12 君に見せたいものがある
病室には蛍光灯が一本、頼りなげに灯っていた。
ユウキが戻ると、母が心配そうな、そして怒ったような顔で駆け寄ってくる。
「ユウキ――あんた一体何して……」
遮るようにしてユウキは言う。
「お母さん、本を返して」
こんなにはっきりと遠慮なしに、母に要望を訴えたことがあっただろうか。
ユウキは記憶を探るけれど、思い当たらなかった。
かつて、ユウキは母に嫌われたくなくて自分の望みを口にするのを恐れていた。そうするのが常のはずだった。だけど今、たとえ母に嫌われようとも、この望みだけは叶えなければならないと思っていた。
(わたしは、お母さんに止められても、クリスの幸せのために出来ることをしたい――いや、するんだから!)
これは突如やってきた反抗期かもしれない。驚いたのか、母は薄暗い部屋でもわかるくらいに青ざめたあと、小さく首を横に振る。
「昼にも言ったでしょ。わたしは知らないよ」
「どこに隠したの?」
思わず声が大きくなる。
「知らないって言ってるでしょう。とにかく夜も遅いし、その話は明日。他の人の迷惑になるからもう寝なさい」
ユウキの上ずった声がおかしいくらいに、母は落ち着いた声をしていた。顔には笑みも浮かべていた。だがどこかぎこちない笑みは仮面をかぶったかのように思えた。
部屋の入口で困惑した様子の看護師さんが「とにかく寝たほうがいいのは確かだね。今はお母さんの言うとおりにしておこうか」と近寄る。ユウキをベッドに寝かせる。母も「お母さんも寝るからね、ユウキもちゃんと寝ないといつまでも退院できないよ」と言ってベッドに横になると毛布をかぶる。頑なな態度を見てユウキは方法を変えなければだめだと思った。
「眠れないなら、処方してもらってる薬を飲む?」
看護師さんの言葉に「要りません、疲れたので眠れると思います」とユウキが小さく答えると、毛布をかぶったままこわばっている母のちからが抜けるのがわかった。
こっそりとサイドボードに手をやると置いてあったスマホを取る。光が外にもれないように布団の中でスマホを立ち上げる。時計を見ると夜中の二時を少し回ったところだった。
ユウキは息を殺して音を拾う。そして母の息が規則的になり寝息となるのをじっと待った。
どこかで、ちっちっち……と時計の秒針が動いているのがわかる。暗く暖かな空間は心地よいはずだけれど、目だけは異様に冴えていた。
やがて母が寝入る。ユウキはそっとベッドから降りる。カーディガンを寝間着の上にはおり、スリッパを履かずに手に持って、裸足のままで部屋を抜け出す。
本があるとしたら家だと思った。だからこそ母が家に戻る前に、手に入れなければならないと思った。あの頑なさを思うと、処分されてしまうかもしれないからだ。
ユウキはエレベーターホールへと向かう。だが、階下へと向かうボタンを押そうとしたとき、『7』となっていたエレベーターの階数表示が動きを見せた。
(え、こんな時間に? 巡回?)
見つかったらまずいとユウキは焦る。エレベーターは危険かもしれない。とっさに非常階段へと逃げ込むが、扉は重く、思ったよりも大きな音を立ててヒヤリとした。
ユウキは急いで階段を駆け下りる。ペタペタと素足が廊下にくっついて音を立てる。靴下を履いてこようかと思うけれど、もうかまっていられない。後ろから誰かが追ってくる気がして仕方がなかったのだ。
だが一階にたどり着き、非常階段の扉を開けたとき。
「ひっ――」
思わず声が漏れる。出入り口を塞ぐように人影が立ちふさがっていた。
「こんな夜に、散歩かな。主治医としては、容認できないな」
呆然と見上げるユウキの目線の先には真山先生の顔があった。
「……先生こそ、こんな時間に、何を」
当直などはあるだろうけれど、巡回は看護師さんや、警備員の仕事ではないのだろうか。そもそも、どうしてユウキがここにいると思ったのだろうか。
ユウキが尋ねると真山先生は「僕は散歩だ。それから、階段ってのは音が響くものでね」と肩をすくめた。
冗談とも本気とも分からない口調と表情にユウキは返す言葉に詰まった。
「さっき看護師が報告してきたよ。ユウキちゃんは……気になることがあって、眠れなかったのかな」
真山先生は、そこで白衣のポケットから何かを取り出すとユウキに差し出した。
表紙を非常灯で照らして、はっと息を呑む。
それはユウキが病院の売店で買った文庫本。グリム童話集だった。
「君の落とし物だよ」
「あ、ありがとうござい、ます」
きっと七階で落としたのだろう。落としていたことを、今の今まで忘れていた。
「ユウキちゃんは……童話に興味があるのかな?」
「……あります」
しかし御伽噺奇譚のことがなければ、これほど惹かれなかっただろうとも思えた。
ユウキは表紙を見下ろす。
表紙にはリンゴを手にした魔女と、そしてお姫様が描かれていた。
どうして自分がこの本を手に取ったのか、よくわかった。忘れていても、心の底でクリスを欲していたのだ。
気がづくと胸が刺されたかのようで、急激に泣きたくなった。うつむくユウキに、真山先生はわずかに迷ったような雰囲気を纏わせる。
やがて、先生は何かを覚悟したかのように口を開いた。
「……ユウキちゃんは、もしかしたら……あの中に行ったんじゃないのかな。《御伽噺奇譚》っていう本の中に」
「え?」
どうして先生の口からそのタイトルが出てくるのだろう。
理解できずにユウキはただ目を瞬かせる。先生は更に言った。
「君に見せたいものがある。――ついてきてくれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます