタクヤははじめて見たかもしれないとユウキは怯む。

 図体ばかり大きいけれど、可愛い弟のはずだった。だけど、短期間で随分成長したクリスを思い返すと、この子も男なのだと変な感慨深さがあった。

 それでも、負ける訳にはいかない。

 本を挟んで、ぎり、と睨み合ったその時、ふと開かれていたページが視界の端に入った。


「は?」


 思わずマヌケな声が漏れる。目に入ったのは本の奥付。そこに見知った名前が刻み込まれていたのだ。


「どういう、こと?」


 頭のなかに一つの仮説が浮かび上がる。それはユウキが今の今まで全く考えつかなかったことだった。

 激しく混乱していると、タクヤが「何?」と心配そうにユウキを覗き込む。タクヤの手が僅かに緩んだその瞬間、ユウキは何かに命じられたかのように綴紐を引っ張っていた。

 先程タクヤがいくら引っ張っても解けなかった紐がほろりと緩む。

 本が、弾けるように分散する。

 タクヤが必死の形相でユウキを引き寄せよる。だが、確かに抱きしめられているというのに、感覚がまるで感じられなかった。 

 桜の花びらのようにパラパラと紙が落ちてくる。

 スローモーションがかかったかのようだとユウキは思う。

 それらがユウキに覆いかぶさり、触れた直後、ユウキは何かに引きずられるようにして異世界への扉をくぐっていた。



 *



 そこは相も変わらず真っ暗な世界だった。

 そして耳が痛くなるほどに音がない。タイプ音が聞こえてくるはずなのにとユウキは不思議に思いながらも、暗闇の世界を歩いた。

 さすがに三度目だし、覚悟を決めてここにやってきたため、もう取り乱すこともない。

 いざとなったらこの世界でクリスとともに生きる。そう考えれば怖いものなどないのだった。

 とにかく今はクリスに会いたかった。

 そうして、確かめなければならないことがあった。

 一歩。更に一歩。呑み込まれそうな闇の中をユウキは歩く。

 案内人を探していた。

 彼がいなければ、あの世界には行けないことに気がつくと急に怖くなる。

 もしそうなれば、クリスに会えずに、無駄に家族を切り離してしまったことになってしまう。


「グリム――グリム! 居るんでしょう!」


 ユウキが叫ぶと、ぼうっと右側の一点が明るくなった。

 目を凝らす。

 そこでは青年が膝を抱え込んで座っている。

 相変わらずの学生服。そして頭には今度はトラのかぶりものだ。

 グリムは無言で顔を膝に埋めている。


「ねえ……どうしたの」


 前回までとあまりにも調子が違う。どうしたのだろうとユウキは彼の顔を覗き込む。だが、きぐるみの顔色などわかるわけがない。


「疲れているんだ」


 言葉の通り、声のトーンが低い。ため息混じりに彼は続けた。


「思い通りに行かない。中の人物キャラクターが勝手に動きすぎて、本がいつまでたっても完全に修復できない」


 白雪姫のラストシーンを思い出す。そのことだろうか。


「あなたが言ったんじゃない? 物語は生きているって。作者の魂を切り分けてるから勝手に動くって」


 そうして、それをグリムも望んでいるとユウキは認識していた。


「……そうだなぁ。わかっているようでわかっていなかったのかもしれない。いや、この本のキャラクターは弱ってるから侮っていたって言っていいかな」


 ユウキはふと疑問に思った。


(あれ? そういえば)


 グリムが納得するような修理ができていないのに、なぜユウキは外に出ることができたのだろうか。矛盾を感じて眉を寄せる。


「あなたの言う完璧な物語って何?」


 この人はどんな結末を望んでいるのだろう。

 グリムは体操座りのまま、しばし無言で考えたあと、ポツリと言った。


「物語の中で魂の込められた人物が、本物の人生を歩むこと、かな」


 グリムは乾いた笑いを漏らす。


「君はいつまでも呑み込まれてくれないね。この本は君の魂が欲しくて、何重にも罠を張っているというのに。あと一歩というところで、逃げられてしまう。ここに来たばかりの時は、あっさり呑み込まれてくれると思っていたんだが、逆に本から力を吸収してしまった。生きる力を取り戻してしまったらしいな」

「罠っていうのは……クリスのこと?」


 ユウキが何度でもこの世界に飛び込んだのは、クリスというがあったからこそだ。そして、今度こそ、ユウキは餌に引き寄せられ、釣り上げられようとしている。


「罠を壊すヤツがいてね。寂しいのはヤツも同じなくせに――本当に腹が立つ」


 


 不意にそんな疑問が体の奥から突き上げてくる。ユウキはきぐるみに手を伸ばす。だが、彼が顔を上げて我に返る。ユウキは思わず手を引っ込めた。

 トラのきぐるみがユウキに問う。


「ここに来たということは――また行くのか?」

「うん。行く」


 ユウキは即答した。


には会えないかもしれないよ。君の会いたい人には関わりのない、全く別の物語に入り込むかもしれない」

「……わかってる」


 クリスに簡単に会えなかった前回の旅を思い出して、ユウキはわずかに怯む。

 だが――世界はつながっている。きっと、どこかで。


「それでも、会えるまで何度でも行く」


 とたん、視界が真っ白にひらけ、重力が逆転する。

 グリムが遠ざかっていく。

 ユウキは、トラが微かに笑った気がした。 

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