11 アップルティーと記憶の鍵
部屋に帰ってきた母が激怒し、刑事さんたちは追い出された。タクヤが言うには、これ以上娘にまとわりつくのなら、弁護士に相談しますのでと、すごい剣幕だったらしい。
だが、ユウキはもう刑事のことなどどうでも良くなっていた。怪我をしていたことで不安もあり、警察がそばにいる安心感もあったのだろう。けれど、怪我の原因がこの世界にはないことを思い出してしまったら、もう彼らに用はなかった。
視界が急に開けた。暗いトンネルから一気に外に出たような。
どうやらしばらく眠っていたようだった。――いや、眠らされていた、が正しいのかもしれない、とユウキは腕の点滴を見て思う。
「……お母さん」
鎮静剤か何か、薬を打たれているのだろうか。心は気を失う前と比べるとずいぶん凪いでいた。
問いかけには「起きた?」と優しい声が返ってくる。
ゆるゆると目を動かすと、母の手にある大きな籠に焦点が合う。
御見舞の品だろうか。フルーツがたくさん盛ってある豪勢な籠だった。
その中の一点にユウキの目は釘付けになる。すると母が少し慌てたように視線を遮った。カゴの中を漁り、何かを籠の陰に隠す。
「……どうしたの? お腹すいた?」
母の顔が何となくこわばっている気がした。
ユウキがこれからする質問を知っているかのような顔だった。
「わたしの部屋に《御伽噺奇譚》っていう古い」
本と言う前に母はにこやかに遮った。
「なかったわよ、そんな本」
「……」
母さん、とタクヤがたしなめるように言う。だが、母はそれさえも無視して、フルーツの籠からメロンを取り出した。
「あら、美味しそう。早速いただこうね」
にこにこと笑顔を貼り付ける母をユウキはじっと見つめる。だが、何の反応も返ってこないことを知ると、タクヤを見る。けれど、弟は気まずげに顔をそらしただけだった。
母は病院に泊まることにしたらしい。母が荷物を家に取りに帰っている間、ユウキは病室のベッドの上で、じっと記憶と向き合っていた。ばらばらになったパズルを、丁寧に埋めていくような、そんな作業だった。
前回、図書館で本の中に飛び込んだあと、目覚めたのはこの病院だった。そして、本は図書館に落ちたままだった。
今回、本の中に飛び込んだのは自宅。ということは、自宅にそのまま本があった可能性が高かった。
母の言葉を信じるとしたら。警察の押収物に本がある可能性はある。だけれども――
(お母さんが隠してる、気がする)
ユウキの視線が届かないように籠の中のリンゴを隠した。それを見て、母が御伽噺奇譚を読んでいるのではないかと思った。
もともと隠し事の出来るほど器用ではない。なのに、必死で嘘を吐いているのは、あの本がユウキの怪我の原因だと知っているからなのではないだろうか。
(あのとき)
ユウキは本の中に行くという置き手紙をしていった。それを母たちは読んでいるはずだった。
荒唐無稽な話だけれど、作家の母なら信じる事ができるような気がした。だからこそ、恐れている。
ユウキが、またあちらの世界に飛び込むのではないかと心配している。
とそこまで考えたユウキはふ、と笑う。
(……また飛び込む?)
人魚姫は泡になったのだ。そしてこうして現世に生まれ変わった。
帰ると言ってきた。忘れてと言ってきた。だから次は、もうない。
苦しいけれど、これからは別々の世界で、生きていかなければならないのだ。
「……クリス」
幸せになるんだよ。
今度こそ、幸せに。
ベッドに潜り込むと、ユウキは祈るように繰り返し――記憶を美しい思い出として封じ込めようとする。
消灯時間が来たのは随分前のことに思えた。時計を見ると午前一時。母もいつの間にか病室に戻ってきていて、簡易ベッドで眠っている。けれど、いつまでも眠気はやってこない。鎮静剤が切れたのかもしれない。
ユウキはひとまず起き上がる。どうにも眠れそうにないし、追加で睡眠薬をもらいたいと思ったのだ。
ナースコールを押すかどうか悩んだけれど、大げさにすると母を起こしそうだ。カーディガンを羽織るとベッドを降りてスリッパを履く。
ひとまず温かい飲み物でも飲もうと思い立ったユウキは、サイドテーブルの上のスマホに気がついた。母がやってくれたのか、既に充電してあった。
スマホをポケットに入れて薄暗い廊下に出る。エレベーターホールを横切ると、表示が4、5、6――と変化する。真夜中にも関わらず稼働していた。7階で止まるエレベーターを見て、ふと昼間のことを思い出した。
(真山……って、ここに居るってことは患者さんだよね。先生のなんだろう)
なぜなのかわからないけれど、胸騒ぎがする。ユウキはナースステーションの前で立ち止まる。電気はついているけれど、看護師さんは奥で作業をしているようだった。
(聞いたら家族構成とか教えてくれないかなあ……)
そんなことが頭をよぎる。だが個人情報漏洩にうるさいこの頃だし、なんでそんなことを聞くのかと問われたら面倒だった。それに、ユウキが探りを入れたことが先生の耳に入るのが妙に怖かった。
結局、ユウキは一旦ナースステーションを離れる。そのまま自動販売機で飲み物を買うと、携帯使用可能エリアの椅子に腰掛けてスマホを立ち上げた。
非常灯の光だけが浮かぶ闇の中で、ぽうっとほのか光がユウキの顔を照らした。
ブラウザを開く。まやま病院、真山医師で検索をかける。病院のウェブサイトが引っかかる。フルネームを確認し、検索条件を変える。どんどんと次の項へと飛ぶ。
探しているのは個人情報。そうそう落ちているものではないと思っていたユウキだが、検索結果の三ページ目でふとスワイプを止める。
目に留まったのは真山先生のSNSアカウント。恐る恐るディスプレイをタップすると、ページが開く。
日付がまず目に入る。一年前から更新がなく、放置されている様子だった。
そこには次男が大学に合格したという報告が書かれていた。
有名大学の名前に目を眇めるけれど、ふとユウキは首を傾げた。
「え、医学部じゃないの?」
そこに書かれているのは文学部。おめでとうございますというコメントが数件入っていたけれど、返信には『反対を押し切って入ったからには、頑張ってもらわないと』とある。文面から歓迎していない雰囲気が伝わってくる。親の希望に応えられない悔しさ、切なさを思い出さずにいられない。
息苦しくなったユウキは画面を閉じる。
先程買った飲み物の栓を開けて一口飲む。
「……!」
無意識に選んでいたのはアップルティーだった。懐かしい、甘い香りが染み込んだとたん、息が詰まり、何かが手の上に落ちた。
水滴だった。おかしいと思ったユウキは目に手をやり、それが何なのかに気づいたときには嗚咽が喉から漏れ始めていた。
封じ込めていた想いが鍵をこじ開けて溢れ出していた。
(わたし、なにやってるの――こんなところで、なにやってるの!!)
生きていく世界が違う。そう思って誤魔化そうとしたけれど、無理だった。
彼は待てないと叫んだ。行くなと叫んでいた。
(ねえ、クリス。本当に幸せになったの? また待ってたりしないよね? ――絶対しないでよね?)
最後に見たクリスの顔が眼裏から消えない。
嗚咽を堪えきれない。
巡回中の看護師がユウキの声に気がついたらしく、慌てて近寄ってくる。
部屋に連れ戻されながら、ユウキは思う。
(御伽噺奇譚をみつけよう。そして、ちゃんと確認しなきゃ。ハッピーエンドになってなかったら……わたし、また、飛ばないと)
だけど、今度飛べば、もうユウキはこちらに戻ってこれない気がした。
グリムの言葉が頭をよぎる。
『物語が生きるにはね。人の魂が必要なんだよ。だから君に入ってもらった。あの本にはもう切り分ける魂が残っていないからね。物語は人の魂を餌に、なんとか命をつないでいる。餌に逃げられまいと罠を張る。せいぜい気をつけることだな』
ユウキはもう物語に半分魂を喰われているのかもしれない。そんな気がしてたまらなかった。
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